第三話 苦行
私は晩御飯の準備をしていた。
今日の献立は、銀ダラの西京焼きと、ほうれん草の胡麻和えと、ワカメの味噌汁と、冷やしトマトだ。我ながらバランスのとれたメニューだと思う。実はインターネットでレシピを検索してみたのだ。
先生は一人暮らしが長いらしいので、少しバランスを考えた食事にした方がいいかもしれないと思ったんだけど……。冷やしトマト以外は初めて作る。
雪村准教授の奥様は、現在別居状態、というか、逃げ出したと言うか、まぁそう言う状態なのだと庶務の及川さんから聞いた。変人だからというのが及川さんの説だが、そんなに変だろうか。先生は基本的に親切で、ジェントルマンだと私は思う。
もし先生が望むのならば、奥さんを連れ戻すために、私は協力を惜しまないだろう。必要ならば、先生は決して変人ではないと奥さんを説得しても良いとさえ思っている。
ところで……私は考える。あんなことにならなければ、あの男子学生もあの奇妙な質問をされていたんだろうか。あのトッポリストがどうのこうのという質問だ。あれはジョークなのだと言っていた。オチはなんだったんだろうか。
「あのジョークのオチだって?」
雪村准教授は、真っ黒に焦げた魚を箸で恐る恐る解体しながら言った。
あの魚は曲者だ。ちょっと目を離したすきに真っ黒に焦げてしまった。でも、黒こげなのは表面だけだ……と思う。
「はい。結局聞けずじまいだったので」
私は、どうしてこんなにペースト状になってしまったのか、全くもって理解不能な、ほうれん草の胡麻和えを申し訳程度に咀嚼してから飲み込んだ。
「君は、そもそもトポロジーというものを聞いたことがないんだろう?」
雪村准教授は、なんだか腑に落ちない味のワカメの味噌汁でご飯を飲み下しながら言った。
「はい」
さも当然ですと言わんばかりの私の返事に、雪村准教授は小さく溜息をついた。
「そもそも、僕はトポロジーを専門としている訳ではないよ。それだけは先に言っておこう。ただ、このトポロジーの考え方が、様々な科学的現象の謎を解く際に非常に役に立つということを僕は学生たちに力説している。トポロジーとは一言でいえば、ものごとを立体的に考えるセンスだ」
「はぁ……はい。それで?」
私の少し間の抜けた返事に、雪村准教授は苦笑した様子だった。
「トポロジーを専門とする数学者が相手にしているのは、こんな問題だ。引っ張ったり、縮めたり、ねじったり、回したりしてもいいが、破いたり貼り合わせたりしてはならないという条件で、どのような物体どうしなら、片方を変形していって、もう片方に作り替えられるか?ということだ」
「はぁ……なんだか粘土遊びみたいですね」
私は、くし形に切ったトマトを頬張った。瑞々(みずみず)しいトマト汁が口いっぱいに広がる。
「まぁ、そう思ってくれていい。で、トポロジー的に言うと、球と卵と箱は穴がないので、同じだと見なされるんだ」
「はぁ……」
穴が問題なのか?ああ、切ったり張ったりしちゃいけないからか。頭の中で油粘土をこねているイメージを思い浮かべる。
「同様に考えていくと、ドーナツとタイヤとコーヒーカップは等しいと言えるが、レンズがとれた眼鏡は等しくない、ということになる」
「はぁ……」
やはり穴が問題らしい。あれ?でもそれで行くと……。
「あのジョークは、トポロジストが『球です』と答えるのがオチになっている」
「はぁ……なんだか、笑えないオチですね」
雪村准教授は、ペースト状ほうれん草の胡麻和えを口に入れて顔を顰めた。
「幾何学者もグラフ理論学者もトポロジストも物事の見たい側面だけが見えており、その他のことは眼中にないという笑い話だ。皮肉だと言ってもいい」
雪村准教授は苦笑した。
「あれ?でも、その考え方でいくと、私が答えたキャラメルでも全然オーケーじゃないですか!」
「それじゃ、オチにはなっていないだろう?」
私は不承不承納得した。
「君は……『過ぎたるは及ばざるがごとし』、それから、『画竜点睛を欠く』という言葉を知っているかね?」
「は?」
いきなりな質問に、私は目を点にする。
「銀ダラの西京焼きとほうれん草の胡麻和えは前者で、ワカメの味噌汁は後者だ」
「?」
「銀ダラは焼く時の火が強すぎ、ほうれん草は茹で過ぎだ。西京漬けのような甘い味付けをしてあるものは焦げやすいことを覚えておきなさい。それから味噌汁は出汁をとってないだろう?汁物は出汁が命だ」
「すごーい。先生、料理研究家みたいですね。そうか!西京漬けは弱火で焼けば良かったのか。あれよあれよという間になす術なく焦げてしまって……。ほうれん草はどれだけ茹でればいいのか分からなかったので、三十分ほど茹でてみたんですけど、あれがまずかったんですかね。味噌汁は、何か味に深みがないと思ってたんですよー。全体的になんだか、母が作っていたものと違うなーと」
私は納得して何度も頷きながら、皿の端に魚の焦げを積み上げていった。
「君は、砂糖の分子式を知っているかね?」
「さぁ、どうでしたかねー、炭素と水素と酸素がごちゃごちゃーっと、くっついていたよーな」
私は首を傾げる。遠い昔、高校の化学で習ったような、習わなかったような……。
「分子式C12H22O11、分子量は342、別名ショ糖とも呼ばれる炭素化合物だ。これを燃焼させると……」
砂糖が、いかに焦げやすいかと言う化学的説明をくどくど続ける雪村准教授の話を右から左に聞き流しながら、味噌汁の出汁の化学的説明は無しでお願いしたいなどと思いつつ、私は、ふっくら炊きあがったご飯を頬張った。ご飯を炊くのは得意みたいだ。
「前言撤回です。先生って、料理研究家ってゆーよりも、理科の先生みたいですね」
説明が一通り済んだようなので、感想を言ってみた。
「……理学部の准教授だ」
憂鬱そうな雪村准教授の声に、私は首を竦める。
「ともかく、次回からは調整を頼むよ」
「了解しましたっ」
私はにっと笑み、雪村准教授は「うむ」、と威厳をもって頷いた。
「お茶です」
珍しくリビングでテレビなどを見ている雪村准教授に、お茶とデザートを出してみた。デザートというのは、庭で採れた山桃だ。ラズベリーにも似た丸い深紅の木の実で、美味しいから食べてみろと、庭師のおじさんがくれたものだ。食べると甘くて、かすかに松葉のような香りがした。
「ありがとう」
雪村准教授は、とても礼儀正しい良い人だ。あの恐ろしいまでに破壊された夕食もすべて食べてくれた。さすがに黒こげの魚の焦げ部分(約六十パーセントが焦げの部分だったと推測される)は残してあったが……。
「これは?山桃?」
「はい、庭師さんがくれました。まだ、たくさんなってるから、後は自分で採りなさいって」
「懐かしいな。昔はよく採って食べてたんだが……忘れていたよ」
「お好きなんですか?」
「いや、特には……」
私はカクリとこける。好きじゃないなら懐かしがってないでください。庭師のおじさんには、自分で採れと言われたけど、既に大ボール一杯もらっていたので、どうしたものかと悩んでいたのだ。一度にたくさん食べたいようなものでもない。先生が好きだったら良かったのに。これ、どうしよう……どうしようと言えば……、
「今日のバイトの人は理学部の人なんでしょうか?私、明日、大学で探して、もう一度交渉してみましょうか?」
私はなんとなく責任を感じていた。あの時、アンリの小屋に案内したのは私だ。あそこまでアンリが暴れるとは夢にも思わなかった。
「いや、無理だろう。あんなに暴れて拒絶するアンリを僕は見たことがない。よほど気に入らなかったのだろう。第一関門クリアならずだ」
「あ……第一関門ね」
明日も猛暑日になるらしいとテレビのニュースが伝えている。今度アンリを川に連れて行ってやろうと考える。
「ところで、実験の助手って何をするんですか?次のバイト希望者が来るまで、私でできることならお手伝いしますよ?」
「平たくいえば洗いものだ。実験に使ったビーカーやフラスコや試験管を洗浄して、実験室を整えておいてもらいたいのだが……」
「なーんだ、そんなことなら私でもできるじゃないですか。私、結構掃除が得意みたいなんですよー」
ここ一週間、ご飯作りと掃除とアンリの散歩をこなしてきたが、料理以外は、自分でもびっくりするほど得意分野であることが判明した。家では母が何もかもしてくれていたので、家事の何が得意なのか不得意なのか分かっていなかった。
「しかし、触れると危険な試薬も使うことがあるから……君は、その辺の知識がないだろう?」
「だったら、危険なものや、特別な扱いをしなければならないものは置く場所を決めておけばいいじゃないですか。で、それは先生か片付けて、残りを私が片付ければ少し作業が減るんじゃないですか?」
私の提案に雪村准教授は顔を輝かせた。
「本当に、いいのかね?家政婦を頼む時の作業内容には、実験室の管理までは入れていなかったのだが」
「部屋の掃除ってことでカバーされるんじゃないですか?それに先生には、すっかりお世話になっちゃってますから、サービスですよ」
食事を一緒に摂ることを提案してくれたので、食費を出そうと申し出たら断られた。だから食事代は、毎日雪村准教授持ちという状態になっている。
「そうかね!それは助かるな」
「じゃあ、明日からやりますんで、危険物の隔離をお願いしますね」
「うむ、分かった」
先生の役に立てるらしいことで、私はすっかり嬉しくなっていた。山桃は洗って冷凍しておこう。後でジャムにしてもいいし、そのままアイスクリームにトッピングしても結構いけるかもしれない。
ふと、テレビに目を向けると、ニュースが、今年の夏はラニーニャ現象の影響で猛暑になっているのだと伝えていた。
読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏