番外編(10) 良いクラッカー(視点変更有)
(雪村冬馬・視点)
僕は慌てて外へ走り出た。すっかり細くなって鋭利な刃物のようになった月が冷たい夜空を切り裂いていく。
「真夏!」
駆け足で、商店街まで名前を呼びながら真夏を探して回った。だけど真夏の姿は見当たらない。バッグの中には財布もそのまま残されていた。電車には乗っていないと思うのだが。友人の所だろうか。僕は再び家まで駆け戻った。
あの停電の夜のことを思い出す。雨も風も落雷もない穏やかな夜だったのだ。一台の小型トラックが送電線を支えていた電柱の一つに激突、電柱をなぎ倒して電線を破断した。たったそれだけのことだったのだ。トラックの運転手は命に別状はなく、軽い打撲程度で済んだと聞いている。
しかし、その事故は、二時間にもわたって街を闇に沈めた。当たり前に続くと思っている生活、それがなんと脆弱で、危うい均衡の上に成り立っていることか……僕はそのことに気づかされて愕然とする。
僕は強引に(無理やりに、とも言う)、麻人を自宅に帰らせた。この時間なら日付が変わる前くらいには自宅に戻れるはずだ。兄にその旨を連絡して更に驚いた。麻人は浪人生などではなく、自宅近くの大学に通っていること、最近兄夫婦の折り合いが悪くて別居状態にあること、それで麻人がやけに反抗的になっていて手がつけられなくなっていたことなどを知った。同情の余地はあるのかもしれないが、どんな理由であろうと、真夏を苦しめた、その事実だけは許せるものではなかった。
「なんで俺が嘘をついてるって分かったのさ」
家を出る間際に麻人が訊いた。
「真夏がそんなことを言う訳がないって分かったからだよ」
「どうしてそう思うのさ?」
「君には知る権利がない」
麻人はふんと小さく鼻を鳴らした。
「麻人、もし助けが必要ならば僕に連絡をくれても構わない。僕でできる範囲なら助力する。だけど、真夏の気持ちが治まるまでは、真夏とこの家には近づかないでくれ」
「気持ちが治まったかどうかなんてどうしたら分かるのさ」
「今回でこりた。彼女が僕にとってどんなに辛い決断を下そうとしている時でも、僕はもう彼女から目をそらさない。もう二度と、君にも、誰にも彼女を傷つけさせない」
彼女が僕を許してくれればだけど、と心の中で付け足す。麻人は不満そうな顔をしたが、すぐにくるりと背を向けて去って行った。
真夏のどこが好きかという質問の答えも、なぜ真夏がそんなことを言う訳がないと分かったのかという質問の答えも、彼には知る権利がないのだ。それは僕と真夏が少しずつ積み上げてきた大切な二人だけの歴史だから。
僕はふと思いついて、アンリの犬小屋へ行ってみた。アンリは賢い犬だ。真夏がピンチに陥っている時に黙っているハズがないのに、今回の事件の間中アンリは鳴き声一つ上げなかった。そしてその理由に気づいた。アンリもいなかったからだ。
アンリが彼女の小さな灯になっていてくれるかもしれない、僕は祈る思いでアンリの小屋の柵をそっと撫でた。
(海野真夏・視点)
どこをどうやって家を出たのかよく覚えていなかった。玄関先に掛かっていたウィンドプレイカーをひっつかみ、それだけを持って飛び出した。でもウィンドブレーカーだと思っていたのは、冬馬さんの黒いレインコートだった。羽織ると踝近くまで長さがある。それでも羽織らない訳にはいかなかった。寒かったし、ブラウスのボタンが……四つも千切れてなくなっていた。
トボトボ歩いていると、指先に生温かい空気がフンフンと当たるのに気づいて驚いた。アンリがついて来ている。アンリを放していたのを忘れて、門扉を閉めずに出てきてしまったらしい。私は苦笑する。
仕方がないので、アンリの散歩コースを辿った。
冬馬さんが怒っていた理由、これがそれだったんだろうか……私に隙があったから?麻人君は私を嫌っていたはずだ。そうであるのに、あんな行動をとらせてしまったということは、やはり私に非があったからなんだろうか?考えれば考えるほど分からなくなる。
川べりのベンチに腰をおろして、すっかり細くなってしまった冷たい月を見上げる。月明かりの乏しい夜、アンリが一緒でなければどれほど心細かっただろうか。アンリは足元に蹲って川面を睨みつけていた。救助犬……まさにその言葉がアンリにはぴったり当てはまる。私はいつもアンリに救助されている。
財布もない、携帯もない、アンリがいる。どう考えても、一度家に帰らなければならないようだ。一切合財入れたバッグを冬馬さんの部屋に置いてあった。安心したかったからだ。何かあっても冬馬さんの書斎に行けばなんとかなる、そう思っていたから。
財布と携帯はともかく、アンリを連れて帰らなければ、アンリの身が危ない。アンリは大型犬なので、放っておくと通報されて保健所に連れて行かれる心配があった。私は重い足取りで家路についた。
アンリだけ小屋に戻したら、友人の家に行こう。当分、麻人君と対峙する勇気はなかったし、冬馬さんにもなんと説明すればいいのか見当さえつかなかった。
家に戻ると、私はアンリを小屋にもどして小屋のドアをそっと閉めた。
「アンリ、明日の朝には冬馬さんが気づいて餌をくれると思うから……きっと大丈夫。ごめんね、いつもありがとう、アンリ……また、いつか会える時まで、元気で……」
私は泣きながら犬小屋を後にした……つもりだった。突然背後から強い力で抱きしめられる。
「どこに行くの?」
冬馬さんの声だった。少し震える掠れ声。
「冬馬さん……」
「ごめん、真夏。随分君を苦しめちゃったみたいだ。麻人から全部聞いた。麻人には出て行ってもらった。君を疑った僕が馬鹿だった。だから、一度だけ僕に言い訳をするチャンスをくれないか?」
家に戻って、私はレインコートを脱ぐのを躊躇った。冬馬さんが怪訝な顔でレインコートのボタンを外す。冬馬さんの驚愕と動揺が痛いくらいに伝わってくる。
「……真夏、警察に届けるかい?」
青い顔で冬馬さんが言った。
「何もされてないから、大丈夫だったから、だから……」
ボタボタと涙が零れ落ちた。私に触れたことがあるのは冬馬さんだけだ、そのことに心底安堵する。
リビングのソファで、冬馬さんは私を抱きしめたまま、私が泣きやむのをいつまでもいつまでも待っていてくれた。
「真夏……君は前に僕がうだつの上がらないサラリーマンでも、六畳一間に住む貧乏暮らしになっても愛してるって言ってくれたよね?もう一つ悪い条件をつけても君は僕を愛していてくれるだろうか?」
「悪い条件……ですか?」
「うん……君は若い。僕が定年を迎えた時でも、君はまだ四十だ。今の僕の年だよ。僕はそのことを考えるたびに真っ暗な気分になってしまう。君が愛しいと思えば思うほど辛くなるんだ。だから、若い麻人に嫉妬してしまった。僕は……愚かだ」
「ううん、私がもっとしっかりしてれば良かったんです。冬馬さんに相応しい女性だって思われたくて、冬馬さんの親戚だからいい所を見せなきゃって、いい顔ばかりしたんです。馬鹿なのは私の方なんです」
私は冬馬さんにしがみついた。
「真夏、聞いて……僕は君が本当に大好きだよ。必死な顔で料理に取り組んでる君が好きだ。キャンパスで僕に気づいて周囲を気にせずに手を振る君が好きだ。口づける時に零れる君の吐息が好きだ。君の肌に顔を埋めた時の匂いが好きだ。君を抱いた時の、かすかに震える君の溜め息が好きだ……」
「冬馬さん?やめてください。もういいですよ……」
恥ずかしくなってきた私は、困って冬馬さんを制止する。
「どうして?恥ずかしい?僕だって恥ずかしいよ。だけど、ここから出て行こうとした君には聞く義務があるし、それを止めたい僕には語る権利があると思うんだ」
そう言って冬馬さんは続けた。
「……指どおりの良い君の髪を触るのが好きだ。じっと見つめていると吸い込まれそうになる君の瞳の色が好きだ。君を抱いている時の、紙吹雪を惜しげもなく詰め込まれた質の良いクラッカーが頭の中で弾けるみたいな瞬間が好きだ……だから……君にずっと傍にいて欲しい」
まるで魔法をかけられているみたいだった。不安も悲しさも涙さえ、弾けて飛ばされていく。
読んでくださってありがとうございました。