番外編(7) ビスケット色(1)(海野真夏・視点)
私は、着替える為に自分の部屋に戻っていた。今日は友達の家に寄ってから大学に行く約束なので早めに出る予定だ。
私はさっき雪村麻人とした約束を思い出し、既に気が重くなっていた。
「ねぇ、真夏ちゃん、今日は何時まで講義があるの?」
雪村麻人は突然私のことをそう呼んだ。一歳しか違わないんだし、真夏ちゃんって呼んでいいよね?雪村麻人はそう言った。先生が少し動揺したような気がして、私も動揺する。
「あの……今日は終わるのは四時くらいになると思います……けど?」
「じゃあ、その時間に行くから、大学を案内してよ」
「え?帝都大学を受けるんですか?」
そんなことになったら……私は、軽く途方に暮れる。
「いや、受けないよ。帝都大学の理系は超一流だけど、文系は普通よりちょっと上ってくらいでしょ?俺文系なんだ。法学部に進みたいから。帝都を受けるつもりないよ」
私は文学部だった。
「大学の案内なら僕がするよ。文系だって優秀な生徒ばかりだよ。一流の講師だってたくさん揃えているし。あまり失礼なことを言うなよ」
沈没する私の代わりに先生が反論する。
「親父から叔父さんの手間をとらせるなって言われてるから、遠慮しておくよ。真夏ちゃんがダメなら帝都の見学はしない。あの大学は文学部とかに力入れてて、あんまり興味がないんだ。あんな学部出て、どんな職があるのかって感じだよ」
「麻人!」
いつも温和な先生が声を荒げた。
「あれ?もしかして真夏ちゃん文学部?そりゃ、悪いこと言っちゃったかな?ごめん。でも女の子ならいいんじゃない?文学部出て職がなくても逃げ場があるから」
コーヒーが薄かったのが原因……じゃないよね?私はこの人にここまで侮辱されるようなことを何かしただろうか。私はすっかり味を感じられなくなったフレンチトーストを齧って懸命に飲み込んだ。
だけど、私は雪村麻人に大学を案内すると約束した。先生の親戚に悪い印象を持たれたくなかったし、何か誤解されているのなら、和解の糸口を見つけられるかもしれないと思ったからだ。
ドアをノックする音がした。
「真夏?まだ着替えてるかい?」
先生の声だった。私はまだタンクトップしか身につけていない。
「まだ着替えてます。どうかしましたか?」
「いや……支度ができたら、出かける前に少し僕の部屋へ寄ってくれるかな?」
先生に返事をすると、私は大急ぎで着替え始めた。チョコレート色のハイネックのセーターを着て、薄い茶色のロングチュニックワンピースを上から重ね着する。セーターと同じくらい濃い茶色のタイツを履く。このセーターとチュニックは先生が買ってきてくれた。街を歩いているときに見かけた、デパートのショーウィンドのマネキンが着ていたものだ。チュニックの色が、どうにも美味しそうで、つい立ち止まってしまったのだった。
「このチュニック、ビスケット色ですね。美味しそう」
そう言った私の言葉を先生は覚えていてくれて、買ってきてくれたのだった。
「店員にね、訊いてみたんだよ。このワンピースは随分丈が短いけど、この季節に着用すると寒いんじゃないかってね」
先生は大真面目な顔で続けた。
「そうしたら店員が、ボトムに同系色のタイツを履いたり、ビギンス履いたり、ハイサイブーツを履くもんなんですよって言うんだよ。タイツは分かったんだけど、後は呪文のようでさっぱり分からなかった……君は何の事だか分かるかい?」
先生は眉間にしわを寄せて言う。私は笑い転げた。
「先生~、ビギンスじゃなくてレギンス。それにハイサイじゃなくてサイハイブーツですよ~腿まで高さがあるブーツ」
「そう言われても、やっぱりさっぱり分からないよ」
先生は苦笑した。
コンコン、先生の書斎のドアをノックする。先生が返事をした。
「真夏……ん?ビスケット色のあれだね?」
私を見るなり先生はにっこり笑った。
「はい。どうですか?」
私もにっこり笑う。
「とてもよく似合うよ。美味しそうで食べちゃいたいくらいだ」
先生がおどけて言った。
「服をですか?私をですか?」
「そりゃもちろん……君だろう?」
先生は微笑んでそう言うと、私に何度も軽く口づけをした。小鳥がついばんでいるみたい。
「真夏、麻人の事なんだけど……あまり無理をして付き合うことは無いよ。受験で少しいらだっているんだとは思うんだけど、あんな厭味なことを言うやつじゃなかったんだけどなぁ。もし、何か嫌なことを言われたら我慢しないで、あいつを僕の研究室に連れてきなさい。後は僕が面倒をみるから」
「大丈夫ですよ。私平気ですから」
このビスケット色の服が守ってくれている気がする。好きな人が買ってくれた服に身を包まれていると、不思議なくらい力が湧いてくる。
「悪いね。麻人にはよく言っておくから……」
「……先生、私、先生が大好きですよ。もし、先生が帝都大学の准教授じゃなくて、ふつ~のうだつの上がらないサラリーマンでも、六畳一間の部屋に住んでいても、私、絶対先生の事を愛してますから……だから……」
「真夏……先生じゃないだろ?ちゃんと名前で呼んで?」
「冬馬さんのことを……愛してますよ……冬馬さんは……」
もし、私が年をとって、おばあちゃんになっても……アイシテクレマスカ?でも心の中の声が喉を超えることはなかった。
何故なら、冬馬さんに深く口づけられて声を出せなかったから。
読んでくださってありがとうございました。