第二話 拒絶
今現在、僕の家には家政婦が約一名存在している。約一名というのは、もしかしたら家政婦としては一名に満たないのではないかと時々思うからだ。
彼女の名前は海野真夏。非常に暑苦しそうな名前である。僕の名前は雪村冬馬というので、恐ろしいくらい対称的だ。
「先生、雪村先生!朝食の準備ができましたよぉー」
二階から声がした。
以前雇っていた料理上手の樫村さんが、定年退職をしてから半年が経っていた。後継者は見つからず、男一人住まいの家は荒れ放題になっていた。庭は昔から頼んでいる通いの庭師がいるので、家の中よりもむしろ庭の方が片付いている状態だ。
すぐにでも家政婦を雇いたかったのだが、なにしろアンリが来る人来る人威嚇して、寄せ付けなかったのだ。アンリは少し気難しいところのある犬だ。それが……アンリは何か薬でも飲まされたのではないかと訝るくらい、海野真夏に懐いた。
僕が家政婦に要求することは、たったの三つ。
一、ご飯を作ること
(それも朝と晩だけだ。昼は大学で食べる。晩も時々不要だ。泊まり込む時があるからだ。しかも、僕は好き嫌いなど皆無だ。(ただし、ゲテモノは除く))
二、部屋の掃除をすること
(これも僕の書斎と実験室には入ってもらいたくないので、リビング、玄関、トイレ、浴室、台所だけだ。しかも、適度に片付いていれば、あまり気にしない性質だ)
三、アンリの散歩
(これだって、朝か夕か一度でいいとしている。しかも、家の周りを一周するだけでも可だと言っている)
なのに、これまで誰一人としてその要求をのめる者はいなかった。
僕は、ダイニングテーブルに乗っているものを一瞥して顔を顰めた。
「なんで朝からカレーなのだね?」
「朝カレーって今流行りらしいですよ?」
彼女は、とある野球選手が朝カレーを実践して、いかに好成績をあげているかということを滔々(とうとう)と説明した。
「昨夜もカレーだったようだが……」
「昨夜のカレーは、ぐっすり眠って美味しく変身したんですよ。だから昨夜のカレーとは別物です」
「……」
彼女は眉一つ動かさずに、昨夜の残りものであることを否定した。カレーの方が恥じ入っている様子だ。家政婦は涼しい顔をして、カレーを食べ始めた。
一緒に食事を摂ることにしたのは、僕の良心だ。彼女は、僕が教鞭をとっている大学の学生で(学部は違うが)、両親を亡くした彼女への気遣いであり、親心でもあった。(もっとも僕は誰の親にもなったことがないのだが……)
「今夜はカレーじゃないものを食べたいものだな」
「心がけます」
「うむ」
威厳を保てたな、と思いつつ。カレーをスプーンですくって口に入れる。一晩十分睡眠をとったらしい(家政婦の持論に過ぎないが)カレーは確かにうまかった。
「及川君、君、僕の家に家政婦を斡旋しただろう?」
僕は大学の庶務課に抗議に出向いた。
「えーっと、ああ、一週間前のことですよね。どうなりました?彼女やっぱり駄目でしたか?」
庶務課のお局と言われている及川女史は、しなやかに体に添ったベージュのスーツの胸元に華やかなプラチナのネックレスをキラキラさせながら、形の良い眉を顰めた。
「いや、今のところ、そこそこ任務をこなしているようだ」
「まぁぁぁ、良かったじゃないですかー。あの魔獣がいる限り次の家政婦なんて絶対来ないって、私、実は密かに思っていましたのよ」
どこが密かに思ってたーだ。僕は胸のうちで悪態をつく。彼女は僕の同期の大学准教授の奥方で、二人してアンリをどうにかしろと始終口やかましく言っていたのだ。
「僕は家政婦を家政婦斡旋所に頼んでくれと言ったはずだったんだが……住込みの家政婦のバイトなど学生にさせることは、常識的にありえないだろう?しかも、僕はその学生と同じ大学で教鞭をとっている訳だし……まぁ、学部は違うが……」
「あら?そうでした?あらあら、じゃあ、彼女に伝えて取り消しましょうか?」
「いやいや、もうそっちは今のところいいんだ。アンリが懐いているし、今のところは、大した問題はない」
「あの魔獣が懐いたんですか?」
及川女史は目を丸くした。
「失敬な、アンリは魔獣ではない。ただの犬だ。そうじゃなくて、問題は、実験助手のバイト募集の件だ。あれはちゃんと募集をかけてくれているのだろうね」
あっちを家政婦斡旋所に頼んでいないとも限らない。僕は用心深い性質なのだ。
「失礼ですね。そんなに心配なら、ご自分で学内のアルバイト案内をご覧になったらよろしいじゃないですか」
及川女史は少々へそを曲げたらしかった。このあたりで止めておかないと厄介なことになりそうだと僕は首を竦めた。
「いやいや、それなら良いのだ。ちっとも人が来ないので、何か手違いがあったのではないかと思っただけだ」
「それは私の手違いのせいではなく、何度も申し上げていますが、先生んちの魔獣のせいだと思いますよ?」
及川女史はツンツンした様子で言った。
「いい加減、アンリを魔獣と呼ぶのはやめたまえ。魔獣ではない証拠に、今の家政婦には懐いている」
「その家政婦は誰のお陰で先生の所へ来たんですか?」
急に及川女史が不穏な空気を纏いながら問いかけてきた。
「くっ……君のお陰だ……」
僕は歯ぎしりをしながら答える。
「良かったですね」
及川女史は文句のつけようのない笑顔で言った。
「君……分かっているとは思うが、あのことは彼女に知らせていないだろうね」
僕は声を潜めて問いかけた。
「あのこと?あのことってなんです?」
及川君のからかい口調に僕は顔を顰める。
「あのことと言えば、あのことだ」
僕はイライラしながら繰り返した。及川女史はそんな僕に妖艶に微笑んだ。
「ふふふ、もちろんですよ。そんなことを話したら、せっかくの家政婦が逃げ出してしまうかもしれないじゃないですか。ただ、私にも良心はありますからね、先生が変人だという警告はしっかりさせていただきました」
「何とでもいいたまえ!」
僕は頭から湯気を上げながら庶務課を去った。何と言う失礼な女なのだ。言うに事欠いて「変人」だなどと……ぬぬぬぬ。
今度及川君を捕まえて、腹いせに昼でも奢らせよう。そう考えると少しだけ溜飲を下げることができた。
『バイト希望者から問い合わせあり。連絡ください』
携帯のメールが入ったのは、その日の昼過ぎだった。僕は帰宅時間を知らせるメールを返す。文句を言ったその日すぐに連絡があるとは……やっぱり文句は言ってみるものだと一人悦にいる。
しかし、家政婦の彼女はもう家にいたんだろうか?文学部の学生というものは結構早く帰れるもののようだ。
夕刻、僕は意気揚々と自宅へと急いだ。
「アンリ、やめなさい!おすわり!」
家政婦の甲高い声が門の外まで響き渡っていた。アンリが威嚇して唸る声と、若い男の悲鳴も聞こえる。僕は慌てて駆け寄った。
裏庭の門扉に、よじ登るように張り付いた男子学生らしい男と、その男の服を噛んで引っ張るアンリと、アンリの首にしがみ付いて制止している家政婦が目に飛び込んだ。まるで男子学生が大きなカブで、それをみんなで引き抜こうとしているかのようだ。
「アンリ、やめなさい!おすわり!」
アンリは僕の声でぴたりと攻撃行動をやめ、ちょこんと座った。
「一体、何事かね」
僕は呆然としながらも事態の収拾に乗り出した。
「この人がバイト希望の方なんです。先生が帰ってらっしゃるまで、中で待ってていただいたんですが……」
「中で待っていて、どうしてこのような事態になるのだ?アンリは犬小屋に入れていなかったのか?」
「もちろん入れてました」
家政婦も呆然としているようだ。
「君、怪我はなかったか?」
僕はようやく息が収まってきた様子の男子学生に問いかけた。
「ももももも申し訳ありませんが、僕にこのバイトは無理みたいですっ」
怪我の有無を訊いているのに、その学生は怯えきった様子で頭を下げると、一目散に逃げて行った。
「おい、君、待ちたまえ!」
僕は、夕日に向かって走り去る男子学生の背中を呆然と見詰めた。
「大丈夫だと思いますよ。アンリは噛んではいませんから」
家政婦は、そう言った後、大きな溜息をついた。
「でも、犬小屋を修理しなければなりませんよ?アンリが壊しちゃったから……」
「なんだって?」
その男子学生は約束の時間より三十分も早く到着したのだそうだ。その時アンリは犬小屋にいた。ちょうど散歩の時間にぶつかってしまったので、アンリの機嫌は多少悪い様子だったらしい。
男子学生を見たアンリが、鼻に皺をよせて、更に険悪な様子になっていたのにも気づいていたと家政婦は語る。 中に入ってもらって、お茶を出して、男子学生と世間話をしていた際に、アンリの気難しさを説明して、アンリが許可しなければここでは働けないらしいと言う話をしたのだそうだ。
男子学生は犬好きだと言った。そこで、二人してアンリの小屋まで出向いたのだそうだ。迂闊なことを……。
男子学生を見てアンリは怒りまくり、怒髪天を抜く様子で吠えたてたそうだ。もちろん、その時はまだアンリは小屋の中にいた。
男子学生は懐いてもらおうと思ったのか、アンリに手を伸ばし、頭を撫でようとしたらしい。なんと命知らずな少年であろうか。
当然アンリがそんなことをさせるわけもなく、威嚇して噛みつく真似をしたらしい。男子学生は慌てて手を引っ込めたが、バランスを崩してよろけ、家政婦にしがみついたのだそうだ。次の瞬間、アンリが扉に体当たりをするものすごーい音が轟いて(家政婦の言だ)、アンリは小屋の外に飛び出して来たのだそうだ。そして、男子学生を追い回し、先ほどの状態になったらしい。アンリの小屋の扉には、根こそぎ引っこ抜かれた鍵がぶら下がっていた。
「君、庭師に犬が出ているから、しばらく来ないでくれと伝えておいてくれたまえ」
僕は悄然として家の中へ戻った。
読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏