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第十三話 手紙

 朝、アンリの吠え声で目を覚ました。隣にいるはずの海野君がいない。僕は慌てて服を着ると、リビングに急いだ。リビングのダイニングテーブルの上には手紙が置かれていて、そこには海野君の文字で、「辞表」と書いてあった。

 僕は瞠目して、ごくりと唾を飲み込んだ。

 簡潔な言葉でしたためられた辞表の下に、メモ書きのような小さな紙片が入っていた。それには、こう書かれていた。



 これ以上先生の傍にいると、先生から離れられなくなりそうです。夕べのことは、どうかお忘れください。

 追伸 大学をやめて、両親の元へ行こうと思います。


 海野真夏




 僕は追伸に狼狽した。両親の元だなんて……なんてことを!僕は慌てて、庭に飛び出し、アンリにリードをつなぐと門を開けた。アンリは待ってましたと言わんばかりに、商店街に向かって駆けだした。




*   *   *



 私は商店街をゆっくりと歩いていた。朝早い時間なので、まだ店は開いていないが、準備をしている店の人が通りを掃除したり、店内を拭き清めていたり、なかなか活気がある。商店街が元気なこの辺りは、歩くだけでも元気になれるみたいだ。

 私は雪村准教授の家を出たことを少しも後悔していなかった。昨夜、泣きたいだけ泣いて、ようやく決心がついたのだ。

 雪村准教授には正しい道を堂々と進んでもらいたいと心からそう思う。ただ、面と向かって別れを言えるだけの自信はなかった。少し唐突だったかもしれないけど、これが私の精一杯だ。許してほしい。

 結局、会えずじまいだった奥様が、少しでも早く先生の良さに改めて気づくことを願っている。少なくとも一度は先生の良さを分かって結婚したはずだからだ。

 私は正しい道を歩んでいると思う。ソーマが潔い、きれいな思い出として私の記憶に残り続けているように、私も先生の中できれいな思い出として残りたいと、心から思う。


 清々しいけど、どこか切ない気持ちで歩いていると、後方から何やら人のざわめきが、さざ波のように湧きあがっているのを感じた。振り向くと、そこには、山から降りてきたクマじゃないかと目を疑うような巨大な黒い犬と、それに引きずられるようにして息を切らして走ってくる雪村准教授の姿があった。

 私は目を見張る。

「海野君、海野君、待ちたまえ」

 と言っているように聞こえるのだけど、アンリがうるさいくらいに吠えているので、あまりよく聞き取れない。

「どうしたんですか?」

 私は立ち止まって一人と一匹を待った。未練がむくむくと首をもたげる。だから、会いたくなかったのに……。

「海野君、早まってはいけない」

 雪村准教授は、私の腕をむんずと掴むと、元来た場所へ引き返し始めた。

「な、何をするんですか?リビングに辞表を置いてあったでしょ?」

 私は困惑する。

「辞表なら読んだ。一身上の都合ってなんだい?あんな紙切れ一枚で辞められては困るんだよ」

「じゃあ、もう少し詳しいものを後で郵送しますから……」

 予防注射に連れて行かれる犬みたいに突っ張っていると、突然フワリと抱えあげられた。天地が逆転する。

「な、な、何をするんですかぁ」

 私は足をジタバタさせる。雪村准教授は、足を押さえつけてさっさと帰り始めたが、ふと気づいたように立ち止ってクルリと振り返ると、

「すみません。お騒がせしました。できれば僕は、この人とこの犬を養っていきたいと思っているので、警察に通報とかしないでください。職を失う訳にはいかないので……」

 そう言って、ぺこりと頭を下げると、再びクルリと戻って歩きはじめた。心配そうな商店街の人々と目が合った私は、抱えられたまま引きつった愛想笑いを浮かべる。

「すみません。お騒がせしました」

 私の言葉に納得したのか、人々は三々五々、自分の仕事に戻って行った。しばらくはこの商店街を歩けないかもしれない。私はそう思いながらがっくりと項垂れた。先生は何を考えているんだろうか。

 私は混乱したまま、振り出しに戻された。




*   *   *




「海野君、ソーマを失って悲しいのは分かる。だけど、早まってはいけないよ」

 僕は、リビングのソファに海野君を下ろして、手を握り締めたまま瞳を覗き込んだ。ここで手を放しては、もう二度と捕まえることができない、そう思ったからだ。深夜のダンベルトレーニングが功を奏したのか、抱えて帰るのも以前ほど辛くなかった。

 僕は握りしめた手をぐっと引き寄せる。

「でも、早くしないと、私、先生から離れられなくなっちゃいます。そうなってしまったら、今よりもずっと辛くなります。ソーマのことは確かに悲しいですよ?でも、それとこれとは話が別です」

「?」

 なんだか、微妙に話がずれているような気がした。

「どうして、僕から離れなきゃならないんだい?僕は君を心から大事にしたいと思って抱いたのに、君はもう離れることを考えているの?」

 僕は悲しい気持ちで問い詰めた。

「だって、奥さまになんて説明するんですか?」

 海野君はつぶらな瞳で僕をなじるように見つめた。僕は目を見開く。そうか……そうだった。

「海野君、僕たちは少し話し合う必要があるようだ」

 僕は溜息をついた。

「まず最初に言っておくよ。僕には今現在、そして過去においても、妻は一人たりとも存在しない…」

「え?だって、及川さんが……」

 及川君と僕は従兄同士だ。及川君は一つ年上。同じ大学に進み、似たような経歴を持っている。そして、おせっかい好きで、口やかましい伯母を共通の親戚として持つ間柄でもあった。

 大学の博士課程にいたころ(及川君は一留して同学年になっていた)、伯母の度重なる干渉に辟易(へきえき)した僕らは、学生結婚をしたと嘘をついた。その後、及川君は本当に結婚をしたのだけれど(無論、及川女史とだ)、僕はその「配偶者はいるけど実家に帰っていて不在だ」という設定が居心地良かった。

それで、ついそのままズルズルと続けているうちに、周囲がそのように認識してしまったのだ。


「だから、僕に妻はいないんだ。なんなら戸籍謄本を取り寄せてもいいよ」

「それって……及川さんは……」

「彼らはもちろん知ってるよ。だから及川女史は僕を変人扱いするんだ」

「そんな……」

 海野君は戸惑っているようだった。無理もない。

「だから、君は僕の奥さんのことを気にする必要なんてないんだ。君さえこだわらないのなら、君が実家から帰ってきたことにすればいい」

「え……だって、それって、いつから偽装してるんですか?」

「ええと、かれこれ十六年くらいになるかな?」

「十六年前なんて、私、四歳ですよ?」

「はは、だから実家にいたってことにしたら?」




*   *   *




「……」

 私は遠い目で考える。四歳の花嫁……。私は小さい頃母親が心配するくらい人見知りだったそうだ。きっとその時、雪村准教授が迎えに来てくれても、私は母にしがみついたまま泣きじゃくるばかりだったに違いない。

 困った顔の雪村准教授の顔が脳裏に浮かんだ。

 いや、それよりも……私の悲痛な決心や涙は……ムダ……だったの?私はがっくりと項垂れた。


「そんなことよりも、僕が怒っているのは追伸の文だ。ご両親の元に行くなんて、冗談でも言わないで欲しかったよ。僕がどれほど衝撃を受けたか分かるかい?」

「へ?衝撃……ですか?」

「当然だろう?」

 雪村准教授は真剣な目つきで(いさ)めるように言った。

「だって、親元に行くんですよ?そりゃ、大学をやめてしまうのは惜しいですけど……受験勉強頑張ったんだし……」

「?」

 雪村准教授は首を傾げている。齟齬(そご)はまだあるらしい。微妙に会話が噛み合っていないようだ。私も首を傾げる。

「君のご両親は亡くなったんじゃないのかい?」

「まさか!無駄に元気な人たちですよ。私、両親が死んだなんて言いましたか?」

 私は眉間にしわを寄せる。

「確か……遠くに行ったと……」

 雪村准教授は記憶を手繰り寄せている様子だ。

「そーなんですよ。ブエノスアイレスですよ。いくら辞令が出たからって、一人娘を一人残して、ふつーそんな遠い所に行きませんよね?あの夫婦、仲良過ぎちゃって、娘の私が入り込む隙がないくらいなんですよー。マッタク」

 私は口を尖らせた。



*   *   *



 アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス……「ブエノス」=「良い」、「アイレス」=「空気」という意味なのだと聞いたことがある。

 確かに、遠い所ではある……が……。僕の脳裏にブエノスアイレスで、仲睦まじく手を振る海野夫妻のイメージが勝手に湧きあがった。

 どっと疲れが溜まった気がした。


 それから大騒ぎでブエノスアイレスに国際電話を掛けた。大騒ぎだったのは、海野君がアルゼンチンの国番号が分からないと言ったり、掛けたらいきなり知らない声のスペイン語(当然なのだが)だったとかで、突然、その電話を僕に手渡したりしたからだ。

 ブエノスアイレスのご両親も大騒ぎだったようだ。海野君が、住込みのバイトをしていると聞いて驚いていた。

 どうやら海野君は、生まれて初めて一人ぼっちにされて、パニックになっていたらしい。残りの大学生活を、一切親に頼らずにやれと言われたと思い込んでしまったようだ。

 ソーマがアドバイスしてくれた海野君の性質に加えて、「思い込んだら、突っ走る」という項目を加えておこうと思う。まぁ、その勘違いのせいで、僕は海野君と出会えた訳なのだけれど。


 海野君が茹でてくれた少し味気のない枝豆をつまみながら、僕はソーマの翠色の瞳を思い出していた。

(僕の枝豆好きは、海野君に枝豆を売りつけようとした商店街のオヤジがバラしたらしい)

 今年の暑い夏が、僕の所へ運んできてくれた様々なものを、僕は心の中で並べてみる。


 ラニーニャが僕の家に産み落としていった卵の中から出てきたものは、「楽園への鍵」だったのか、「試練場への切符」だったのか……とにもかくにも、僕の人生を更に起伏のある面白いものに変えてくれたのは確かみたいだ。





 ソーマへ


 ソーマ、君は君の神様に会えたかい?僕たちと同じだっただろう?僕たちの神様よりもかっこいいだって?はは。


 君が残して行った疑問「生き物は何のために存在するのか、その理由を知ることは可能か」というソーマ予想は、誰も解けそうにないよ。たとえ、誰かがその問いに答えを出したとしても、それが正しいか正しくないか証明する手立てがないからね。


 ただ、この問題は、考える能力を持つすべての生き物が、時々立ち止まって考えるべきなんだと、僕は思うよ。いつも考えていたら、具合が悪くなるか、哲学者になるか、しちゃうだろうから……そうだね、一年に一回とか、四年に一回とかね。

 それが権利であり、責任なんだと思う。


 ラニーニャ現象が起こった年は冬が厳しいらしい。もっとも、海野君は関東のこの辺りでも雪が降るんじゃないかってワクワクしているみたいだよ。ものは考えようだね。


 じゃあ、君の神様によろしく


 

 雪村冬馬




 (了)





(参考文献)


「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一 著(講談社現代新書)


「ポアンカレ予想」 ジョージ・G・スピーロ 著/長瀬輝夫・志摩亜希子 監修/

鍛原妙子・坂井星之・塩原通緒・松井信彦 訳 (早川書房)


「生命の起源」 C・ポナムペルマ 著/大島泰郎 訳 (TBSブリタニカ)


「インド神話」 ヴェロニカ・イオンズ 著/酒井傳六 訳(青土社)




読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏

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