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第十二話 晩夏

 その日は、久しぶりに朝から蒸し暑い日だった。昨日からソーマが何も食べなくなったと海野君が泣くので、及川君を呼んだ。

 彼は獣医師の免許を持っている。獣医の手に負える生き物なのかどうかは分からなかったが……。

「何だいこの生き物は?」

 及川君はソーマを見て目を見張った。一般の人が見れば、変わった犬と思うだけかもしれないが、さすがに獣医の目は誤魔化されない。

「詳しい説明はできないんだが、こんな動物は君も見たことがないかい?」

「ないな」

 及川君は海野君を見て怪訝な顔をする。

「彼女は?」

「うちの家政婦なんだ」

 僕は肩を竦める。

「ああ、君が魔獣を手なずけたっていう家政婦さんか!」

 及川君は嬉しそうに言ったけど、海野君はベショベショに泣いていて返事もできない様子だった。

「君のペットなの?」

 及川君は気の毒そうに言った。

「違います!ソーマは私の子供ですっ!」

 ものすごい剣幕で怒る海野君に、及川君は肩を竦める。及川君はとりあえずと、ソーマに生理食塩水とブドウ糖の点滴を打ってくれた。及川君は僕を廊下に呼び出した。

「あの生き物が何か良く分からないんだけど、たぶん老衰だろ?」

 及川君は気の毒そうに言った。

「やっぱり、そう思うか?」

「ありゃ何だい?君の研究用動物?」

「まぁ、そんなところだ」

 及川君は僕の従兄だ。言葉を濁せば、特に無理な追及はしないでいてくれるのを僕は知っていた。

「彼女には少し気を付けてやった方がいいな。ペットロスになりそうだ」

 ペットを失って、その喪失感から精神を病むことをペットロス症候群という。言われなくても気づいていた。しかもソーマは彼女にとってペット以上の存在であるはずで……。


 その日、ソーマはずっと意識がない状態で、僕が早引けして大学から帰った時も、海野君は実験室のソーマの傍から離れられないでいる様子だった。何も口にしていない様子の彼女を説得し、軽食を摂らせてからも、彼女は実験室を離れなかった。アンリも同様だ。


 夕焼けが西の空を染めて、(よい)の明星が輝きだした頃、ソーマが覚醒した。

「……ママ」

 ソーマのか細い声に、海野君が駆け寄る。

「ソーマ、気づいたの?随分長いこと眠っていたんだよ。心配したよ」

 海野君は泣きながら、ソーマの頭をフカフカと撫でた。ソーマは気持ちよさそうに目を細める。

「ママ、僕ね思い出したんだよ。あの試験管にいた頃のことを……」

「思い出した?」

「うん。僕、ずっと逃げ回ってた。何か大きなものが近づいてきて、僕を飲み込もうとしていたんだ。もう駄目だって思った時、声が聞こえた……逃げて!っていう声だった」

「……」

「僕はあの時、あの声は神様の声だと思っていたんだけど、いつの間にか忘れてて…今思い出したんだ。

あれは神様の声じゃなくて、ママの声だったって……」

「ソーマ……」

「ママ、僕、ママに会えて良かったよ。ママがいてくれたから、僕は諦めずに生き延びられたんだ。ありがとう。もし今度生まれ変わることができたら、僕、やっぱりママの子になりたいな。その時は、もっともっと時間をかけて、ママとグランパとパパとで、色々な所にでかけて、色々なものを一緒に見たり、色々なことを話したり、たまには喧嘩したり……したいよ……もし、あっちで神様に会えたら、そうお願いするつもりなんだ」

 海野君は泣くばかりで、もう何もしゃべれない様子だった。

「パパもグランパも本当にありがとう。ママとパパとグランパのうち、誰が一人欠けても僕は

存在しなかった。だから僕は二人と一匹の子供だね?」

 ソーマは少し笑ってから、小さくむせた。




 その日の夜中、ソーマは幾度か小さく震えてから、息をしなくなった。アンリは吠え、海野君が号泣した。

 僕らはソーマを清潔な布で包んでから、庭の隅の山桃の木の根元に埋めた。赤く熟した山桃の実をソーマは気に入っていたから、きっと毎年実がなるのを楽しみにすることだろうと思ったからだ。

 解剖しようなんて気持ちは、僕の頭からすっぱり消え去っていた。


「海野君、悲しみ過ぎてはいけないよ。ソーマが心配して、あちら側に行けなくなる」

 リビングに戻っても泣きやまない海野君に声をかけた。海野君に、ソーマが僕に語ってくれたことを全部話した。

 自分が長く生きられないことを知っていたこと、それを海野君に知らせないで欲しいと言ったこと、自分の存在の意味を知りたがっていたこと、誰が自分の神様なのかを知りたがっていたこと……

 それから……ソーマが、彼の短い一生を費やして、何のために存在したがっていたかを……






 深夜の実験室で、窓の外の暗闇に一筋の光を探し求めるように視線を彷徨(さまよ)わせていたソーマが、ポツリと言った。

「グランパ、僕は永遠が欲しい。ママとグランパとパパと一緒にいられる永遠の未来が欲しいよ。だけど、それは手に入らないって分かってる。だから、せめて、ママとグランパとパパが存在する間だけは、その記憶の中に僕を住まわせて欲しいんだけど……ダメかな?」

 僕は絶句する。

 ソーマの願いは、とても壮大だけど、哀しい程ささやかなもので、途轍もなく重たいものだけど、宙を舞う羽のようにフワリと逃げてつかまえられないものみたいだった。それなのに、それはストンと僕の胸の奥にはまり込み、決して抜け落ちないパズルのピースのように定着した。

 僕は一瞬呼吸を止めて、そのピースの切ない感触を確かめてから、ゆっくり息を吐きだした。

「……ダメなわけがないだろう?そもそも僕もアンリも、もちろん海野君だって、君の事を忘れられるわけがないんだから」

「ありがとう、グランパ。僕、みんなの素敵な思い出になるように頑張るよ」


 開いた窓から、一陣の涼やかな風が吹き込んで、夏の終わりを告げた。

 



 僕らの神様とソーマの神様は、同一のものだと、今、僕は思っている。

 この惑星(ほし)の原子、分子に至るすべてのものに神は宿っていて、それらの意志で我々は存在しているのだと……だから、ソーマの神様も僕らの神様も同一なのだと……今、僕はそれを自信を持って言うことができる。

 あの時、ソーマにそう伝えられなかったことだけが心残りだ。


「私のせいでソーマは辛い一生を送らなきゃならなかったんじゃないかな。私が、逃げて、なんて願ったからソーマは……あんな短い一生で……あんなに生き急いで……色々悩んで……傷ついて……」

 海野君は僕の話を聞いて、いっそうソーマへの悲しみがつのってしまったようだった。

「ソーマはなんて言った?ありがとうって君に言ったよ?辛い一生だったら、そんな言葉は出てこないと思うよ?」

 僕は海野君を抱きしめた。海野君は泣きながらしがみついてくる。愛おしい。そんな言葉が、心の中で泉のように湧きあがっていた。


 その夜、僕たちは一つになった。


植物が光を求めて枝を伸ばすように、その根が土中の水を探り当てるように、僕たちは互いを求めあって、互いに足りないものを埋め合うみたいに抱き合った。ソーマが欲しがっていた永遠の未来に、僕たちも手を伸ばしているのだと感じていた。彼女は僕の一部みたいだったし、僕は彼女の一部みたいだった。

 だから、彼女が僕から離れて行くことがあるなんて、これっぽっちも考えていなかった。そんなことを彼女が考えていたなんて、想像することさえできなかった。



*   *   *



 私は、隣で眠っている雪村准教授の寝顔を見降ろした。私はこの人をどうしようもなく愛している。涙が(こぼ)れて仕方がなかった。


『真夏はしっかりしているから、パパやママがいなくても大丈夫ね』

 両親がいなくなる前に、何度も母が口にした言葉だ。

 分かってる。母がどんな気持ちでこの言葉を私に繰り返し言い聞かせていたのか、私は、その真意を分かっていた。私は、ちっともしっかりなんてしていないのだ。それを母は分かってた。だから、何度も何度もこの言葉を繰り返して、暗示をかけていてくれたのだ。

「ごめん、ママ。私、ちっともしっかりできないよ」

 愛している人の正しさを損なうことなど、しっかりしているもののすることではない。こんな私をソーマだってきっと軽蔑すると思う。

 ダイテ、クダサイ……どんなに愛おしくても、どんなに心が弱っていても、そんな言葉を、私は言ってはいけなかったのに……


読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏

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