第十一話 夏蝉
案の定、帰りは大渋滞だった。少し走っては止まるを果てしなく繰り返し、海野君もアンリもソーマも、すっかり車酔いをしてしまった。パーキングエリア毎に誰かしら気分が悪くなって立ち寄る。帰りつくのは夜遅くになってしまいそうだ。もっとも明日も休みなので、今日中に着けばいいのだ。
すっかり顔色が青白くなってしまった海野君に、少し眠りなさいと言ったのだが、「だって先生一人運転してるのに眠ってられませんよ」などと言う。虚ろな瞳で起きていられる方がハラハラして良くないと言うと、つい先ほど観念して目を閉じたのだが、椅子を倒さないまま眠っているので、バランスが良くない。ダッシュボードに頭をぶつけそうだ。
ソーマがトイレ休憩を申し出たので、パーキングエリアに車を止めた。二匹は車脇の茂みに入って行った。待っている間、海野君のシートを倒してやろうと思いついた僕は、体を伸ばしてレバーを手探りする。海野君の吐息を感じて、僕ははっと気づいた。
これでは僕が海野君を襲っているみたいではないか。そう思った途端、レバーがカクッと倒れ、海野君はシートごと横たわり、僕はその上にのしかかるみたいになってしまった。
いきなりの動きに対応できず、僕の顔は素直に重力に従い、結果、僕の唇が海野君の唇に重なってしまった。慌てて起き上がり、海野君を見たが、苦しそうに顔を顰めただけで、眠っているようだ。
僕は動揺して辺りをキョトキョトと見回した。すると、青い瞳とその上に乗っかった緑色の瞳、計四つと目が合った。
まるでブレーメンの音楽隊の動物たちが泥棒たちを追い払おうとしている時みたいだ。
「……さっさと入りなさい」
気まずい思いをしながら僕がドアを開けると、二匹は無言のまま後部座席に戻って目を閉じた。
僕は、試験管やビーカーやフラスコを取り出して、スチール棚の拭き掃除をしていた。真夜中にだ。
長時間の運転の後で疲れているのに眠れない。書斎にいても眠れないので、実験室に来たというお決まりのコースだ。ソーマが迷惑そうな顔をして僕を見ている。しかし、この家は僕の家なのだ。僕の勝手にさせてもらう。
元々、この実験室は、僕の父が僕のために造ってくれた趣味の為の実験室だった。今は、大学で講義に使う培地や溶液を準備する時にも使っていた。しかし、ソーマが来てからは、危険回避の為に、趣味以外の使用を控えるようにしている。
感謝されてもいいくらいのもので、文句を言われる筋合いはない。
「ねぇ、歳の差ってそんなに気になるもんなの?」
ソーマは面倒臭そうに言った。
「君は何を言いたいんだね?」
僕は雑巾を絞りながらソーマを睨みつけた。
「別に……」
僕は隣のスチール棚から様々な試薬を取り出して作業テーブルに置き始めた。この棚も随分長い間掃除をしていない。
「そういえば、二、三日前、ママの所に男の子が訪ねてきたよ。空手とかやってそうなゴツイ感じの人。同じ学部の学生なんだって。来年選ぶ研究室のことで話があるって言ってたな。最初は表で話してたんだけど、パパが怒り始めたから、ママが気を使って中に入れたんだ。ママとその男の子は仲がよさそうだったよ?」
ソーマはのんびりと語った。
「ふーん」
僕はモヤモヤする気持ちを押し殺して、掃除に没頭するふりをする。
今度、ここにダンベルでも買って持ってこよう、掃除する所も無くなって、やりたい実験もない時に、体を鍛えるのもいいかもしれない……などと思いながら力を入れて棚を拭く。そんな僕にソーマは小さくため息をついた。見透かされているようで、気分が悪い。
「ねぇ、グランパには信じている神様がいる?」
突然ソーマは無邪気な声で質問をした。僕はたじろぐ。
「いや、これと言ってはないかな。僕は典型的な日本人なんでね。宗派は、と聞かれれば真言宗だと言うけれど、お正月には神社に行くし、付き合いでクリスマスも祝う。でも結局は、色々なものに、それぞれの神様が宿っているという八百万の神々を信じているのかもしれない……」
こう言ってみると実に節操がないものだと苦笑する。もしかしたら、日本人は、どの宗教の神様も八百万の神の一人と考えてしまっているのかもしれないと思う。そうなのだとしたら、それはそれで、なんと大らかな民族かと感心してしまうのだが……。
「どの宗教も、この世のすべての生き物は、神様が創ったってことになっているよね」
「そう言えばそうかな……」
キリスト教や日本の神話やギリシャ神話などを思い出してみる。確かにそうかもしれない。
「神様がお創りになったものだから、すべての生き物は神様を持ってる。そう言うことなのかな」
ソーマは座って、耳の手入れをしながら呟いた。
「さぁ、あまり宗教のことはよく分からないな」
僕は試薬の使用期限を確認しながら、注意深く棚の中に納めていく。
「もし、そうなら。僕の神様は誰なんだろう?」
翠色の瞳が僕を射抜くように見つめた。
「……」
僕は戸惑う。彼を創りだしたのは誰だろう。
「僕はどうしてここにいるのかな。何のために存在しているんだろう。ねぇ、生き物は何のために存在するの?その理由を知ることはできる?」
ソーマは途方にくれた瞳で問いかける。
「……それは、僕には手に負えそうにない質問だよ。君だけじゃなく、誰だって何のために存在しているのかって訊かれたら、答えられないと思うよ。でも、存在しているから、存在し続けるために生きてる。
御飯を食べて、御飯を食べるために働いて、君たちが喜ぶ顔を見たいから車の運転をする」
「僕の喜ぶ顔?ママじゃなくて?」
「君たちだよ。もちろん海野君も含まれてるけど」
「僕は……グランパにとって、いても迷惑なだけの存在だと思ってた」
「……そんな風に思わせてしまったのなら、謝るよ。悪かったね」
ソーマは一瞬、とても驚いた顔をした後、少し照れくさそうに小さく笑った。
「……グランパ、僕、何のために存在するのかって考えるのをやめるよ。代わりに、僕は何のために存在したいのかを考えることにする」
しばらくの沈黙の後、ソーマは窓の外の闇を見つめながら静かに言った。
* * *
暑い夏はツクツクボウシの鳴き声を合図にしたように、最終章に突入した。
夕方、にわかに空がかき曇り、大粒の雨がパタパタと降り始めたかと思うと、バケツをひっくり返したような雨が降り、火照った大地を冷ましていった。
ソーマは夏の終りとともに急速に弱って行った。もう散歩にあまり行きたがらなくなり、食は細くなった。
* * *
「ねぇ、ママはグランパのことが好きなの?」
実験室の洗いものをしているママに、僕は問いかけてみた。
「うん、好きだよ」
ママは即答する。
「尊敬してるし、大事な雇い主だし……優しいし、ジェントルマンだしね」
ママは好きだと言う根拠をニコニコしながら並べ立てた。
「そーゆーんじゃなくてさ、もっと、こう……」
僕は溜息をついた。
「そーゆーのじゃないって、どーゆーの?」
明るい表情で訊き返すママに、僕はがっくりと項垂れた。グランパが可哀そうになってくる。ママは実験室に置かれているダンベルに気付いているのだろうか?それがどんどん増えて、しかも重くなっていることに……。
「ねぇ、前にママのことを訪ねて男の人が来たよね。あれママの恋人?」
僕はグランパの為に探りを入れることにした。
「ちがうよー、あれは同じ学部の先輩だよ。研究室を選ぶのに色々教えてくれて、他の研究室の資料が手に入ったからって届けてくれたんだよ」
ママはシンクを磨き始めた。
「わざわざ夏休み中に?勤務先にまで?」
僕は声を低めて、疑り深そうに問い返す。
「そう、親切な人だよねー」
屈託なく微笑むママを見て、もしかしたら、ママは「天然」と呼ばれる人種なんじゃないだろうかと僕は気づいた。
相手の考えていることを推測する時、推測しやすい順番は、パパ、ママ、グランパの順だと、いつもは思っているんだけれど、時々ママの考えていることが、さっぱり分からない時がある。ママの特性に、この「天然」というタイプを加えれば、もう少し分かりやすくなるのかもしれないと僕は推測する。
とにかく、グランパには、多少強引に突き進むようにと言っておこうと思う。
僕は、あれからずっと考えてる。僕は何のために存在したいのか……僕は、もうあまり長くは存在できない、ならば、その間、僕は何のために存在したいのか。
そして僕は考えついた。僕が欲しいもの、手に入れたいもの、その為に存在するべきだろうと……。
「ソーマ、お昼は何なら食べられる?朝もあまり食べなかったし、ダメだよ。ちゃんと食べないと。夏バテだったら、そろそろ治りそうなもんだけど……」
ママは僕が弱っているのを夏バテだと思ってる。それでいいと僕は思う。ママは僕がいなくなったら寂しいと思ってくれるだろうか。悲しんでくれるだろうか。
僕を……忘れないでいてくれるだろうか。
「僕、スイカが食べたい」
「また、そんなものばっかり……」
ママは悲しい顔をした。
読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏