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第十話 夏雲

 朝と夕方の二回、私は散歩に行く。最初はアンリとだけだったけど、今はソーマも一緒に行く。本当ならソーマに、リードなんて着けたくないんだけど(言葉が通じるんだし……)、一応犬の姿をしているのでリードを着ける。

 ペットショップで買ったきれいな黄緑色の胴輪(ハーネス)を装着して、リードを着けた。

「さ、行こうか」

 アンリがワホワホ興奮してジタバタし、ソーマが冷静な声で、

「うん、行こう」と答える。



 この近くには、天然の川を引きこんだ親水公園があって、上流では人間の子供たちが、下流では散歩中の犬が使えるように区切られている。川べりを一しきり歩き回った後、この公園で一休みするのが、アンリのお気に入りのコースになっていた。

 蛍光ピンクのブラボールを川に投げ込むと、アンリはワホワホ吠えながら、水の中にパシャパシャ入って行きボールを(くわ)えてくる。ソーマはボールには目もくれず、水の中を覗き込んだり、トンボがおしりの先をちょんちょん水面にくっつけているのを飽きもせず眺めたり、水辺に生えている植物を前足でつついたりしている。


 ソーマは犬みたいだけど、でも犬らしくなかった。常に何かを考えている学者か哲学者みたいだった。


 アンリがいるお陰で、そんな犬らしくないソーマに近づく人は滅多にいないのだけど、時折、よほどの犬好きか、よほどの酔狂か、よほどの命知らずな人が、ソーマを触りたがることがある。ソーマは散歩中、絶対しゃべらないようにしていた。だけど、犬のように吠えたり鳴いたりすることは嫌だというし、一般の子犬がするようなじゃれつく仕草もしたくないと言った。

 だから、そんな人が近づいてきた時は、大人しく修行僧のような半眼でじっと耐えているか、私の後ろに逃げ込むか、アンリの横に逃げ込むかしていた。

「あらあら、甘えん坊なのねー」

 などと言われることもある。憶病だと言う人もいる。そんなことを言われて帰ってきた後、ソーマは荒れた。


「僕は甘えん坊でも憶病でもないからねっ!」

 ソーマは、私がプレゼントしたウサギのぬいぐるみを悔しそうに前足でガシガシ引っ掻きながら言った。

「分かってるよ。気にすることないじゃん。私もアンリも先生だって、うちの人は誰も君が憶病だなんて思ってないよ?」

 ウルウルした瞳のソーマを見て、私は溜息をつく。ソーマはどんどん成長している。ソーマの一日は、私たちの何日分に当たるのだろうか。私は不安になってくる。




*   *   *




「海に行きたいだって?」

 久々の休日前の夜、一人と二匹が僕の前に勢ぞろいして、僕を熱く見つめた。

「どこの海に行きたいんだね?」

 僕は海野君が差し出したインターネットのコピーを見つめた。ここから(ゆう)に二時間はかかる。渋滞を考えれば、もっとかかるだろう。

「ダメ?ですか?」

 六つの瞳が僕に集まっていた。かつてこのような期待に溢れた瞳に注目されたことがなかった僕はたじろいでしまう。

「渋滞を避けたいから早朝にでるよ?それでもいい?」

 溜息をつきながらの僕の発言に、みんなは躍り上がって喜んだ。




 後部座席をフラットにしてビニールシートを敷いた上に、アンリとソーマが座る。海野君がソーマの隣に座ろうとするので、僕は引き止めた。

「君は助手席だろう?タクシーじゃあるまいし……」

 僕は顔を顰める。

「だって、ソーマは車に乗るの初めてですよ?心配で……」

 完全に母親化している。

「君が後ろに乗るのなら、僕は運転しない」

 僕は少し意地になっていた。

「ママ、僕は大丈夫だから」

 ソーマの少し眠そうな声がした。これじゃあ、ソーマよりも僕の方が聞きわけが悪い子供みたいじゃないかと更に腹立たしく思ったが、海野君は、その言葉で素直に助手席に乗ったので良しとした。

 海野君は助手席で自分の身の上話をポツリポツリと語った。郊外にある、父親が努めている会社の宿舎に住んでいたこと。受験をして、小学校から都内まで通学していたこと。だから友達と遊ぶのに電車を使わなければ遊べなかったこと。ソーマみたいな茶色い毛の子犬をずっと飼いたかったこと。来年から入る予定の研究室のこと。

 僕は、彼女が話す取り留めのない彼女の情報を、一つ一つ整理して、僕の記憶の引き出しに、大切にしまって行った。



*   *   *

 


 雪村准教授は注意深く運転する人だ。決してのろい訳ではない。加速すべきところは素早く加速し、注意すべきところは滑らかに減速する。

 後方の車にも目配りがきき、乱暴な運転の車には、さっさと道を譲る。うず高く荷物を積み上げたトラックが横にいる時は、カーブの弧の外側に並ばないようにする。

 雪村准教授の運転は彼の生き方そのものみたいだと思う。精度が高く、正確だ。

 私は、その精度の高い正しさに(すく)んでしまう。

 

 先生の正しさを損なうことは、正しくないことだと……。


 雪村准教授は、アンリと出会った時の話をしてくれた。 アンリは捨て犬だったらしい。出逢った時、アンリは狩られていた。あれだけの大きさの犬だから、飼い主もなしにうろついていたところを、怯えた住人に保健所に通報されたらしい。毛は泥まみれで、抜け毛だらけだったと言う。

「僕は、アンリが息を殺して潜んでいたところを見ちゃったんだ」

 賢い犬だと思ったと雪村准教授は言った。

 大学の近くの繁華街だったという。あの青い瞳とばっちり目が合って、でも、次の瞬間、アンリは麻酔銃で撃たれた。意識を失う瞬間、アンリは雪村准教授に「助けて」と呼びかけたと言う。言葉ではなく、何かテレパシーのようなもので。

 雪村准教授は、照れ臭そうに笑ってから、あり得ないよねと呟いた。気になって仕方がなかった雪村准教授は、数日後、保健所に問い合わせてみた。

 飼い主は現れたかと。答えは否だった。

 あと三日待って飼い主が現れなかったら、処分される予定だと保健所の職員は告げた。雪村准教授は、翌日処分される予定になってしまったアンリを見に行った。

 アンリは最後の一日を過ごす部屋に一匹だけで入れられていた。他の犬が怯えて一緒に入らないのだと言う。アンリは部屋の隅で丸まっていた。迎えを待つでもなく、死へのカウントダウンに(おび)えるでもなく。

「凶暴な犬ですよ。人に懐かない。飼い主でないのなら手は出さないことですよ」 と保健所の職員が言った。

 檻の前にしばらく佇んだ後、雪村准教授は、アンリに声をかけた。

「おい、このままだと、お前は死ぬことになるぞ」

 アンリは雪村准教授の声に、物憂げに顔を上げた。その時のアンリの悲しげな目を忘れることができないと雪村准教授は言った。どういう事情だったのかは知らないが、飼い主に捨てられて、アンリはもう既に心が死んでしまっていたのかもしれない。

 しかし、少なくとも、あの麻酔銃に倒れた瞬間、彼は「生きたい」と思ったはずだと感じた雪村准教授は、再度話しかけた。

「もし、君がここを出て、新しい生活をしてみようと思うのならば、ここに来なさい。僕は君に力を貸すことができるだろう。もう何もかも投げ出したいのならば、そのままでいなさい。それが君の運命なのだろう」

 とても犬相手の言葉とは思えなかったが他に術もなく、しかし、アンリはまるで雪村准教授の言葉を理解したかのように、しばらく逡巡した後、のそりと起き上がって、ゆっくりと雪村准教授の元まで歩いて来たのだそうだ。

 そして、アンリはアンリになった。


 アンリの名前の由来は、『ポアンカレ予想』という難問を世に問いかけて、百年もの長きに渡って数学者達の頭を悩ませたと言われる、数学者であり科学者であり思索家であった、あの有名なアンリ・ポアンカレ氏からもらったのだそうだ。

 科学が、今のように細分化され専門化される前の時代の終わりに存在した天才。雪村准教授は彼を敬愛しているのだと言った。



*   *   *



 割と早い時間に海についた。

 泳ぐ訳ではないと言うので、海水浴客が来ない遊泳禁止の浜辺に腰を下ろす。今日も日差しが強そうだから、早めに切り上げた方がよさそうだと、夏雲がポッカリと浮かんでいる青空を、僕は見上げた。

 アンリとソーマは浜辺を走り回った。海野君は波打ち際で、何か掘っているようだ。貝でも採るつもりだろうか。

 久しぶりの海は広く目に穏やかで、潮騒の音が耳に心地よく、開放的な気分にさせてくれた。水平線上に湧き上がり始めた入道雲を見ながら、僕は数日前、ソーマが言った言葉を思い出していた。

「グランパ、僕はすごい速さで進化してる。同時にすごい速さで老化してる。もし僕がいなくなったら、ママは悲しむかな?」

「……」

 それは僕も薄々気づいていたことだった。たった一月で、ここまで大きくなったのだ。生物としての枠を超えていた。


進化の面では言うに及ばず、成長の面でも……。


読んでくださってありがとうございました(*^_^*) 招夏

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