二〇一〇年、七月
二〇一〇年七月二十二日。
タンクトップにすらりと長い足を魅せるホットパンツを着て、今日もアリサはアルバイトに向かう。
こんなかったるい暑さの中外に出たくはなかったが、この世界ではお金がないと何も出来ないんだから仕方がない。アリサはポケットの中から煙草を取り出し口に咥える。
ライターを取り出し、火を点けようとすると、突然、五月蠅い蝉の声をかき消すぐらいの大きな音が路地裏から聞こえた。
喧嘩かぁ? そう思いつつも好奇心は抑えられない。アリサは路地裏の奥を歩いていく。
そこには……、路地裏のゴミ捨て場には、宇宙服を着た少年がぐったりとしていた。
マルは鉛のように重い瞼を開けた。身体全体は筋肉痛のようで、長く続く痛みを感じた。
格式張った白いベッドから起き、辺りを一瞥する。窓は開けられていてゆらり、ゆらりとカーテンが揺れる。外からの涼しい風と、蝉時雨が聞こえる。
上を見上げると絢爛豪華なシャンデリアが鎮座していた。
ここはどこなのだろう? マルは頭に手をやり VR で今日の日付を確認しようとするが、身に付けてはいなかった。
「あれ? いつもならここに付けているのに……」
マルはもう一度辺りを注視した。すると、ベッドの横に小さな机がありそこにポシェットが
あった。痛む身体を引きずりながら、ゆっくりとポシェットの表面を触る。
すると、おぼろげだった記憶に徐々に色がついていく。
「あ、ああああああああああ」
銃声音、手についた血、マサノブの血。無の空間。全てがフラッシュバックした。夢なんかじゃない。あれは現実だ。胃液が喉まで戻される。
あれから気絶してどこかの施設に運ばれたのだろうか? だとしたらマサノブはまだ生きているのだろうか? 探さなくてはマサノブを!マルは立ち上がろうとしてバランスを崩し、盛大にこけてしまう。
今の音を誰かに聞かれていたらマズい。マサノブを撃った奴らだ。何をしでかすか分からない。
だが、心と身体は反比例するもので上手いこと動かない。
ガチャ、と扉が開いた。
「おっすー、宇宙飛行士さん。そんなところで何してんの?」
だが、入って来たのは予想していた職員ではなく、タンクトップにホットパンツを着た健康的な身体をした若い女性だった。
「えっ、宇宙飛行士って……」
マルが言葉に詰まっていると、間髪入れずに女性は言った。
「まあ、なんでもいいけど。ご飯出来たから下に来て」
マルは迫力に負けて、言われるがままに下に降りていった。ちなみに、ポシェットの中身は空っぽだったので二階に置いたままにしてある。
テーブルの上には、ご飯と味噌汁、焼き魚が並べられていた。ザ・朝の食卓って感じだなとマルは心の中で呟いた。
ご飯の炊き立ての匂いが鼻の中を刺激し、お腹がぐるるっ~と鳴る。
何も食べていなかったのを思い出したマルは、思わず舌なめずりをした。
「ほら、食べて、食べて! 自信作なんだから!」
「えっと、じゃあ遠慮なく……………」
パクッ。可も不可もない普通の味だった。
「どう? 美味しい?」
彼女は目をキラキラさせて言った。
「えっ、ああ……うんまあ美味しい、よ?」
マルは噓をつくのが苦手だった。
「なんで疑問形? もしかして…………美味しくなかった?」
風船がドンドン萎んでいくみたいに、彼女の身体は小さくなっていく。
「あ、いや美味しくなかったわけじゃないけど……………」
「けど?」
「なんか、普通の味だなと思ってさ」
「なーんだ。普通の味かー! 不味くなくてよかった」
コロコロ表情が変わる子だなとマルは思った。マサノブとは正反対だな……………。
マサノブ………アイツは今どこにいるのだろうか。
「どうしたの? 宇宙飛行士さん?」
「ん、いや。ちょっとした考え事をね。っていうかなんで僕のこと宇宙飛行士さんって呼ぶの?」
さっきも宇宙飛行士さんと呼ばれた。この子なりの距離の詰め方なのだろうか? いや、だとしても人類は宇宙に出ることを諦めたんだ。それを知っていてそれを言う人間は、世間知らずか変人のどちらかだろう。…………この子は後者かな。
「宇宙服を着ていて倒れていたから、宇宙飛行士さん!」
彼女が指差した場所には、僕が着ていた『スーツ』がハンガーに掛けていった。
「あ、ああ。それね。確かに着てたよ」
そうだ、これを着て『穴』の中に入ったんだった。まだ記憶が繋がっていないみたいだ。
「やっぱり宇宙飛行士さんだ!!」
「いや、人類は宇宙に出ることを諦めたんだから、宇宙飛行士って職業はないよ」
彼女は首を傾げる。
「何を言っているの? 今年は小型探星査機『はやぶさ』が七年ぶりに帰ってきた年じゃない?」
にべもなく彼女は言った。
「んん? 待ってはやぶさ? 何年前のことを言ってるんだ?」
小型星探査機「はやぶさ」は二〇一〇年六月一三日に地球に帰還した。教科書にも書いてあったので覚えている。
ははーん、分かったぞ。二〇八〇年の今、この話題をするってことはこの子、僕のことをからかっているな。
「何年前って……今年がその年じゃない。寝ぼけているの?」
彼女は、ポケットから二つ折りのデバイスを取り出し今日の日付を見せてきた。
二〇一〇年七月二十二日と表示されていた。
「二〇一〇年?! 何かの間違いじゃないのか………………」
「疑り深いなぁ。じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言い残し、彼女はテレビのある方へ向かった。
静かになった食卓でマルは思案する。
どういうことだ……? 今は二〇六〇年じゃないのか? ……………まさか、本当にタイムスリップに成功した? 二〇一〇年……………そうか!!
マルは、『スーツ』の傍まで近付いて透明なポケットがあることを確認し、中から『岩』を取り出した。
「あった………」
『岩』またの名をエキゾチック物質。
これは元々小型星探査機「はやぶさ」に付着していた物質らしい。この『岩』には元に戻る性質がある。だからこの時代に飛ばされたんだ。「はやぶさ」が戻って来たこの時代に。
「そうか、そういうことだったのか!」
記憶が、全部繋がった。
「おっ待たせ~!」
彼女は小走りで駆けて来た。右手に新聞紙を持っている。
「ほらほら~! 二〇一〇年って書いてあるでしょ!!」
新聞紙を広げて僕に見せてくる。電子媒体で見たことはあるが、紙媒体で触るのは初めてだ。
ザラザラとした手触りで端はキザキザしている。日付は、やはり二〇一〇年七月二十二日と書かれていた。確定だ。過去に来たんだ。
「なんか、新聞紙触るのは初めてみたいな感じだね。君」
彼女は、くすくすと笑った。
「あ、いや違うって……僕は……………」
なんて言ったものだろうか。いきなり未来から来ましたと言っても、頭のおかしい奴だと思われるに決まっている。
言葉に詰まっていると、彼女の息を吸う声が聞こえた。
「君、記憶喪失なんでしょ? しばらくココにいていいよ」
突然の提案にマルは驚いた。
「えっ、こんな大きなお屋敷に……いいの?」
「うん、全然いいよ! 広過ぎるから一人じゃ暇してたしね~」
彼女は無邪気に笑い、その場で跳んだ。タンクトップ越しから除く豊満な胸が見えマルは思わず目を逸らした。
「そ、そういえばまだ名前聞いてなかったね」
「あ、そうだった! 私は時村アリサ。気軽にアリサって呼んでね。よろしく」
アリサは手を差し伸べて握手を求めてきた。エネルギッシュだなぁと思いながらもマルは握手に応じた。
「僕はマルって言うんだ。よろしく」
「マル………? 可愛い名前だね! よろしく!」
アリサはマルの手をギュッと握った。
てっきり根掘り葉掘り本名を聞き出すのかと思っていたけど、彼女は、アリサは‘“マル” という名前を否定しないでいてくれた。初対面でマルという名前を笑わずにいてくれたのはアリサが初めてだった。だからなのか、マルはこのアリサという女性に興味が湧いた。
「うん。よろしく!」
「いや~、でも路地裏で倒れているのを見た時はビックリしたよ~! てっきり死んでいると思って脈を測ったら、動いたからココまで運んだんだよ」
アリサは当時のことを思い出すかのように、目を細めていた。
路地裏で倒れていたのか……………。
ん? 待てよ。倒れていたのは自分だけだったのか?
「あのさ、僕が倒れていた場所に同じ格好の人とかいなかった?」
「ん~? いや、いなかったよ。倒れていたのはマル一人だけだったよ。どうして?」
あざとそうに首を傾げて聞いてきた。
「あ、いや特に深い意味はないよ」
マサノブは一緒じゃなかったのか…………。でもこの時代にいるっていうのは間違いないはずなんだ。僕と一緒にあの『穴』に入ったのだから。
どこにいるのかは分からないけど、探して出して見せる。マサノブを見つけることが出来れば、きっと元の時代に帰ることも出来る! 道が見えてきた。
「あ、いっけない! バイト行かないと! 私は出るけど、外に出るなら玄関を閉めて出てね。ここに鍵置いておくから! じゃあ!」
アリサは鍵を食卓の上に置き、慌ただしく出て行った。
「えっと……………これからどうしよう」
人を探すって言ってもどうしたらいいんだろう?
二〇六〇年なら VR 持っている者同士で、居場所が分かったりするんだけど……………。
「あっ! そうだ! VR だ!」
この時代に使えるかは分からないけど、あれがあればマサノブと会えるかもしれない。
アリサの話だと路地裏で倒れていたみたいだ。でも、何処の路地裏なんだろう?
「とりあえず、路地裏を片っ端から探してみるか」
食卓の上に置いてある鍵を取り家から出た。外は蝉の声が聞こえ、生温い風が肌に触れた。やる気を削ぎ落とすような暑さだ。
「あっっー………」
額から流れる汗を二の腕で拭き、呟く。
いや、暑さがなんだ。マサノブは肩を撃たれたんだ。
それに比べたらこの暑さなんて耐えられる。
マルは履き慣らした靴でアスファルトを踏み抜き、走り出した。
小一時間ほど探し回ったが、路地裏らしきものは一つも見つからなかった。ついでに迷ってしまった。
「どこだ、ここ………」
かあかあとカラスの鳴く声が聞こえる。もう夕方か。路頭に迷うとはこのことだなとマルは思った。
目の前に飲み物を売っている無人販売機があった。この時代の通貨とマルが元いた時代の通貨は基本的に同じということをマルは歩いていて気が付いた。この時代の人が財布から出す百円玉は二〇六〇年の百円玉と形状がほぼ同じだった。
さすがにお札に描かれている人物は変わっていたりしたが。
マルは自分の財布を探すも、持ってはいなかった。
「あ、そうか。ポシェットの中に入れていたんだった!」
その肝心のポシェットは家だ。だが、ポシェットの中を見たとき、小銭と本とライトは入っていなかった。どこか落ちてしまったのだろうか? もしかしたらアリサなら何か知っているかもしれない。後で聞いてみよう。
「いや、でも今日の探索はここまでだな…………」
アリサの家に戻ろうにも戻り方が分からない。今までは、ずっと VR のAR(拡張現実 ) 地図アプリを使っていたから、どこにでも行けたが今はそれがないから何も分からない。
途方に暮れ、銅像の前でしゃがみこむ。オレンジ色に染まった夕映えがマルの背中を陰る。
「こんなところで、どうしたの?」
顔を上げると、そこにいたのはビニールの買い物袋を持ったアリサだった。
「アリサ……………。なんでここに」
「バイトが終わって買い物してたんだよ。そしたらしゃがみ込んでいるマルを見つけてさ~。おおかた、迷子にでもなったんでしょ?」
上目遣いで、優しく語りかけてくれた。
「うん、そうなんだよ………でも、迷子ってよく分かったね」
「ここらへんは入り組んでいて迷い易いから。かくいう私も初めてここに来た時は迷子になったもん!」
「ってことは、ずっとここに住んでいるんじゃないんだ?」
「うん、そだよ~! もう、7年ぐらいになるのかなぁ。懐かしいなぁ」
ビニール袋をブンブンと振り回しながら昔懐かしむアリサ。
夕陽は沈み、辺りは暗くなっていく。徐々に街灯の明かりが灯っていく。
「きれい…………」
マルは思わず呟いていた。
「あはは! ライトの光を初めて見た人みたいなリアクションだね!」
アリサはお腹を抱えて笑っている。
「あ、いや。これは…………」
また、ボロが出てしまった。まだこの時代に上手く溶け込むことが出来ていないみたいだ。もっと、この時代について勉強しなくては。
「あーー、お腹痛い。さ~、お腹も空いたし、帰ろう」
「帰るってどこに?」
「私達の家にだよ、マル。さ、行こう」
アリサは歩き出した。マルはそれに倣うように後ろに付いて行ったが、アリサが突然立ち止まり、マルの隣にまで、とてとてと歩いてきた。
「後ろじゃダメ。隣同士で歩くの。そっちの方がいいでしょ?」
「えっ、あ、うん」
少し気恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。誰かと一緒に隣同士で歩くことが、こんなにも暖かみのあるものだったなんて、マルは知らなかった。
街灯のあかりに蛾や虫が集まっていた。
人も虫も本質的には変わらない。
誰かと手を繋ぎたい、誰かと一緒に歩きたい。そういう暖かさをもつ光に、命ある者は引き寄せられるんだ。
ものの一〇分ぐらいで、アリサの家に着いた。
「こんなに近かったのか………………」
「まあ、道路より路地が多めだからそう錯覚してしまうんだと思うよ。さ、晩ご飯の用意~用意~!」
鼻歌混じりでキッチンへと向かっていくアリサ。
「あ、僕も手伝うよ!」
「いや、座って待っていて!」
掛けてあったエプロンを付けながら、アリサは言った。
「でも、泊めてもらうんだったら、それぐらいはしないと…………」
アリサは台所の下からまな板と包丁を取り出した。
包丁の、トントンと規則正しい音が耳に響く。
「まだ本調子じゃないでしょ? それに泊まるからって気を使わなくてもいいのよ。何があったのかは分からないけど、ここは貴方の家なんだと思ってもらっていいんだよ」
料理を作っているのでアリサの顔は見えなかったが、優しい眼差しをしているに違いなかった。
マルは下唇を前歯で噛んだ。家には、ずっと居場所がなかったから。ここが家なんだって言われた瞬間に目頭が熱くなった。
ありがとうと、そうひと言いいたかった。でも今言葉を発してしまうと自分が崩れてしまいそうだったから、いつか言える日までその言葉は心のポケットにしまい込んだ。
「あ、テレビ付けていいよ~! リモコンはテレビの前にあるよ」
陽気な声でアリサが言った。マルはリモコンを取り、適当にチャンネルのボタンを押した。
画面に現れたのはスーツ姿の男性で、何かの原稿を読んでいる。ニュースか。
テレビでは「はやぶさ」のことを取り上げていた。
小型星探査機「はやぶさ」これがあったから過去に来ることが出来たけど、これがあったせいでマサノブは撃たれた。
マルとしては複雑な気分だった。
「ほら、出来たよ~!」
アリサが食卓にご飯を持って来た。野菜炒めと、カレーライスだ。
「いただきます!」
「どうぞ、どうぞ~!」
野菜はシャキシャキして噛めば噛むほど美味しさが溢れた。カレーは辛口だが、少し甘みがある。蜂蜜を入れたのかな。
「カレーの中に蜂蜜とか入れた? 何だか少し甘さがあるんだけど」
「入れたのは合ってるけど、蜂蜜じゃないな~! 正解は生卵!」
よく観測したら、生卵のどろっとした液が見えた。カレーに卵を入れるだけでこんなにも変わるものなのか…………。
「卵って凄いでしょ!?」
「うん、卵でここまで劇的に変わるなんて……料理って凄い」
「ふふーん、料理は奥が深いからねぇ~」
料理はあまりしたことがなかったけれど、元の時代に戻ったらしてみようと思うマルだった。
マルは夕食を完食し、自身のお腹をさすった。
「いやー、こんなに食べたのって久々って感じだよ」
「喜んでもらえたのなら何より!」
アリサは食べ終わった食器を台所に持っていく。
「あ、そういえばポシェットの中身ってアリサが持ってるの?」
アリサの背中越しに問う。
「ああ、あれね。濡れちゃだめだから違う場所に置いたんだ。ちょっと待ってね、持ってくる」
アリサは階段を登っていった。おそらく、僕が寝ていたところに行ったんだろう。でも、見た限りではそれらしきものはなかったが……。ドタドタと階段を降りる音が聞こえる。
「多分これだよね?」
「そう! それそれ! 探していたんだ」
アリサからビニール袋を渡された。その中には多少の金銭と本、ライトが入っていた。
「良かったぁ。元のままだ」
マルは、ほっと一息ついた。
「そんなに大事なものなの?」
「あ、いや大事っていうか…………まあ大事なんだけど」
「そっか、なら見つかって良かったね! あ、それとね明日、君が倒れていたところに行ってまだ見つかってないものとか探そうと思っているんだけど来る?」
願ってもない誘いだった。
マルは直ぐに返事をした。
「行くよ! 実は今日そこに行こうとしたんだけど、迷子になっちゃって途方に暮れていたんだ。本当に助かる! ありがとう」
「じゃあ、そうと決まれば明日の朝から探しに行こう! じゃあ私は寝るね、お休み」
アリサは、そのまま二階に上がって行った。マルはしばらく待ったが降りて来る気配はない。
「えっ、まさか本当に寝たの?」
二階にはマルが寝ていた部屋とは別に、階段の反対側に部屋らしきものがうっすらと見えたが、そこで寝ているのだろうか。
マイペースが過ぎる……………。まるでマサノブみたいだ。マサノブも今さっきのアリサみたいにマイペースなのだ。マサノブの場合は、もっと欲望に忠実な気がするが……。 マルは食べた食器を洗い場に持って行き、蛇口で口をゆすいだ。
マサノブを探すまでこの家でお世話になるんだし、歯ブラシも買っとかないとなあ。
マルは二階に上がり、ベッドに倒れ込んだ。足がパンパンになっていた。目を閉じると、深い闇がマルを包み込み、そして意識を奪った。
早朝。鳥がちゅんちゅんと鳴き、町はまだ眠っている時間。このままずっと微睡に包まれていたい。だが、そんな儚い夢は打ち破られる。
アリサに布団をひっぺがされたのだ。
「起っきろ~~!!」
閉めていたカーテンも全開にされた。眩しい……………。
「ほら、起きて! 探しに行くんでしょ?」
なんで朝からこんなにも元気なんだ? マルは目を擦り欠伸をした。
「行くけど…………なんでこんな朝っぱらからなの……………」
「えっ、昨日朝からって言ったでしょ?」
どうやら、アリサの中での朝は、この今の時間帯らしい。マルは観念した。
「分かった。今から行くよ。でも、僕朝は低血圧だから、ご飯食べないと力出ないから、まずご飯を食べさせて……………」
ゆっくりとベッドから起き上がるマル。まだ瞼は半開きだ。
「いいけど、この時間スーパー空いてないよ? コンビニは路地裏からは反対方面だし……」
「えっ、アリサが作ってくれるんじゃないの……?」
昨日のご飯を想像していたマルは戸惑った。今日の朝もアリサの作ったご飯が食べられると信じて疑わなかったのだ。
「ん? 今日は作らないよ? 昨日本気出しちゃったから今日はカップ麺だよ。朝からそれでもいいなら出すけど……」
アリサは、それが私の常識だと言わんばかりの表情を向けてくる。
これは、あれだな残念美人という奴だな。昨日のご飯が美味しかったばかりに、カップ麺というのは少し残念だったが何もお腹に入れないと倒れてしまいそうなので少々カロリーが高いが仕方がない。
「じゃあ、お願い」
「分かった。用意するね」
マルとアリサは一階に降りた。アリサは冷蔵庫の上に置いてあるカップ麺を取り食卓の上に置き、ポットの中に入っているお湯を入れた。
「ねえ、なんでカップ麺が出来る時間って三分なんだろうって、不思議に思ったことはない?」
カップ麺に蓋をしてアリサは言った。
「疑問に思ったことはないけど、ちょうどいい時間だなあとは思うよ。長過ぎず、かと言って短過ぎない時間。こういうのって物理を感じるよ」
こういう時マサノブなら物理のうんちくなんか言ってくれるんだろうな。
「ねぇ、マル。サイクリック宇宙って知ってる?」 アリサは唐突に聞いてきた。
「マサノブ…………友人が前にそんなこと言ってた気がするけど、内容までは覚えてないなぁ」
「サイクリック宇宙っていうのは宇宙には、そもそも時間的な起点はなくて、収縮、衝突、膨張、収縮を何度も繰り返しているっていう理論なんだよ。だから時間に始まりと終わりはない。面白い理論でしょ? これが九年も前に提唱されたって言うんだから人類の進化は凄いよね」
アリサは、感慨深そうに息を吸った。
ここまでの知識を知っているアリサは、一体何者なんだろうか?
「アリサってもしかして、学者さんなの?」
「ううん、違うよ。教えてもらったの。大切な人に」
アリサは、目を閉じ胸のあたりに手を持ってきて強く、強く、握った。
数分、その時間が続いた。それは、大切な人へ送る祈りのようだった。
「ごめん、ちょっと色々考えてた」
アリサの目には涙が溜まっていた。
カップ麺の蓋を開けると、麺は伸び切っていた。
僕が倒れていたとされる路地裏にアリサと一緒に来た。
「ここが、僕が倒れていた場所……………」
青色のゴミ箱が散乱としていて、薄暗く、鼠が這っていた。罪を犯した人間の行き着く場所といった感じだった。
「派手に倒れていたから、最初は死んでいるのかと思ったもん」
アリサは肩を竦める
「家にまで連れ帰ってもらって本当にありがとう」
「困っている人を見つけたら助かるのが私のモットーだから、このぐらい大したことないよ」
凄いモットーだとマルは思った。自分以外の人間が幸せになって欲しいと思うことは出来ても、それも実行に移すことは自分には出来ない。今だって自分のことで精一杯で、他人に優しくする余裕はない。
マサノブも他人だが、マサノブは特別だ。なんて言葉にすればいいか分からないけど、他人なんていう括りを飛び越えてくる。
だから、助けたい。
そう思うのは不思議じゃない誰かしもが持っている想いだ、願いだ。
「アリサは凄いな、そんな考え方が出来るなんて。僕なんて自分以外の誰かを気遣う余裕なんてないよ………………友達とかは別だけど」
「ううん、それが普通なんだよ。それが普通の感情なんだ」
「でも、見ず知らずの人に手を差し伸べる。それはとても尊いことだと思うよ」
マルは思ったことを、フィルターに通さず言った。
「誰彼構わず助けるって言うのは偽善だよ。忌むべき行為だ」
アスファルトを見つめながら呟いた。そんなことはないとマルは言おうとしたら、アリサはゴミ箱の前に行き
「さ、探そう。失くし物を」と言ったので、マルは言うべきタイミングを失った。
マルは辺りを一瞥して、 VR らしきものがないかを見た。
薄暗かった路地裏に光が差した。
上を見上げると、さっきまで太陽を隠していた雲が流れて行き、太陽が地面を照らしたのだった。
これで探しやすくなる。マルはまずはゴミ箱の中を調べてみることにした。
「ん? もしかして……………あれは」
マルはゴミ箱を漁る手を止めた。路地の一角に何か光るものがあるのだ。あの光りはおそらくレンズを反射した時の光だろう。だとしたら……。
「ビンゴ!! あった!!」
そこには VR が綺麗な状態で寝かされていた。ボディーを注意深く見たが傷一つ付いていなかった。
「衝撃で傷の一つぐらいあると思っていたけど、一つもない。これは奇跡だ……」
「それが、失くし物?」
「えっ、ああ。うん、そうだよ」
ここで VR を起動させたい衝撃に駆られたが、アリサのいる前ではよそう。これは未来のものだから、ここで見せてしまったら今後の世界にどんな影響が出てくるか分からない。
マサノブならきっとそう言うはずだ。
「失くし物はそれで全部?」
失くし物はこれで全部だけど、失くし者はまだ見つかっていない。
「えっと、まあ物はこれで全部かな」
「………人でも探しているの?」
「まあ、そんなところ」
未来から来た人を探しているって言っても、到底信じられないだろうから黙っておくことにした。
「多分、私なら君の探している人見つけ出すことが出来ると思うよ」
「なんで、そんなことが出来ると思うの?」
マルはアリサが自信満々で言葉を紡ぐのが不思議だった。その自信の源は何なのだろう
か?
「未来人でしょ? その人」
「な、なんでそれが!?………………」
変に勘が冴えている子だとは思っていたが、何故そこまで分かるんだ? まさか、アリサも未来から来たのか……………?
マルは頭をフル回転させ、考えられうる全ての可能性を頭の中で導いた。そして気付いたことがある。自分はこの時代に来てから、この時代の端末……確かガラケーというやつを持っていない。それでアリサに不自然に思われたのかもしれない。
「だって、人類は宇宙に出ることを諦めたとか、はやぶさが戻ってきたのは最近なのに何年前のことだって言うし色々可笑しいなって思ってたんだ。まるでこの時代の人間じゃないみたいだなって思って、それなら私にも出来ることがあるんじゃないかなって」
太陽の光が、燦燦とアリサを照らした。まるでスポットライトのようにアリサだけを照らしていた。
「………………僕の失言でそこまで推測するのはホント凄いよ。でもそれを知って出来ることって何?」
「私ね、タイムマシン作ってるの」
思わぬ言葉にマルは耳を疑った。タイムマシンだって? あの過去、未来に行ける機械のことか? マサノブだって『穴』を通ることで、ようやく過去に戻ることが出来たのに。
アリサが本当に……?
「タイムマシンって、あの過去にも未来にも行けるタイムマシン?」
「疑ってるね? ま、いきなり言われても訳わかんないか。実物を見せるから付いてきて」
アリサは、路地裏を出てしばらく道なりに歩いた。マルも後に続く。
例え、タイムマシンが使えたとしてマサノブと再び会うことは可能なのだろうか? マサノブはこの時代にいるんじゃないのか? グルグル、グルグルとメリーゴーランドのように頭の中が回る。
思考を続けているといつの間にかビルの前に着いていた。階段を降りると蛍光灯が二つしかなく、奥の方は見えない。先はシャッターで閉じられていたが、ギリギリくぐれる隙間があり、先に進むと、ドラム缶洗濯機のようなものが二台置かれていた。
「ここのビルの地下一階は使われていないから、二人で作っていたんだ」
「二人? もう一人誰かいたの?」
「うん、それがマサノブだよ」
「えっ、アリサがどうしてマサノブと……………」
「ずっと黙っていてごめん。私、君が未来から来ることも知っていた。マサノブが全部教えてくれた」
知っていた。今、アリサは未来から来ることを知っていたと言った。助けたのは偶然なんかじゃなかったんだ。
アリサは俯き、申し訳なさそうに言った。
マルの頭に様々な疑問が源泉のように一気に湧き出した。何故未来から来ることを知っていたのか? 何故マサノブとアリサが知り合っていたのか?
そして、マサノブは今、どこにいるのか? アリサは、ドラム缶洗濯機の前まで歩いて行き、ゆっくりと語り出した。
「これはね、私とマサノブの二人で作ったタイムマシンなんだ」
「これが、タイムマシン……………?」
ドラム缶洗濯機の見た目はとてもタイムマシンには見えなかったが、よく見ると後ろに色々なコードが絡まりあっていて、洗濯機の上にはデジタル時計が一つ、中にはキーボード盤がはめ込まれていた。
「この洗濯機の中に入って、キーボードで行きたい年代、月日を打ち込むと、後ろの転送装置が動き出して過去、未来に行ける。例えば二〇八〇年の八月に行きたいなら208008と打つ」
洗濯機の中に入って使い方をレクチャーしてくれる。中は、ちょうど人が一人入る大きさだった。カプセルホテルの狭いバージョンといった感じだ。
「これ、動力源が後ろの機械なの?」
マルは興味津々で聞いた。
「ううん、後ろの転送装置は年代と月日を合わせてそこに飛ぶ為のものであって、動力源は別。 動力源はエキゾチック物質なんだ」
「エキゾチック物質って………………あの『岩』のこと?! でもなんでそれが」
エキゾチック物質の存在はマルとマサノブしか知らないはずだ。だけど、アリサはそれを知っている。マサノブとも会っている。
マルはこめかみを押さえた。
「このタイムマシンはね、『穴』の性質を利用してタイムマシンにしたってマサノブが言ってたの。『穴』や、『岩』私にはよく分からなかったけど、マサノブの助けになりたかった。だから手伝っていたの。私はほとんど部品とか持って来る雑用だったけどね」
「じゃあ、このタイムマシンはマサノブが一人で作ったのか………………いや、その前にマサノブは今どこにいるんだ? それと、どうして僕が未来から来たって知っていたいたんだ?」
マルは頭の中で答えを出すのを止め、疑問を全て吐き出した。
「全部、話すよ。だから聞いて」
アリサは洗濯機の横にある目立たない椅子に座った。その椅子の横にもう一つ、椅子があったのでマルはそこに座って話を聞く体制に入った。
アリサは鼻から息を吸った。
「マサノブは、この時代にはいない。七年前、二〇〇三年にマサノブはタイムスリップに失敗して私と出会ったの。そこで未来から来たこと、七年後に君がこの時代に来るってことを教えてもらったの。最初は半信半疑だったけど、話を聞いていくうちに本当のことだと思ったの。」
「そこまでは分かったけどマサノブは、なんでタイムマシンなんて作ろうと思ったんだ
ろ? 七年待てば僕と会えるなら別段作る必要もないんじゃ……………」
「『穴』は過去に行くことは出来ても、この時代にはまだ『穴』は出来ていない。だから元の時代に戻る為にもタイムマシンが必要なんだって言っていたよ」
ああ、そうか。忘れていた。
エキゾチック物質の「元に戻る」性質でこの時代に来たのはいいものの、この時代に『穴』はまだないんだ。だから、もしマサノブと出会えたとしても元の時代に戻ることが出来ない。
マサノブは全部、それを知っていたからタイムマシンを作ったのか。
「それに、研究する者なら誰しもの夢だろ? とも言っていたね」
「ああ、マサノブならそう言いそうだ」
マルの頬は、思わず緩んだ。
「それで、肝心のマサノブはどこにいるんだ?」
マルは辺りを見渡した。どこかで隠れて聞いているのかもしれないとも思う。
「マサノブは、この時代にはいないわ」
洗濯機の稼働音だけが響く。