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プロローグ

二〇六〇年七月二十二日。

「おーい、マサノブ、いないのか?」


 マルは秘密基地の扉を開き叫ぶ。秘密基地といっても名ばかりで廃墟になったビルを勝手に使っているだけなので、そんなに煌びやかなものではない。

中には何に使うか分からないガラクタが鎮座している。

薄暗く、日に当たることもない。

どちらかといえば悪の秘密結社のアジトっぽい。

マルがそこらへんにあるガラクタを適当に弄っていると、奥のコンクリートの柱の陰から薄汚れた白衣を着たマサノブが出てきた。


「おお、マル。今日は早いな」


「いつも通りだよ。マサノブが熱中し過ぎなだけ」


 マサノブは一つの物事に集中すると、食べることも寝ることも忘れて黙々と作業をする、そういう奴なのだ。ちなみにマサノブはあだ名で本名は長瀬正信(ながせまさのぶ)。僕の名前もあだ名なんだけど、名前が女っぽくて嫌だから、周りの人にはマルって呼んでもらっている。他の理由もあるけど、それはおいおい話すとして……。初めて会った時に、それをマサノブに話すと「それなら、俺もあだ名で呼んでくれよ!」ということになって、マサノブと呼んでいる。特に違いはなくない? と聞くと、カタカナがツボらしい……。わからん。

こういう変わった奴だが学年ではトップの成績で、授業で習ってないことも独学で勉強しているらしい。こいつは天才だと初めて会った時から感じていた。


一方、僕の方はというと、成績は下から数えた方が早い。唯一他より秀でているのが国語だ。読書は好きで暇さえあれば映画を見るか本を読んでいる。(主に SF 作品)


中学の時水泳部だったこともあり、運動にもわりかし自信がある。引きこもってばかりのマサノブには余裕で勝てそうだ。

だが、勉強となると別だ。全くもって分からないので、こうやって秘密基地に来ては勉強を教えてもらっている。


「ああ、ってもうこんな時間か、遅刻するぞ。マル」


「その言い草だと、やっぱり学校には来ないんだな」


マサノブが学校に来たのは入学式とテストの日だけ。まわりからは勉強しなくても出来る天才肌に嫉妬され、疎まれている。マサノブ自身は学校に行くこと自体が無駄だと思っており、ここにいて研究していた方が有意義だと、いつも言っている。


「学校に行ったところで時間の無駄。ここで時間を有意義に使った方がいい。それに俺達にはこれがあるだろ?」


 マサノブは俺の頭に付けている VR を指差して言った。

 西暦 二〇六〇年。人類は宇宙に進出することを諦め、母なる大地、地球で生きる決断をした。

それに伴い宇宙開発に割いていた予算などを、すべて地球での研究、開発にまわすことによって、技術は飛躍的に進化した。


その良い例が VR 。

通称 Hand Device Computer Virtual Reality 略して VR 。開発元の会社ユートピアはHDCVRと呼ぶことを推奨しているが、如何せん長いし言いにくい。

マルと同年代の若者たちは、ほとんとみんな VR と略して呼んでいる。

ゴーグル状の機械を装着して、パスワードを入れてログインする。

 ユートピアにログインすれば、映画も鑑賞できるし本も読める。正規のヘッドセットを買えば五感をフルで体感でき、 VR 内で寿司を食べると本当に食べている感覚を味わえる。

どういう原理かは分からないが、一応栄養も取れるらしい。

 兎にも角にも、この VR があれば誇張なしに何でもできるのだ。


VR が発売されたのは今から五年前だが、行政、企業、学校、政府が積極に取り入れたため、普及速度は早かった。

 学校でも VR を使ってのオンライン授業が主になっているが、週に二日は必ず学校に来なければならない。これは生徒のコミュニケーション能力が劣らないようにと、政府が義務付けた政策だ。

 マルは学校に行くのは嫌いじゃなかったので、この政策には賛成だった。

 マサノブは真逆で、「どうせ二日だけなら全部オンラインにすればいいのに……コミュニケーションなんて好きな奴同士で取っとけばいいんだ。そもそも全部機械に任せるのが怖いから政府はこういう中途半端なことばっかりするんだ………二〇年後は考え方変わっているといいんだがな……」とよくぼやいている。


そうして今も、そんなこと言いたげな表情をしていた。 


「学校に来ないにしても、今夜勉強を教えて欲しんだけど…………」


 マル達の学校は、もうすぐテスト週間に入る。

勉強はあまり出来ないマルだが学びは嫌いじゃない。マサノブ自身も気を良くしてマルに勉強を教えてくれている。

今回も二つ返事で教えてくれるだろうと思っていたマルだったが、マサノブの口から発せられた言葉は意外なものだった。


「ああ……そういえば。もうすぐテスト期間だったっけ。悪いマル、今日の夜は無理だ。

実験があるんだ」


「実験…………?」


マサノブがここで何かを研究しているのは知っていたが、それが何かまでは知らなかったし、敢えて聞こうともしなかった。

だが、今回ばかりは実験がなんなのかが気になる。


「気になるか? じゃあ、深夜の十二時に『穴』の前まで来てくれ」


  マサノブが言い終わると同時に、おぎゃーーと赤ちゃんの泣き声が聞こえた。


「ああ、起きちゃったか…………」


「マサノブ、今の泣き声は?」


「隣の家の真下(ました)さんに頼まれたんだよ。最近仕事が忙しいみたいで、家に誰もいないから、少しの間だけベビーシッターをやってくれないかって。お駄賃も貰えるし、引き受けたんだ」


 マサノブは奥の比較的綺麗な部屋に置いていた赤ちゃんを抱いてきて、優しくあやしていた。

VR が普及しつつある今の世の中でも、未だに仕事に行く人もいるんだなとマルは驚いていた。

 マルの母親はいつも家にいたが、 VR で仕事ばかりしていて、マルのことを見ようとすらしない。そんな冷え切った家庭環境に、マルは息が詰まりそうで仕方がなかった。だからマルは此処に来てマサノブと他愛ない話をして帰るのだ。

 学校に来いというのはただの口実だ。そんな理由でもないとココの扉を開けない自分には、ほとほと嫌気が差している。


「黙ってないでなんか言ってくれよ! ミルクはちゃんとやっているし、泣いた時には今みたいにあやすことだってある。そりゃ、実験に夢中でミルクを忘れることはあるけど… …。でも、この子が泣いてくれるお陰でそろそろもう昼かとか……前みたいに時間を忘れて、栄養も取るのを忘れるなんてことはなくなったんだぜ!」


マサノブはマルが黙っていたのを無言の圧力と勘違いし、自供した犯人のように早口でまくし立てた。


「いや、ちょっと考え事をね……」


口実のことは言い出せないので、お茶を濁した言い方になってしまう。

マサノブがその言葉を聞いていたかどうかは分からないが、左腕に付けている腕時計を

チラッと見る。赤ちゃんを後ろ手に抱えてポスターのような筒を三本ほど持ったまま、「あ、悪い。実験の準備もあるしそろそろ行かないと。深夜十二時に『穴』の前だからな!忘れるなよ」と、いって出て行った。

 嵐を擬人化したらあんな感じになるんだろうなと思いつつ、マルは学校へ向かった。

歩きながら考える。


 深夜十二時『穴』の前か。

『穴』というのはワームホールのことだ。

比喩でも何でもなく SF 作品によく出てきたりするアレだ。

三年前に突如として、東京にダムのような幅五メートルの穴が出現した。深さや土質を観察すべく、専門家が調査を開始した。

その結果、その穴は何と! カナダのビクトリアに通じていることが分かった。

当時は連日その『穴』のことばかりニュースになって報道されていたが、今となってはたまに話題に上る程度になっている。

この『穴』について好奇心をもって調べたがる人達はたくさんいた。

しかし、『穴』を調査すると出て行ったきり戻ってこない若者や、『穴』を調べていた人物が、謎の変死体となって発見されることが続いてからというもの、ピタリと動きが止まった。メディアも報道しなくなった。あの『穴』について分かった事実は、ワームホールだということだけだった。


マサノブは簡単そうに言っていたが、あの『穴』は政府の管理下に置かれ厳重に警備されていて、迂闊に近寄ることなどできない。

深夜十二時だったら、もしかして警備は手薄かもしれないが……………。

でも、なんだって『穴』の前で実験なんだ?

まさか、消されたりはしないよな?

不安を抱えつつも学校に着き、靴箱で上履きに履き替える。

 見慣れた二年C組の教室に入る。

ホームルームが始まるまでに時間があるので、そこまで生徒の人数は揃っていなかった。

マルは、スクールバックから教科書と筆記用具を出して机の下に入れる。

隣の席の内田さんがマルの肩をちょんちょん、と突っついた。


「ねえ、ねえ、今日もあの子は来ないの?」


毎朝マサノブの様子を見に行くのが、いつの間にかマルの係になっていた。秘密基地のことは内緒にしてあり、普通にマサノブの家に様子を見に行っていることになっている。


「うん、さっき会ったんだけど、来ないってさ」


「あは、そうなんだ! 白衣も来てた?」


「あ、うん。来てたよ」


ボブカットの髪を肩の上でふわふわと揺らしながら、彼女は愉快そうに笑った。

マルは、この内田という女が苦手だった。人の弱いところを見ると笑い、逆に自分が笑われると、じりじりと正当性を主張するかのように相手に詰め寄るこの性格が苦手だった。この女に弱みを見せると玩具のように弄ばれる。だからマルは、内田と話す時は慎重に、果汁の一滴さえ吟味して選び取った言葉を発している。

ちなみに、名前を言うと馬鹿にされそうだったのでマルで通した。

「あーー、週二だけしかみんなと会えないのって寂しいなー。マルもそう思うよね?」


「ああ、うん。そうだね」


 必死で選び抜いた無難な言葉を紡ぐ。今にも息が詰まりそうになる。

内田はその後も話を続けてきて。マルも相槌を打っていたが、そのうちに飽きたのか別のグループに移っていった。

はあ、とため息を吐く。げっそりと HP を削られた気分だ。


「朝っぱらから大変だったな、マル」


同情するような声で前田が声を掛けてくれた。丸刈り頭がいかにも運動部っぽい出で立ちで、さらに耳にはピアスを付けている。

 一見怖そうな見た目だが、ピアスの穴を空けているのは、かっこいいからという馬鹿っぽい理由からだ。一応マルと同じ水泳部だが、入部理由がエラ呼吸をしたい! と本人の口から聞いた時には絶句した。


 ちなみに、意外にも極度に憶病でビビりの一面がある。

内田は見た目こそゆるふわ女子で、いかにも男子ウケしてモテそうだが、中身には化物が潜んでいる。

内田と前田は対照的である。人は見た目では判断できないなと、二人を観察していると強く感じた。


「そう思うなら助けろよ………」


「いやー、勘弁! 頭悪いからぜってー変なこと言って怒らせちゃうもん」

 そういう自覚はあったんだな……。

「あ、そうだ。今日は部活来るのか? 内容は自主練だけっぽいから、べつにサボっても

バレないぞ」


にししっと、登場して真っ先にやられる敵役のような笑い方をして問うてくる。


「や、今日もいつも通り行くよ」


「そっか、了解」


  ビシッと敬礼をして答える。いちいち動きが五月蠅いんだよな、こいつ……………。

キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴る。


「じゃあ、またな! 席替えまで頑張れ。にしし」


前田は席に戻っていった。最後に一言。皮肉いって帰ったのが腹立つな……。

授業もそつなくこなし、やがて、放課後になる。

マルは放課後が好きだった。

 もっと正確に言えば夏の放課後、窓から聞こえてくる吹奏楽部の練習音、談笑する生徒の声、残ってテスト勉強をする生徒が捲る頁の音。

この全部が好きなのだ。

全部の音を、聞いていると心がクリアになれる。

クロールしている時は特にクリアに聞こえる。水泳部に入った理由もそれだ。自分の身体を本当の意味で、自分のモノだと感じることができる。


「マル! 行こうぜ!」


「おう」


前田と共に部室に向かう。

 部室はプールの横にある小さな小屋のようなところだ。

 校庭を突っ切って行く。

 うだるような暑さが肌をちくちくと差す。


「あっちーな……早く水ん中、入りてぇ……」


 前田は、汗を拭いながら呟く。


「分かる。こんな日は音がクリアに聞こえて、気持ち良いんだろうな」


「音? 変なやつだな」


お前だけには、言われたくない。

そうこうしているうちに部室に着いたので、水着に着替える。

前田は下に水着を履いていたようで、ものの一〇秒ほどで服を脱いでプールサイドに向かって行った。

マルはゆっくりと着替えてプールサイドに向かった。

塩素の匂いが鼻を刺激する。

深呼吸する。肺まで塩素が入ってくる。

前田はもう水の中に入って泳いでいた。本来なら点呼を取ってから練習メニューをこなすのが基本だが、今日は自主練なので各自、自由に泳いでいる。

マルは飛び込み板に立ち、勢いよく飛び込んだ。

水中の中で体育座りをする。うん、やっぱりココだと雑音が少ない。ココと秘密基地はマルにとって安らげる場所だ。水の中はいい。何者にも邪魔されない。トクン、トクンと自分の心臓の音だけが聞こえる。

息を限界まで止めると、自分自身がクリアになり自分を意識できる。


 空気が欲しくなったので顔を出す。

十分に息を肺に吸い込んだら、また潜る。これを三セットほど繰り返して自己を認識する。

所謂、瞑想みたいなものだ。これをするとタイムが伸びる(感覚的にだが)マルは、自主練の終わりまで五〇メートルを黙々とクロールで泳いでいた。


「マルってほんとクロール好きだよな」


  服を着替えている時、前田に尋ねられた。


「まあ、泳ぎやすいからな」


クロールじゃなくても泳げるが、何となくクロールが一番泳ぎやすくて好きだった。

マルが答えると、前田は髪をかき上げながらふーんと言った。

透明な水泳バックに水着を入れて、肩に乗せる。辺りは薄暗くなってきている。じめじめした暑さはどこかに消え、涼しい風がシャツの中に入りこんでくる。時計を見ると時刻は六時四十五分だった。


「気持ちー風だな!アイス食って帰ろうぜ!」


 VR でもアイスは食べられるが前田は直に食べる方が好きらしい。マルもそっちの方が好きだ。

古き良き昔の風情というものだろうか、今から五〇年ほど前には放課後コンビニ前にたむろしてアイスを食べたり、縁側でスイカを食べるということもあったらしい。今でも時たま見かけるが VR さえあればそんなことも追体験できるので実際にやる人は少ない。便利になるのは良いこと。それに変わりはないだろうが機械に頼りすぎると、忘れちゃいけないものまで忘れてしまいそうでマルは不安だった。

マサノブの研究を否定するつもりはないが、マサノブのやっていることを知ってしまったら疑念を持ってしまうかもしれない。マルはそれが怖くて知ろうとはしなかった。

でも今夜、とうとう知る時が来た。


知ってしまったら、何かが変わってしまうのは決定的だ。

 それでもマルは構わないと思った。

知ってマサノブと同じ土俵に立ちたいと願ったのだ。

次からは学校のない日にも、秘密基地に行きたい。

理由がなければ動けない自分とは、もうオサラバしたかった。

学校近くのコンビニに着き、ソーダ味のアイスを買った。部活終わりに食べるアイスは格別に美味かった。前田とは他愛のない談笑をして、コンビニの前で別れた。


「じゃあ、俺こっちだから。また明日なマル」


「おう、また明日」


 軽く手を挙げて言った。

マルは、口の中にほんのりと残るソーダ味の余韻に浸りながら家路に向かった。



 部活終わりということもあって夕食はたらふく食べた。いや、正確には食べさせられたというべきか。

父は育ち盛りなんだからもっと食えと、頼んでもいないのにご飯を山盛りにして、母は美味しそうに食べるマルを見て満足そうに微笑んでいた。

自室に行き、ベッドに寝ころがり天井を見つめるマル。これ以上は食べられない、動けない

 父と母は良い人達だ。

マルの家庭環境は何不自由なく幸せだった。

 けれどマルは、それを息苦しく感じていた。 

 マルの心の奥底では刺激を求めていた。

 横になっていると急激に眠気が襲ってきた。

 マルは瞑目した。

しんしんと夜も更けた頃。

VR からけたたましく鳴り響く着信音でマルは目が覚めた。


「んん、もしもし」


  欠伸を堪えながら電話に出た。


「マル。まさか寝ていたわけじゃないよな…………?」


  マサノブの声を聞いてハッとする。

 時刻は十一時四十分だ。


「ね、寝てない。寝てない。課題をやっていたんだよ。今からそっちに行くよ!」


「あ、待った。秘密基地にビデオカメラを忘れたから取りに行ってくれ」


 ビデオカメラ? 何でまた時代遅れなものを。カメラなら VR でも撮れるだろうに……。

疑問に思いながらも、マルは渋々了承した。


「ん、分かった。取りに行ってからそっちに行くよ」


「なるべく早くな。見つかりたくはない」


見つかるって誰に? と聞こうとしたら通話は切れていた。

マルは頬を強く叩き、ポシェットに多少の金銭と本、ライトを入れた。

この時間帯だと多少肌寒いと思い、Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織り下は少し分厚いジーンズに着替えた。父と母を起こさないようにそっと外に出た。


 自宅から秘密基地はそれほど離れていないが、秘密基地からワームホールのある場所まで歩いて行くとなると三〇分弱はかかる。

なのでマルはガレージに行き、父のアンティーク品の自転車を使うことにした。

埃は被っていたが、幸い動作に問題はないようで、ペダルを踏むとすいすいと動き出した。

夜風が頬に当たって心地良い。パーカーが大きく揺れる。

 自転車に乗って行ったこともあり、秘密基地にはすぐに着いた。

当然といえば当然だが秘密基地は暗すぎて、どこが入り口すら分からない。

ポシェットに入れていたライトの電源を入れて辺りを照らす。


「そういえばビデオカメラ、どこにあるか聞くのを忘れたな……」


ぼやきながら、掛けていた VR を瞳に合わせてセットしようとしたところで、机の上に置かれている大きくて黒い物体を見つけた。

これがビデオカメラか……………。


マルはポシェットにビデオカメラをねじ込み、自転車を全速力で飛ばした。

 ガコン、ガコンと車輪が跳ねた。ヘッドライトに照らされた街はミニチュアのような世界で、誰も存在しないのではないかとさえ思えた。

そのまま数分、作業を繰り返すように足を動かしていたらワームホール前に着いた。

汗をシャツで拭い、自転車から降りる。マサノブはどこだろうか。


マルは VR を開き、マサノブにメールを送った。街灯は二、三本あったのでまるっきり真っ暗闇というわけではなかったが、ライトを持っていないと自分の立ち位置さえ分からなかった。下手に動いたら、迷子になってしまいそうだ。

 VR のマッピング機能を使えば今自分が何処にいるのかわかる。そういうアプリが入っていることをマルは今思い出した。


「そうと決まれば、スキャンしちゃおう」


 VR を瞳に合わせセットし、今自分がいる地面を触ることでスキャンができる。

建物が多いと時間は多少かかるが、五分もあれば基本的には終わる。

 スキャンが完了すると、 VR をかけていなくてもレンズからホログラム状に地図が映し出される。

こんな便利な機能をぜんぜん使っていないなんて、宝の持ち腐れだな。

 マルが地面に触ろうとした瞬間、何者かの手がマルの手を持ち、捻り上げた。


「いっ、痛い………! だ、誰?」


 VR をかけたままだと外の景色が分からないので、マルはパニックになった。

何者かがマルの VR を外した。そこに現れたのは白衣を着た見知った顔だった。


「俺だ……ったく、敵の基地なのに不用心過ぎるぞ」

 マサノブは呆れ気味に言った。


「マサノブだったのか……。びっくりした……………。心臓止まるかと。でも、なんでスキャンする寸前で止めたの?」


「こんな厳重な警備の中でスキャンなんてしたら、直ぐにバレて何もかもおじゃんになるところだぞ」


マサノブはこめかみに手を置いていた。


「それは、ごめん…………」


「まあ、過ぎたことはいいさ。実験をする前に概要を説明するからついてきてくれ」


マサノブは、さっき居た場所から少し離れたところにある小さな倉庫に、マルを連れてきた。

そこは、意外にもキチンと掃除されていて、秘密基地のようなジメジメした場所ではなく、蜘蛛の巣も張っていなかった。

 むしろこっちの方が秘密基地らしい作りだった。電気もガスも通っていた。マサノブは隅の方だけ電気を点けた。

 秘密基地の名前返上した方がいいのでは……………?


「ここは最近まで使われていたんだ。綺麗なのはそのためさ」

 マサノブは隅の方に座った。


「へーそうなんだ。どおりで綺麗なわけだ」


 マルもマサノブの隣に行き、座った。


「で、そろそろ話してくれるの。どうしてワームホールの前に集合させたのか。そしてこれから始まる実験の内容を」


「もちろん。そのためにココに来たんだ」


 マサノブはバックパックの中から、大きめの板と一足分ぐらいの、形が不揃いな岩のようなモノを出した。


「あ、ビデオカメラ持って来たよな? 回してくれ」


「いいけど、なんだってこんな型落ちのビデオカメラで撮影するんだ? 撮影なら VR でもできると思うんだけど…………」


マルはポシェットの中からビデオカメラを取り出して言った。


「 VR で撮影したとしても、向こうで起動できるかどうか怪しい。それに今回のタイムスリップは不確定要素が多すぎる。もしかしたら、向こうに着いて記憶が欠如している可能性だってある」


マサノブはさも当然かのように言葉を発したが、マルは混乱した。


「ま、待って、今タイムスリップって言った? 過去に行くの?」


 マルは頭を必死に働かせてマサノブに聞いた。


「ああ、過去に行く。あの『穴』、ワームホールを使ってな。ビデオカメラを回せ。概要を説明する」


  マルは慌ててビデオカメラを起動させる。起動の仕方は前にマサノブが使っているところを見たことがあるので、何となしには分かった。


「ん、おっけい。できたよ」


「よし、じゃあ。これを映してくれ」


  マサノブが指差したのは、先ほどバックパックから取り出した大きめの板と、靴一足分ぐらいの大きさの不揃いな岩だった。

マルは指示通りにその二つをカメラに映す。

資料用として使うからか、はたまた誰かに見せるためか、丁寧な言葉を使って話し始めた。


「えー、この板は小型探査機『はやぶさ』の一部です。そしてこの不揃いな岩は『はやぶさ』に付着していた岩です」


  小型探査機『はやぶさ』 教科書に載っていたので覚えている。確か…………二〇一〇年に地球に戻って来たんだっけ。あの頃はみんな宇宙に移住することを夢見ていたのかな。

そんな五〇年も昔のことに想いを馳せていると、少し引っかかることがあった。

 小型探査機『はやぶさ』は人類が歩んだ歴史として、人類歴史博物館に展示されているはずだ。

それの一部がここにあるということは……………。


「まさか、盗んだの?」


 思わず声が出てしまったマル。マサノブは目を大きく広げてぎょっとした。


「……………仕方なかったんだ。これはどうしても必要なことなんだ」


 何かワケがありそうな雰囲気だった。マルがそれを聞こうとしたら、マサノブはカメラの前で説明を続けたので聞こうにも聞けなかった。


「えー、この岩を色々調べて分かったことなのですが、この岩は物質をマイナスにする性質があるのです。そう、未だ存在を確認されていないエキゾチック物質なのです!」


 エキゾチック物質。 

SF 小説を読んだことがあるから分かる。

いわゆる負の質量を持つ物質。

普通、自然界にあるどんな物質でも秤にかければプラスに動く。でもエキゾチック物質は負の質量を持っているので、マイナスに働くという。

そもそも、架空の存在だと思われていた物が本当に存在するとは……………。

 マルは心底驚いて、まじまじとその『岩』を見つめていた。

んんっと、咳込む声が聞こえた。ちゃんと撮れということだろう。

カメラを『岩』に向けた。


「実は、このエキゾチック物質。質量をマイナスにするだけではなく、他の性質があるということも分かったのです」


マサノブはそう言うと、岩を持ち、地面に思いっ切り叩き付けた。


「ちょ、何やってるんだよ!!」


「まあ、見てなって」


マサノブが指をさした岩を再度見てみると、欠けた岩の小さなカケラが『岩』に戻ってきている。

それは、まるで自身の身体を治す防御反応のようだった。


「エキゾチック物質は、質量をマイナスにする性質と、元に戻りうる性質もあるんです!!」


マサノブは興奮しながら言った。

『岩』は徐々に元の不揃いな形に戻った。 

 まるで最初から割れた形跡なんてなかったかのように。


「凄い……………」


マルは啞然としていた。


「人類を含めた全てのものは素粒子の塊で、人がそれを観測すると物質化するって話もあるけれど、それは別の機会にしようか。今はタイムスリップの話だ」


「でも、この岩でどうやってタイムスリップをする気?」


「この『岩』つまりエキゾチック物質には、さっきも話したように物質をマイナスにする性質と、元に戻る性質がある。これを持って『穴』の中に入る」


『岩』を持って『穴』に?

ふと、マルの頭に思い浮んだ説があった。


「もしかして、エキゾチック物質理論のことを言ってる?」


「正解っ! エキゾチック物質を『穴』に入れることで不安定な『穴』、所謂ワームホールを安定化させ、物体や情報を通すってやつだな。だが、ここの『穴』ができる前の時代には戻ることはできない。そこで、エキゾチック物質の新しく発見した性質。元に戻る性質だ」


「元に戻る性質?」


「そう、小型探査機『はやぶさ』が地球に戻ってきたのが二〇一〇年。『はやぶさ』に付着していたエキゾチック物質には元に戻る性質があるから、ワームホールができる前の年

にタイムスリップできるってワケだ」


言葉だけなら簡単そうに聞こえるが、本当に過去になんていけるのだろうか?


「不安に思っているかもしれないが大丈夫。きっと成功するさ」


 マサノブの声は自信に溢れていた。


「タイムスリップの方法と原理は分かったけど、マサノブはどうしてそこまでして過去に行きたいんだ?」


「…………まあ、色々あってな」


マサノブは渋い顔をし、頬をかきながら言った。

窓を見ると、さっきまで雲間に隠れていた月が顔を出した。


「今日は満月か…………」


 何気なく呟いた。


「っとまあ、大体の概要はこんな感じです。では今から実験を開始します」


 マサノブはカメラに向けて、慇懃に喋っていた。


「そういえば、ふと思ったんだけど。タイムトラベルじゃなくてタイムスリップなんだな」


「ああ、まあ別にタイムトラベルでもいいんだけど、『穴』の中に飛び込むからトラベルじゃなくてスリップの方が適切かなと思ってさ。それに個人的にタイムトラベルは機械を使って過去に行くってイメージが強いんだ」


 マサノブなりの拘りなのだろうか。だがそれに関してはマルも同意見だった。タイムトラベルといえばロマンのある機械に乗って、過去や未来に行く。 SF 小説にもそれは書かれている。


「凄く分かる。タイムトラベルはなんていうかロマンがあるもんな」


 マルは、嚙みしめて言った。


「俺のタイムスリップはロマンが無くて悪かったな」


「あ、いや。そういうワケじゃ………」


「分かってる。冗談だよ。っと、ちょっと待ってろ『スーツ』を取ってくる」


 そう言い残し、マサノブは倉庫の奥の方へ消えていった。マルはビデオカメラをその場に置き、背伸びをした。

 マサノブがいなくなると急に倉庫が大きく見えた。こんなに静かだったんだな。

電気は今いる場所しか点いていないので、どれだけ暗闇に目を凝らしても何かがあるということしか分からない。

 少しすると、奥からマサノブが白いぶかぶかした被り物を持って戻ってきた。


「これは………宇宙服?」


かつて、宇宙に恋焦がれていた人類が宇宙に行く為に着ていた服だ。こんな昔の遺産がここに眠っているとは。


「ただの宇宙服じゃない。政府が作ったワームホール専用の宇宙服だ」


「政府が?」


  マルはオウム返しに訊いた。


「ああ、これは調べて分かったことなんだが。ワームホールの中ではこの専用の服が無ければ身体がズダボロになるらしい。だからワームホールに行った若者が戻って来ずに、失踪者扱いになっているのもその為だろう。情報操作だな」


 陰謀説じゃなかったのか。なら消されるなんてことはないか。マルはある意味ほっとした。


「でも、なんで情報操作なんて……………」


「んー、知られると不安に思われるからかな。港で話題の陰謀説を否定しなかったのは、その方が都合いいからだろうな」


「都合が良い、か…………。まあ、でも陰謀説じゃないから消されることはないよな?」


「いや、そうとも言えない。だってここ政府管轄だしバレたらかなりヤバイと思う」


ヤ、ヤバイのか。じんわりと手の甲に汗が滲む。

それでもマルはマサノブに付いて行きたいと思った。


「まあ、でも乗り掛かった舟だし最後まで付いていくよ」


 マルは莞爾として笑った。


「そう言ってくれると嬉しい。さ、『スーツ』を着よう。ちなみにこれは俺が改造した服だから俺の発明品といっても過言ではない!ということを宣言しておく!」


 マサノブは腰に手をあて、自慢気に言った。

これは、どこを改造したのか聞いて欲しいんだろうなあ……。

 

「ええっと、どこを改造したの?」


「ふふふ、それは……エキゾチック物質を入れるための透明なポケットを付けたことだ!」


 宇宙服をよく見ると、胸のあたりに『岩』を入れるためのポケットが地味に取り付けられていた。


「えっ、それだけ…………?」


  心からの声だった。


「それだけって言うな! 『スーツ』にエキゾチック物質を入れることでタイムスリップ

できるんだぞ!!」


 マサノブは、マルの言葉が気に入らなかったのか熱弁していた。

マサノブは天才なのだが、ちょっとズレているところがある。宇宙服を頑なに宇宙服と呼ばないことも。自分の発明品だということを誇張したいがために『スーツ』と呼ばせていることは、長年の付き合いで分かった。


「いや、ごめん。まあ、これで過去に行けるんだから凄いよね、この宇宙服」


「『スーツ』な!!」


  マサノブは拳を振って訂正を促した。

白衣の擦る音がよく耳に届いた。

マサノブと漫才みたいな絡みをしつつも、マルとマサノブは宇宙服………じゃなくて『スーツ』に着替えた。

着替えるといっても今着ている服の上に被る構造なので、時間はそんなにかからなかった。



「じゃあ、行くか二〇一〇年へ」


マサノブは拳を突き出して力強い声を上げた。

『スーツ』越しだと、くぐもった声になって、ヘルメットが少し曇っていた。

 これから過去に行くのか。マルは遊園地のアトラクション待ちのような気分でワクワクしていた。


「そういえば、この倉庫からワームホールまでって、距離的にはどのくらいなの?」


マルはスキャンする寸前でマサノブに止められたので、ここ一帯の地理のことは把握できていない。


「ここから少し歩いたところにあるフェンスをくぐった先にある。フェンスは前もって切ってあるからくぐるのは難しくないと思う」


 用意周到だな、とマルは思った。

この日のためにマサノブは準備してきたのだろう。ならば、それを失敗させないように絶対に過去に行こうと決めた。

マサノブは倉庫の入り口まで移動して、隅っこの電気を消した。マサノブは自前のライトを点けて前へ進んだ。マルもライトを点けて付いて行く。

 『スーツ』を着ていると、少し歩いただけで息が上がる。


マサノブの言った通り、少し歩くとフェンスがあった。その先は整備されていない獣道で、とてもこの先にワームホールがあるとは思えない道だった。

 フェンスの下の方に切り取った跡があった。おそらくマサノブがペンチか何かで切ったのだろう。

 ギリギリ人、一人が通れる大きさだった。

マサノブは慣れた様子ですいすいと進んでいく。

 マルは、ほふく前進をして、『スーツ』が破れないように気を付けて進んでいく。


『スーツ』の中はもうサウナ状態だ。暑い、飲み物が飲みたい。

ようやくフェンスを抜けると、マサノブが座って何かをしていた。



「なに、してるの?」


「ん? ああ、『岩』を砕いてるんだよ。ほら、これマルのポケットの中に入れといてくれ」


 マサノブから渡された『岩』を透明な胸ポケットの中に入れた。

 マサノブも同じようにして、『岩』をポケットの中に入れた。


「マサノブ…………このスーツ暑い……………飲み物とかない………………?」


「ああ、悪い。右横の腰あたりにあるボタンが空調システムだ。押せばだいぶ楽になると思う。それと、これ水。ヘルメットのバイザーの開閉ボタンは首辺りにあるから」


 マサノブに言われた通りに空調のボタンとヘルメットのボタンを押した。

 空調システムのおかげで幾分と楽になった。水を受け取り、喉に流し込む。乾いていた粘膜に水分が戻ってくる。潜水をしている時みたいに自分が戻ってくる。

結局、マサノブからもらった水を全部飲み干した。


「そんなに喉乾いていたんだな。空調システムのこと最初から言うべきだったな、悪い」


 マサノブはヘルメットのバイザーを開けて、頭を下げた。


「えっ、いや大丈夫だよ。暑かったけど水も飲んだし、今はむしろ快適だし」


 マルはマサノブのこんな姿を見たのは初めてだったので、少し戸惑った。


「今回の実験は不確定要素が多い。多すぎる。それでもここまで付いてきてくれてありがとう。でも、二〇一〇年に行って戻れる保証もない。そもそもタイムスリップする目的も言ってない……………だから、マルは今から帰ってもいいんだ」


 マサノブは訥々と話した。

 マサノブの声と腕は震えていた。

マルはそれを見てさっきまでのマサノブの違和感を理解した。言葉では来ない方が良いと言っているが、本当は怖いのだ。一人で過去に行くこと、マルに行かないと否定されることが。

 マサノブは天才だと思われ、もてはやされて自身も自負していたが、本当は皆と同じ悩みや不安を抱えている一人の高校生なんだ。

マルはマサノブに怖いものはないと思っていた。けれど、それは間違いだった。マサノブだって人間だし怖いものはある。マルはゴクリと生唾を飲みマサノブに向かって言った。


「いや、帰らない。僕は僕の意志でココにいるんだ。マサノブに言われたからじゃない。

キチンと選択してココにいるんだ。だから、僕はマサノブと一緒に過去に行くよ」


「……………そうか、ありがとうマル」


 マサノブの瞳は、喜びに満ち溢れているようだった。

刹那、大音量のサイレンが辺り一帯に響き渡った。赤いランプの光が渦を巻くように回転する。


「奴らにバレたっ…………!?」


 マサノブは血相を変えて走り出した。マルは見失わないように必死に追いかける。


「ま、待てって……!! これからどうするんだ!」


追いついたマルは、マサノブの『スーツ』の端っこを掴む。


「決まってんだろ!このままワームホールに、『穴』に飛び込むんだよ!!」


「さっきはあんなに焦っていたのに……」


「頭の中で距離を計算していたんだよ。『穴』に着くのは俺たちの方が早い。だから大丈夫だ」


マサノブは自身の頭をトントンと叩きながら言った。

マサノブの言動の移り変わりを少し怪訝に思っていたが、根拠があるのなら良かった。マルは、ほっと胸を撫で下ろした。


「っと、そうこうしてる間に目的地に着いたみたいだな」


 砂利道を超えた先の地面にそれはあった 真っ黒な円形型の大きい口がマル達を見つめていた。人、一人直ぐに食べられてしまうぐらいの幅があり、この暗黒空間の中に飛び込むには少々勇気がいった。


 『穴』は、まるでずっと前からそこにあったかのように自然に存在していた。不自然なはずだが、まるで欠けたパズルのピースが合わさったように合致していた。

渦のようにゆっくりと回る空気に、少しの間マルは目を奪われていた。そこでマルは思い出した。かつて宇宙を目指していた人類が、懸命に研究をしていたブラックホールに似ていることを。


「ブラックホールに似ているような……」


  マルは腕を組みながら呟く。


「ん? なんか言ったか?」


「いや、なんでも。にしても、本当にこの中に飛び込むの……?」


「服着ているから死にはしねぇって」


マサノブはマルの背中を思いっ切り叩いた。


「いったぁ……何するんだよ」


「これで気合入っただろ?」


マサノブは、茶目っ気ある笑みを浮かべた。


「や、根性論じゃどうにもならないことも世の中にはあってだね………………」


 マルが『穴』に飛び込むのを渋っていると、サーチライトがマル達を見つけて照らす。同時にヘリコプターの旋回音が近くで聞こえた。

 バンッ! と、何か破裂音のようなものが耳に響いた。隣にいたマサノブが膝から崩れ落ちた。 それを見て、ようやくマルはマサノブが銃か何かで撃たれていたということに気付いた。

 肩から血が流れ出て、白い『スーツ』は深紅に染まっている。


「お、おい!? マサノブ? マサノブ! しっかりしろ!」


マルはマサノブの肩を必死に抑えた。これ以上血が流れないように。


「 HQ 侵入者の足を止めた。今から確保する」


頭上でマサノブの肩を撃った人物が無線で誰かと話している。

 マルは怒りがこみ上げてきた。なんでこんなことをするんだ。殴りたい衝動に駆られたが、殴ったところでどうにもならない。ひと先ずは、ここから逃げることが先決だ。

でも、逃げきれるのか?

ヘリコプターの旋回音は、もう聞こえない。おそらく着陸したのだろう。

それに追いつかれずにマサノブを背負って、果たして逃げきれるのだろうか?


「マル……………び込め……………」


  マサノブが声を発したので思考を現実に戻す。


「なに、どうした?」

 

「『穴』に……飛び込むんだ…………!!」


 マサノブは地面の砂を強く握りしめた。


「でも、そんな傷じゃ飛び込んだらどうなるか分からないぞ!!」


「それでも…………それでもいいんだ。飛ばないと、全てが無駄になる………だから、飛ぶんだ………」


マサノブの肩を撃った奴が弾を装填しながらこちらに近づいてくる。選択肢は、ない。


「しっかり捕まってろよ、マサノブ!!」


マルは目をギュッと瞑り『穴』の中に飛び込んだ。


「!? 待て!」


 後ろで声が聞こえたが、それも一瞬で無くなった。何も聞こえない。

『穴』の中は、水中のように静かで、時間が止まっているかのようだった。

マルはゆっくりと目を開いた。そこは、重力がなく身体が浮いていた。


「なんだ? これ」


戸惑いつつも、マルはマサノブに声をかけようとしたが、隣にマサノブはいなかった。

代わりに、血が円形になり金魚のように泳いでいた。


「えっ、マサノブ…………?」


 悲しむ余裕さえ、その時のマルにはなかった。

ガチャリと、歯車が動き出したからだ。時が戻っていく。

ジェットコースターのように景色が過ぎる。無だった空間に色彩が現れ着色されていく。

マルの身体に大量のGが錘のようにのしかかる。


「なんだ……こ……………れ……………」


マルの意識は、そこでブラックアウトした。



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