一 『エトワール』 - 2
「妹に感謝するんだな。シャルロットがお前を気に入らなければ、お前なんぞとっくに殺してやっていたのに」
しばらく歩いていると、前の方から忌々しそうにクリヴァールが恨み節を吐き出した。
ここまで横暴にしても、この国では問題にならない。否、正確には問題があるはずなのに、クリヴァールの行動が許されているのは、このコアコセリフ国の貴族であるタルボットが父親にいるからだ。
商売の上手かった彼の父親は、この国の領主としても力を相応に持っていた。
そのおかげもあって当人たちの横暴が多少なりとも通ってしまうようだった。
兵士たちもクリヴァールとタルボット本人を怖がって口出しするどころか、彼らに同調するようになっていってしまった。
彼の嫌味を聞き流しながらも、後ろについて周りを観察するために視線を移していく。
何度も見た土の壁には脱出できるような穴はなく、手で掘ったとしても先に爪が割れてしまうであろうことは明白だった。
やがて幾ばくもしないうちに上へと昇る石段が現れた。むき出しの石段で一段一段と上るうちに、土や岩の壁から人の手の入ったレンガの壁になっていった。
階段を上りきると、柔らかな橙色の光が降り注いでいる城内の廊下に出て、地下特有の湿った臭いではなく、人の生活の匂いが混ざったものに変わっていく。
レンガ造りの壁には豪奢な装飾や額に入れられた絵画と、暗い廊下を照らす蝋燭が現れ始め、自分が歩いている場所が人の住んでいる場所なんだなということを思い出させてくれた。
視線を前に戻すとハウスメイドの働いている姿が目に入った。
彼女たちも私の姿を認めたのか、こちらを向くなりひそひそと小声で何かを話している様子が目に入ってしまった。
噂話の内容は耳を貸さないでもわかる。
「ほら、見て――」「あら、何て小汚い……」「あれがシャルロット様の――」「信じられないわ、あれにご執心なんて」
しかし、満足に耳をふさぐことさえできない私の耳には容赦なくその言葉が突き刺さって来る。
――また、シャルロット様の悪口……。シャルロット様はお優しいだけなのに。
シャルロット様が酔狂で私を飼っているのだと言いふらされると、急に私の身分が恥ずかしてしょうがなかった。
シャルロット様は優しいお人だ。こんな私にも気にするなとお言葉をかけてくれるが、それでもシャルロット様に恥を与えているのだと考えると一層頬が熱く感じられた。
羞恥に耐えていると、クリヴァールと兵士がとある部屋の前で立ち止まり、私に入るように命令した。
命令された通り、何かされないかと恐るおそる部屋に入る。
ここはたしか脱衣場と呼ばれる場所だったはずで、中には衣服を置くための籠と、奥の浴室に行くための扉がある。
中を覗いていると、背中を押されてよろけてしまった。
「早く入れ、のろまな奴隷が。いいか、今からお前の枷を外すが逃げようとはするなよ。逃げた奴隷は殺せと命じてある。命が惜しいのなら、反抗しないことだな」
こくこくと頷くと、クリヴァールはふんと鼻を鳴らしながら兵士たちに私の枷を外すようにと命令した。
相当にイラついているのか、私の枷を外す兵士を睨みながら思い切り舌打ちをするのが聞こえてくる。
「くそ、なんで寄りにもよってシャルロットはお前のような浮浪者を……」
どうやら私がこの城内に入っていることがそれほど気に入らないようだった。しかし、彼の身分を考えれば当然と言えば当然かもしれない。
奴隷として買ったはずの人間をみすみす同じ城内の、それも客用とはいえ浴室に入れるなど彼の自尊心が許さないのだろう。
シャルロット様はそうではないようだったが、それが普通なのだともわかる。
ようやく枷が外れて体が少し軽くなる。兵士が枷を外し終えると、すぐに部屋の外へと出ていった。腕が軽くなったことにほっとして服を脱ごうとしたが、彼らはまだ部屋の中が見える場所に立ったままだった。
クリヴァールたちがまだいることに躊躇してしまっていると、浴室のドアの前にはこちらを覗いてくる不快な視線が見えてしまい顔の筋肉を硬直した。
兵士がこちらを見ながらにやにやと笑っている顔が容易に想像できる。
「何を躊躇している。恥ずかしがってるのか? ふん、奴隷のお前は人間ですらないぞ。そんな無駄なことはする暇があったら、待たせている時間に気を使え」
視線を気にしていたことに気が付かれてしまったのか、クリヴァールはそんな言葉を吐いて、私の衣服――ほぼぼろきれと化していた布でしたが――を無理やり剥ぎ取られてしまった。反射的に隠そうとして腕を前に動かすが、腕を痛いほど握られて浴室の中に引っ張られてしまう。
抵抗される間もなく引きずり込まれ、引っ張られていた腕は急に解放される。突然の事だったが、よろめきながらもなんとかお湯の張られたバスタブに手をつくことが出来た。
「早く入れ、この私が直々にお前を入れてやってるんだ」
彼の言動に嫌な予感を覚えて身構えていると、彼の腕が頭の上に伸びるのが見えて体が反射的に跳ねてしまった。
私の反応にイラついたのか、彼に思い切り髪の毛を掴まれて、抵抗する間もなくお湯の張られたバスタブに頭が吸い寄せられた。彼の意図に気が付いたときには、私の顔は既にお湯の中に沈んでいた。
「がっ! がぼ、ぐ……、がぼが!」
押さえつけられた頭を上げようと必死に抵抗する。
しかし、地下牢に閉じ込められていた私には男である彼に対抗するほどの力はどこにもなく、必死に上げようとしている頭はいつまでたっても水中から上がらなかった。
焦って彼の手を掴もうとしてバスタブの端で手を叩きつけてしまい、手のひらと爪に嫌な痛みが走る。その痛みがさらに焦りが積もっていく。
空気を求めていた肺が勝手に喉を締め付け、自然と頭を包んでいる水が喉の奥へと侵入し、肺が求めていた呼吸を邪魔した。
このままでは死んでしまう。
もしかしたらこのまま空気を吸うことが出来ずに殺されるかもしれない。そんな恐怖が思考の端をちらついて、何とかついていたはずの膝もガクガクと震え、床に何度もぶつかった。
パニックに陥る寸前急に押し付けられていた力から解放されて、張られていた湯から顔を出すことが出来た。
「っはぁ! かはっ、えほ…………」
何とか息を吸い込みながら見上げると、そこにはつまらなそうに視線をそらしているクリヴァールの姿が見えた。
信じられない。この男は私が生きていることがそこまで不満があるというのだろうか。
「……なんだその目は。この私がお前をわざわざ風呂にまで連れてきてやってるのに、その態度。奴隷って言うのはよほど叛逆が板についているらしいな」
「すいません……」
「ふん、気持ちの悪い奴隷が。どうしてシャルロットはこいつを気に入ってるんだか」
クリヴァールは何度目かわからない文句を口にすると、満足したのか浴室の扉をわざわざ閉めて出ていってくれた。
おかげで、兵士の嫌な視線をさえぎってくれた。初めてこの家の育ちの良さに感謝した。
改めて体を洗おうと思ってバスタブに近寄り、指先が震えていることに気が付いて、慌ててバスタブから離れると、震えと呼吸の乱れが収まってくれた。
やはり、先ほどのことがフラッシュバックして、バスタブに近づいただけで呼吸が乱れてしまうようだった。
数度、なんとか体を清めることが出来ないかと挑戦してみるが、その度に指が震え、喉が詰まりそうでとてもではないが湯につかることなんてできそうにない。
このままでは汚い身なりのままシャルロット様に会うことになってしまう。それだけは避けなければならないと、辺りを見回して水の入った桶を見つけられる。
中身をすべてぶちまけてからバスタブのお湯を恐るおそるすくって、そこから手ですくったお湯を使って体を拭うことにした。
体に触れる手がまだ震えていて、それを抑えるように自分の体を抱きしめた。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせようと何度も繰り返す。
――今日はシャルロット様のお相手なのだ。何か起きるわけではない。大丈夫。平気。
震えが納まるのを待ってから、ゆっくりと体の汚れを拭って行った。