一 『エトワール』
とても、寒かった。
ゆっくりと、瞼を開ける。
そこには夢物語のように私の目覚めを待ってくれている両親や、温かい朝食の光景が広がっている。
……わけではなかった。
僅かにまぶたを開く。
地面に吸い寄せられるように垂れている自分の髪の間から、私が寝ていた部屋の様子がよく見えた。
松明が付けられていない部屋はとても暗く、光が差し込んでくるはずの窓はどこにもない。
あるのは私を閉じ込めるための鉄格子と、冷たい石の床だけ……。
頬には今も鉄のように固く冷たい感触があって、自分はまた床に倒れこんでしまっているのだな、ともやがかかったような頭で理解した。
曖昧だった体の感覚が段々と戻ってきて寒さを感じるようになり、あまりの寒さに身震いをしてしまう。
今はとても寒い。とても寒い、霜が降りる季節の……いつだっただろうか。
それすらもおぼろげになってしまうほど、この地下牢に長く閉じ込められていた。
そう、地下牢だった。
真っ暗なこの場所は寒くて、冷たくて……。
それ以外に感じることと言えば、酷い匂いくらい。
すえた匂いに、人の糞尿が入り交じったかのようなひどい悪臭。それと、ここが地下たからだろうか。湿り気を帯びたカビ臭さも混じったそれは、私の知る限り最悪の臭いだった。
目が覚めたばかりの意識の中で、嫌な臭いだけがやけにはっきりと自分の認識を占めている。
鼻を刺激していく臭いにさらされて、唐突に息ができるのか不安になって息を吐き出した。
枯れた喉から出てきたか細い吐息で、それでも自分がちゃんとまだ生きているんだな、とぼうっとした頭で考える。
手足を動かそうとすると、手首に痛みが走った。
視線を自分の手足に映して、自分の置かれている状況を思い出して自分の努力が無意味なのだと思い知らされる。
骨が浮き出るほど、枯れ枝のように細い腕には、木枠と鎖が付けられた枷がはまり重くのしかかっていた。
身じろぎのたびに古い木枠がこすれて皮膚を削っていき、痛みが増すだけだった。
なんとか動けないかと四苦八苦していると、地下牢の扉が開けられ誰かが入ってくるような音が聞こえてくる。
鉄の擦れ合う音と、革靴が石畳を叩く足音が聞こえてきて、その足音はすぐ近くで止まった。
「うへ、くっせぇ! おい、なんでこんなやせ細った奴隷を連れて来いなんて命令が来たんだよ……」
「お前、新人か? それをあまり大きな声で言わない方が身のためだ。その奴隷はシャルロットお嬢様の一番のお気に入りのお世話係さまだからな」
「はっ、こんなやつがか? 肌も髪も白い人間なんて気味が悪いったらありゃしない」
声と声の合間に、鉄と鉄をすり合わせる独特の音が石の壁に反響する。
反応できずにいると、おもむろに肩に鈍痛が走り、枯れ果てていたと思っていたのどから声が出て、自分でも驚いてしまった。
それが合図だったかのように髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられてしまう。
よほど嫌なにおいがするのか、彼は腕をピンと伸ばして私を遠ざけようとしているのが見えた。
「なんでこんな臭いの奴隷がシャルロット様のお気に入りなんだか」
「おい、気をつけろよ。俺達が怪我をさせてるところがシャルロット様に見つかってみろ。タルボット様に告げ口されたら殺されるのは俺達かもしれないぞ」
「マジかよ……。それなら大事にしねぇとな」
かしゃり、と何かが意思の地面をする音が聞こえ、腕が引っ張られる。
視界の端で木枠についている鎖を兵士が引っ張っているのが見えた。
「ほら、奴隷としてのお務めだ、立て」
言われたとおりに立とうとして、引っ張られた腕でバランスを崩して、そのまま地下牢から放り出されるような形で体が牢屋から放り出される。
そのまま受け身を取ることもできずに地面に顔を打ち付けてしまう。
頭の重みで固い石に頬が叩きつけられ、鼻の奥に鈍い音が響いた。
痛む頬が地面に触れないように庇いながら体を起こすと、目の前に革靴を履いた人の足があるのが見え、おそるおそる視線を上げるとそこには豪奢な服装をした大柄な男の姿があった。
背の高い大柄な男――この城、アフェール城の城主の息子であるクリヴァールが、忌々しそうな表情をして牢屋の中から引っ張り出されてきた私を睨んでいた。
この城の主であるタルボットは見ず知らずの人間を拷問にかけることが生きがいのような男で、どういう理由かはわからないが、牢に捕らえた人間を男女見境なく拷問にかけ続けている、そんな最低の男だった。
今目の前にいるクリヴァールは、その息子で、妹に気に入られているのが気にくわないらしく、私を拷問紛いの行為で傷つけるのを楽しむような男だった。
そんなクリヴァールが不機嫌そうな顔をしてそこに立っていた。
恐るおそる表情をうかがうと、とても不機嫌そうに見下ろしていた。表情から察するに、どうやら私を弄びに来たようではないようだとわかって安心した。
「起きろ、奴隷。妹がお前を呼んでいる」
「しゃ、ルロット様が……」
ようやく喉に声が通り、思い通りに発音ができるようになっていることに安心し、ついでシャルロット様が呼んでいるという言葉が聞こえて胸が高鳴った。
シャルロット様。
彼女は私にとっての唯一の救いで、この城で唯一私に優しくしてくれている、タルボットの娘だった。
本来なら、私は他の人と一緒にタルボットのいじきになるはずだったのだが、こうして地下牢で飼われながら生きているのは、私を気に入ってくれた彼女のおかげだった。
今日はそのシャルロット様の当番の日らしかった。
私がこの地下牢を出られるのは、シャルロット様の遊びの相手として選ばれる月に数回の機会と、タルボットとクリヴァールの気晴らしだけ。
今日はシャルロット様の呼び出しだから、クリヴァールの機嫌が悪いらしい。
枷がつけられたままの腕で何とか立ち上がると、前後を兵士に固められる。
念のための監視だと思うけれど、私なんかがこの状況でなにか出きるわけがないのに。
クリヴァールがそれを確認すると地下牢を進んでいく。
壁に体重を預けていると、手元の鎖が引っ張られて、拒否権のない私は重い足を引きずって後について行くことしかできなかった。