町の人と交流します! 4
ザザン……と波が打ち寄せる。
これから夏に向かう海は、日差しを反射してキラキラと輝いていた。
空に雲は少なく、海と空の境界も曖昧になるほど真っ青だ。
フリーデリックと並んでサンドイッチを食べる。
海の音に交じってカモメの鳴く声も響き、遠くから町の音も聞こえてくるが、周りに人がいないせいか、音はするのに妙な静寂を感じてしまう。
(診療所……か)
アリシアは先ほどのクララの診療所が気になって仕方ない。
アリシアは前世で看護師だった。クララの診療所に消毒液の匂いはしないが、懐かしく感じてしまうのは、アリシアの前世が関係しているのかもしれない。
懐かしくて、どうしても手を出したくなってしまう。
幸せとは言い難い前世だったが、仕事だけは、望んだ仕事に就くことができた。
その好きな仕事が多忙すぎて体調を崩したり、プライベートの時間もろくに取れなかったけれど、仕事をしているときだけは幸せだったと思う。
(あんな設備じゃ、せいぜいかすり傷の手当てくらいしかできないわ……)
半年前に祖父から継いだというクララの知識量も気になる。
もしも重病人が出たらどうなるのだろうか。この国の医療がそれほど発達していないことはアリシアも知っていたが、だからこそ、気になるのかもしれない。
「アリシア……嬢。食が進んでいないが、大丈夫か?」
食べかけのサンドイッチを持ったまま考え込んでしまっていた。フリーデリックに話しかけられてアリシアはハッとする。
顔をあげれば、心配そうな顔がすぐ近くにあった。今日の空と同じで、吸い込まれそうなほどの青に息を呑む。ドキリと鳴った心臓は、きっと驚いたからだ。ときめきじゃない。
「今日は風が冷たいからな。体が冷えたか? 城に戻ろうか?」
「大丈夫ですわ。考え事をしていただけです」
「考え事?」
「……さっきの、男の子のことですわ」
嘘ではない。診療所が一番気になっていたが、怪我をした男の子のことも気がかりだった。大きなけがではなかったが、できれば走り回らずに、せめて今日くらいは安静にしていてほしいものだ。
アリシアが答えると、フリーデリックの双眸が、なぜか柔らかく細められる。
「優しいな」
「……このくらい、普通ですわ」
「いや、アリシア……嬢は、優しいよ」
優しく微笑まれて、アリシアの心臓がドキドキしはじめる。
これは演技だ、嘘だと思うのに――、フリーデリックが本心からそう告げているような気がしてしまい、どうしていいのかわからない。
「あなたに何がわかりますの?」
つっけんどんに返してしまっても、フリーデリックは微笑んだままだった。
(なんでそんな顔をするのよ)
アリシアはぷいっとフリーデリックに背を向けると、食べかけのサンドイッチにかぶりつく。
背中にフリーデリックの視線を感じるせいか、アリシアの心臓はしばらく落ち着かなかった。
☆
次の日、アリシアは再び町へ行くことにした。
アリシアが町に行くと言えば、フリーデリックは一緒についてきたがったが、領主となった彼は暇ではない。
書類仕事に不慣れな彼は、どうやらアリシアと毎日出かけるほどの余裕がないらしい。騎士としての彼は優秀だが、領主としてはまだひよっこの彼には、学ばなければならないことも多いのだろう。
フリーデリックはジーンに執務室に押し込められて悔しそうだったが、アリシアはこれ幸いと馬車を借りて一人で町にやってきた。
昨日からクララの診療所が気になって仕方がなかったのだ。
十五歳の女の子が一人で診療所を切り盛りするのは大変だろう。おせっかいかもしれないが、せめて何か手助けができればと思ったのだ。
診療所を覗けば、クララは中で一心不乱に薬草をすりつぶしていた。
「クララ、お邪魔してもよろしいかしら?」
アリシアが声をかければ、クララは驚いたように顔をあげた。
「えっ、アリシア様?」
アリシアがまた来ると思っていなかったのだろう。慌てて立ち上がろうとするクララを制して、アリシアは診療所の奥――クララの座る、一段高くなったところに腰を下ろした。
クララがすりつぶしている濃い緑の葉からは清涼感漂ういい香りがしている。
「それは……、ミントかしら?」
「あ、はい。もうすぐ虫が出るし、かゆみ止めように」
「あなたが育てていますの?」
「はい、ここの裏に小さな薬草園があって、そこで育てているんです」
「じゃあ、ここに吊るしてある薬草はどれもそうなのかしら?」
アリシアは診療所の中を見渡した。まだ乾燥しきっていないものもあるが、たくさんの薬草が梁や軒下からぶら下がっている。
「育てている分もありますけど、海沿いに生えているものや、少し行ったところの丘に生えているものもあるんです。今から夏にかけてたくさん採れるので、今のうちにとって干しておくんです」
「そう、すごいのね」
アリシアは感心した。前世では化学薬品が普通だったが、この世界のそのような便利なものはない。薬草を調合して薬にするのが当たり前で、王都に売られている薬も薬草を粉末にしたものや油と一緒に練ったものがほとんどだった。たまに怪しい動物の骨なんかも売られてはいるが、アリシアはそんなものはほとんど役に立たないことを知っているので、見向きもしない。
クララははにかんだように笑って、ごりごりとミントをすりつぶす作業を再開する。
心配してきてみたが、これならそれほど心配しなくてもいいだろうか。アリシアがホッとしたとき、外が騒がしくなって、アリシアはクララと顔を見合わせた。
「なにかしらね?」
アリシアとクララは立ち上がり、診療所の外へ出る。
すると、ちょうど、一人の男が三人の男に担がれてこちらへ向かってくるところだった。
担がれているのは二十代半ばほどの赤ら顔の男で、右の足をおさえて、脂汗を浮かべてうめいている。
「どうしたんですの?」
足を怪我したのだろうかとアリシアが駆け寄ってみれば、右の足のふくらはぎがみみず腫れになっていた。
アリシアはその腫れている部分を見て、ハッとした。
「クラゲに刺されたのね?」
アリシアが訊ねれば、担いでいる方の男の一人が頷いた。
「ともかく中へ!」
クララが慌てて男を診療所の中に入れる。
「待って! こすらないで!」
男を診療所の中に寝かせて、クララが男の患部に手を伸ばすのを見て、アリシアはとっさに叫んだ。
クララがびくりと手を止める。
「クラゲに刺されたところをこすったりしたら駄目ですわ。まず、残っているクラゲの針を抜かなくちゃ。ピンセット……なんてあるはずありませんわね……、針、針のようなものはないかしら? それから布も! そこのあなた! 海に戻って海水を汲んできてちょうだい。洗い流すのは真水じゃない方がいいの」
アリシアに指名された背の高い男が、慌てて海に駆けていく。
クララはぽかんとした顔でアリシアを見上げていたが、アリシアが「早く針を貸してちょうだい!」と言うと、慌てておくから裁縫用の針を持って来た。
エタノールのような消毒液はないため、アリシアは診療所に残っておろおろしている男たちに火を用意するように告げ、針をあぶって消毒する。熱くない程度に針が冷めると、片手に布を持ち、針に触れないように慎重に男のふくらはぎからクラゲの毒針を抜きはじめた。
海水を汲みに行った男が戻ってくると、刺された患部を何度も海水で洗い流す。
(もう! どうして海に近いところで生活しているくせに、処置の仕方を知らないのかしら?)
アリシアはあきれながらもてきぱきと処置を終え、しばらく安静にした方がいいと、診療所に男を寝かせておくようにクララに告げる。
幸い、男の様子から見て、猛毒のクラゲではなさそうだ。
ホッとしたアリシアはふと、クララが目を丸くしてこちらを見上げていることに気がついた。
「ど、どうかしまして?」
余計なことをしてしまったのかしらとアリシアは狼狽えてしまう。だが、黙っていたら患部をこすりそうだったし、見ていられなかったのだから仕方がない。
しかし、余計なことをしたのは本当だから、一言謝った方がいいのかしらとアリシアが本気で考えはじめたとき、
「アリシア様……、医学の心得があるんですか!?」
キラキラと目を輝かせて、クララがアリシアの両手を握りしめた。
「すごいです! すごく早くて……、それに、あたし、いつも、クラゲに刺されたところをこすって温めていて、やり方が違うって知らなくて……、とにかくすごいです!」
「い、いえ、たまたまですわよ。たまたま、ちょっとだけ知っているくらいで、そんなに感動するほどのことでは……」
クララにものすごく感動されて、アリシアは違った意味で狼狽える。
おろおろしていると、治療を終えて横になっている男にも「婚約者様、ありがとうございました」とお礼を言われてしまい、アリシアの頬が赤く染まった。
昨日もそうだったが、誰かに「ありがとう」と感謝されたのは本当に久しぶりで――、もう、「アリシア」としては永遠にないのではないかと思っていた。
(どうしよう、嬉しい……、泣きそう……)
急に泣きはじめたら、クララたちがびっくりするだろう。アリシアは必死に涙を押しとどめて微笑んだ。
「ともかく、大事にならなくてよかったですわ。今度からクラゲに刺されたら、海水でしっかり洗って棘を抜く! 絶対ですわよ」
アリシアはクララたちに念を押すと、これ以上ここにいては本当に泣きそうなので、名残惜しいが、診療所をあとにすることにする。
今日はちょっとした手違いがあったようだが、クララは薬草に詳しいようだし、それほど心配する必要はなかったかもしれない。
アリシアは少しほっとしながら、町の外に止めてあった馬車に乗り込んだ。
馬車に乗った途端、誰も見ていないと気が緩んで、ついポロリと涙を一粒こぼしてしまったのは、フリーデリックには絶対に秘密だ。