ラジアンの思惑 3
「母上、父上がトチ狂ったことをしている例の件ですけど――」
ディアスは母の私室を訪れていた。
母である王妃の私室は国王の部屋と内扉でつながっているが、今国王は執務室にいるので話を聞かれる心配もない。
ディアスが訪れたとき、王妃マデリーンは部屋でのんびりと――いや、目を充血させながら、かなり危ない手つきでハンカチに刺繍を施していた。
剣を振り回したり馬に乗ったりと体を動かすことは得意なマデリーンだが、手先はそれほど器用ではない。
公爵令嬢だったマデリーンは幼いころから、刺繍や音楽などの教養としてそれなりに叩き込まれてきたはずなのだが、特に刺繍は不得手中の不得手。
子供のころに母の手先の危なっかしさにいつもハラハラしていたディアスは、ぎょっとしてマデリーンの手から針と糸を取り上げた。
「何しているんですか、母上」
「うん? ああ、ディアスか。久々に針を持ってみたんだけど、なんだかうまくいかなくてね。これ何に見える?」
そう言ってマデリーンに渡されたハンカチに刺繍されているものをみて、ディアスはぐっと眉間に皺を寄せた。
何に見えるか? 何にも見えない。強いて言えば――
「……獅子?」
獅子にも見えないが、ギザギザとした丸い円が、たてがみに見えなくもない。
ディアスが苦し紛れにそう答えると、マデリーンはがっくりと肩を落とした。
「マーガレットのつもりだったんだけどね」
「え? マーガレット?」
ディアスはハンカチを二度見した。マーガレット――、逆さにしてもひっくり返しても、どうやっても花には見えない。どうして花を描こうとしてこんな意味不明な獅子もどきになるのだろう。
ただまあ、母にしてはハンカチが血だらけになっていないだけましだとは思うけれど。
「またどうして急に刺繍なんか……」
「……この前手紙のことで怒りすぎてしまって、ブライアンが拗ねたからね。さすがに言いすぎたかなと思ってね」
「はあ……」
口だけではなくしっかりと手が出ていたが、そこは突っ込まないでおく。
言わんとすることはわかるが、父が悪いのだから放っておけばいいのにと思うブライアンである。
息子の目から見て父は母のことを盲目的に愛しているし、多少機嫌が悪くなったところで、母に話しかけられさえすればころっと機嫌を直すに決まっているのだ。
第一、母が自ら刺繍したハンカチなんて受け取ったりしたら――、父のことだ、数時間はディアス相手にのろけ話をするのが目に見えている。
(最悪だ)
ディアスはハンカチを母に返しながら、にっこりと微笑んだ。
「その独創的な絵柄が気に入りました。俺が使ってもいいですか?」
「え、これが? うん、まあいいけど……」
「ありがとうございます。父上なんて、母上が五分でも一緒にティータイムをすごして差し上げれば、すぐに機嫌は直ると思いますよ」
ディアスはこうして父に捕まってのろけ話を聞かされると言う危険を回避すると、改めて母に向きなおった。
「それで、その父上の手紙のことなんですが」
「ああ、ユミリーナとフリーデリックを結婚させようとした件?」
「そうです。その件で、少し気になることがありまして」
「気になること?」
「はい。詳しいことはもう少し調べたあとでご報告しますが。この件はしばらくの間、俺に預からせてくれませんか?」
マデリーンは不思議そうに首をひねったが、少なくともこの息子は夫よりも何倍も信頼できる。
マデリーンは大きく頷いた。
「わかった、じゃあその間、ブライアンがまた余計なことをしないように目を光らせておくよ」
ディアスはほっと息をついて、「お願いします」と頭を下げた。
☆
ラジアン王子の手紙はフリーデリックに預かってもらった。
アリシアは丁重に断りの返事を書こうかとしたのだが、フリーデリックが「無視しておけばいい」と言ったために返事も書いていない。
相手は一国の王子で、無視していい立場ではないのだが、しかしラジアンの手紙も相当不躾だ。相手にしなくていいとフリーデリックは言う。
ラジアン王子からの手紙が届いてからというもの、フリーデリックは難しい顔で考え込むことが多くなった。
アリシアは、いつまたラジアンの使者がやってくるかもわからないので、あれからずっとステビアーナ城の中ですごしている。
結婚式の準備は進んでいるし、フリーデリックもこのまま結婚することに異論はない。もちろんアリシアも――。
けれども、死ぬはずだった自分が生きていて、前世で読んでいた小説とは違うストーリーへ進んでいくことに、今更ながらに不安を覚えた。
幸せになりたい。でも、それは望んではいけないことだったのではないかと、心の中で、悪徳令嬢と蔑まれて生きてきた自分が言う。
その不安は、一日一日と大きくなり、アリシアは日に日に食欲がなくなっていった。
そんなときだった。
ユミリーナから一通の手紙が届いた。
ジョシュアは親善試合の打ち合わせの準備に忙しいらしく、手紙はジョシュアの部下のものが持って来た。
手紙はまずフリーデリックに渡されたらしい。
フリーデリックに呼ばれてアリシアが執務室を訪れると、手紙を持って来たジョシュアの部下はすでに帰途についたようで、フリーデリック一人がそこにいた。
アリシアを呼んだ時にすでに準備をさせていたのか、ソファの前のテーブルにはアップルパイと紅茶がおかれていた。
「俺もちょうど一息ついたんだ、一緒に休憩しよう」
そう言ってフリーデリックがソファに腰を下ろし、アリシアにアップルパイを勧めてくる。
アリシアがここ最近食欲がないことに気づいている彼は、こうして、アリシアに何か食べさせようと一生懸命だ。
そんなフリーデリックの気持ちがわかるから、アリシアは食欲がなくてもフォークを手に取った。
二口ほどアップルパイを食べて、アリシアは紅茶で喉を潤すと、フリーデリックがホッとしたような表情を浮かべていた。
(また心配をかけちゃったのね……)
アリシアが元気そうにしていないとフリーデリックが心配するのはわかっている。わかっているのにすぐに気落ちしてしまうこの性格は何とかしなくてはいけないとアリシアは自分を叱咤してから、笑顔を作った。
「ユミリーナ王女から手紙が届いたと聞きましたわ」
「ああ、そうだった。これだ」
ユミリーナから手紙が届くことは珍しくないが、ラジアンの手紙の一件があったからか、アリシアは手紙を受け取るときに緊張してしまった。
ペーパーナイフで封を切ると、薄桃色の便せんにユミリーナの繊細な字が書かれている。
またいつもの他愛ない内容の手紙かと思って読み進めていたアリシアは、手紙を読むにつれて表情を強張らせた。
「どうした?」
アリシアが難しい顔をしたのを見て、フリーデリックが隣に移動してくる。
肩を引き寄せられて、アリシアはフリーデリックに寄りかかりながら、ユミリーナの手紙を手渡した。
「……ラジアン王子から、婚約破棄の打診があったそうですわ」
「なに?」
「まだ陛下やマデリーン様の耳には入っていないようで、ユミリーナだけに言われたみたいですけど、……ラジアン王子からは、リックと結婚するようにと言われたと」
「はあ?」
「好きな人と結婚するのが一番幸せだと、そう言われて聞く耳を持ってもらえなかったと――」
フリーデリックはアリシアから渡されたユミリーナの手紙に視線を走らせて、呆れたように息をついた。
「意味がわからない。あの王子は何がしたいんだ」
「わたしもわかりませんわ。……ただ、ラジアン王子はどうしてもあなたとユミリーナを結婚させたいんですのね」
「そんなことをして王子に何のメリットがある」
「それは――」
アリシアは言いかけて口を閉ざした。
これを言ったら、自意識過剰だと思われるだろうか。
しかし、実際に、過去にも何度も手紙が送りつけられてきている。――関係ないと、言い切れない。
アリシアはフリーデリックに体重を預けたまま、口を開いた。
「たぶんそれは――、わたしの、せいですわ」







