広がりはじめた暗雲 3
ジョシュアが王城へ戻ると、そこには待ち構えたように騎乗服姿で仁王立ちしているマデリーンを見つけて、彼は馬車から降りて慌てて回れ右をした。
「待て、どうして逃げるんだ」
すかさずマデリーンに腕をとられて、ジョシュアはあきらめたように嘆息した。
眼鏡の淵を押し上げつつ振り返り、
「今日はいろいろ忙しいので手合わせはお断りします。事務仕事もたくさんあるんです。いつものように殿下と第三騎士団の騎士たちと楽しく稽古に励んでください」
ジョシュアは逃げ腰でそうまくしたてた。
フリーデリックに第三騎士団にマデリーンとディアスが顔を出すようになって暇になったと言ったジョシュアだったが、それには少し誤りがある。マデリーンたちが第三騎士団に顔を出すようになって、なにかと仕切ってくれるのは間違いないのだが、なにかにつけてジョシュアを引っ張りまわすようになった。基本的に適度に手を抜いて疲れることはしたくないというスタンスのジョシュアにはもちろん大迷惑な話で、彼は何か用事を見つけては彼らから逃げ回っていたのだ。つまり、国王の手紙のお遣いも、実は彼が買って出た仕事の一つだった。
手加減とか手を抜くとかという言葉は辞書になく、とにかく全力で力尽きるまでがモットーなこの王妃を相手にしていては、三日と体がもたない。こんな母親に育てられたディアスもものすごくタフなタイプなので、涼しい顔でぶっ通し三時間の手合わせを要求された時は、飲み物に眠り薬でも仕込んでやろうかと本気で考えたほどだ。
そのため、ジョシュアの中にはこの母子の顔を見れば即逃げろという教訓が刻まれつつあったのだが――、今日は逃げることに失敗したようで、彼は心の中で舌打ちした。
マデリーンはきょとんとして、それから豪快に笑った。
「違う違う! さすがのわたしも帰ってきてすぐに稽古に引きずっていくほど鬼じゃないよ」
いや、充分鬼だ――、さすがに言葉には出さなかったがジョシュアは内心でそうつぶやいた。
マデリーンはカラカラ笑いながら、「はい」とジョシュアに向かって手を差し出した。
「フリーデリックからの手紙を持っているんだろう?」
「……なぜ知ってるんですか?」
「あのろくでなしが何か企んでいそうだとディアスが気づいてねぇ」
確かにあの国王はろくでなしだが、さすがに王城で頷くわけにもいかず、ジョシュアは曖昧に笑った。
「締め上げてくるから、その手紙を渡しなさい」
「……それは……、あとで俺が陛下に文句を言われることになるじゃないですか」
「わたしが無理やり取り上げたと言えばいいだろう?」
確かに嫌だと言っても無理やり取り上げられそうな雰囲気ではあるが、そんな言い訳をしたところで国王からネチネチと文句を言われる未来に変わりはない。
ジョシュアは渋ったが、マデリーンはにっこりと極上の笑顔を浮かべてこう言った。
「渡さないならそれでもいいよ。わたしはこれからその手紙を持ってあの馬鹿を締め上げることに時間を使おうと思っていたけど、それをしないならいつも通り騎士団で剣の稽古をするだけだ。ああ、もちろん君には付き合ってもらうからそのつもり――」
「どうぞ、これがフリーデリックの手紙です」
ジョシュアはみなまで聞く前にさっとフリーデリックの手紙を差し出した。国王にネチネチと小言を言われるのとマデリーンに振り回されるのであれば、前者の方がまだましだ。聞いたふりをして耳を塞いでいればいいだけの話なのだから。
マデリーンは満足そうに頷いてジョシュアから手紙を受け取ると、パキポキと指を流しながら、城の中へと歩いて行った。
遠くで国王の悲鳴を聞いたような気がしたが聞かなかったふりをして、ジョシュアは自身が城で与えられている部屋に向かった。
騎士団と言っても、騎士団長――ジョシュアは代理だが――ともなると、多少のデスクワークも存在する。例えば王族の身辺警護やその配置、会議の準備に、視察や休暇に向かう王族の護衛の手配やスケジュール管理など、地味に忙しい。
部屋に入ると執務机の上には書類の束がおいてあり、ジョシュアはうんざりする羽目になった。
「忘れてた……、親善試合の打ち合わせがあったんだった」
ジョシュアは執務机の上から一枚の取り上げるとやれやれと肩をすくめた。
隣国エルボリスとの親善試合――。毎年年末に行われるそれは、リニア王国とエルボリス王国の騎士団で行われる交流試合だ。開催地は毎年交互になっており、今年はエルボリスで行われる予定である。
(フリーデリックの結婚式の三週間後、か……)
エルボリスまで王都から馬車で二週間ばかりかかることを考えると、焦りはしないが少々タイトなスケジュール。
親善試合に参加する騎士は毎年十五名から二十名ほどで、各騎士団の団長が集まって選出するが、前回の大会の優勝者であるフリーデリックの参加が今年は望めないとなると、第三騎士団からジョシュアが引っ張り出されるのは必至だろう。
(第一第二の騎士団長は負けるのが嫌で出ないからな……。第五隊は女性ばかりだから、グループが違うし)
親善試合は男女混合ではない。試合は男女それぞれ別となっているため、昔マデリーン王妃が所属していた第五騎士団は別枠での参加だ。
第四騎士団は男女混合だが、どちらかと言えば諜報活動を主にしている騎士団で、あまりこう言った試合には出たがらない。顔が割れると諜報活動に支障をきたすからだ。
結果、暗黙の了解で、親善試合は第三騎士団が仕切ることになっており――、フリーデリックがいないせいでそれはジョシュアの役割となるのだ。
「打ち合わせは明日か――、まずい、まだリストを作っていなかった」
第三騎士団から推薦する騎士のリストの作成を急がなければ――とジョシュアが頭を抱えていると、コンコンと扉が叩かれて顔をあげる。
返事をする前にガチャリと扉が開いたところを見ると――
「殿下……、せめて返事をしてから入ってきてくださいよ。もし俺が着替え中だったらどうするんですか」
「なに意味の分からないことを言っているんだ。婦女子じゃあるまいし、着替えを見られて何か不都合でも?」
許可なく部屋に入ってきた王太子ディアスは、ジョシュアの苦言にも耳を貸すつもりはないらしい。
我が物顔で部屋に入り込むと、後ろ手で扉をしめて、執務机に座るジョシュアのもとへ大股で近づいてきた。
「殿下、一応俺の部屋には隊の機密事項とかもあるんですけどね」
「俺が見てはいけないものがあるのか?」
「まあ――、たまに不都合がある方はいらっしゃるでしょうが、俺的には別に」
「陛下の悪だくみはむしろ率先してみたいものだがな」
「悪だくみってあなた……、仮にも自分の父親でしょうに」
「事実だから仕方ない」
ディアスは小さく笑ってそう答えると、ジョシュアの手から親善試合についての会議資料を取り上げた。
「今度のエルボリスとの打ち合わせはいつだ?」
「エルボリスとの打ち合わせですか……? そう、ですね。おそらく来月には一度あるかと思いますが」
親善試合の打ち合わせは、国境付近にあるエルボリスの旧王城で開かれる。現在のエルボリスの城までは馬車で二週間かかるが、旧王城までは約一週間程度で到着するので、お互いの代表者が集まって相談する場所として昔から利用させてもらっているのだ。
「そうか……。たしか、打ち合わせは親善試合に参加するものの代表者だったな。お前も行くのだろう?」
「俺が出ることは決定なんでしょうねぇ……、まあ、おそらくは行くことになるかと」
「じゃあ、ついでに俺の名前も上げておいてくれ」
「――は?」
ジョシュアは目を丸くした。ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げてディアスを見れば、彼はニッと口の端を持ち上げる。
「今回は俺も出ることにする。来月の打ち合わせにも参加するつもりだ。よろしくな」
「決定事項ですか……、まあ、陛下が反対してもおそらくマデリーン様が押し通すでしょうし……、いいですよ。第三騎士団の仮所属者として殿下の名前をあげておきます」
しかしいったいどういう風の吹きまわしなんだ――、ジョシュアは内心首を傾げながらも、推薦者リストにディアスの名前を書き記したのだった。
☆
ジョシュアが王都エルラッカに戻って一週間。
フリーデリックの返信に対して国王が何か言ってくるだろうと身構えていたアリシアだったが、どうやら杞憂だったらしい。
結婚式まであと二か月と少し。招待者リストもでき、ドレスも完成を待つばかり、教会を飾る花やブーケなどは庭師にお願い済みで、彼が大切に育てている温室の薔薇や、結婚式に合わせて取り寄せてくれた花など準備も万端だ。
結婚式を執り行ってくれる司祭は、マデリーン王妃がわざわざ王都の大聖堂に声をかけてくれて派遣の手はずを整えてくれた。
いずれはステビアーナ城に隣接する教会にも常駐で司祭を呼び、領民の結婚式や礼拝のために教会を開放したいとは思っているが、それはもう少し先の話になりそうだった。
(もう、あとはあまりやることがないのかしらね)
結婚式のあとのパーティーの料理のメニューも決まっている。ステビアーナ城の料理長の腕はピカイチなので何の心配もいらない。
本当は広い庭を使ってガーデンパーティーで行いたかったのだが、冬の寒い時期に招待客を寒空の下に立たせるわけにもいかないだろう。城の大広間の飾り付けはまだ先だが、そちらの方もジーンが仕切ってくれていた抜かりはない。
アリシアは、気分転換もかねてクララの診療所に向かっていた。
長らく国の管轄という名目の下ほとんど放置されていたステビアーナ地方。税の取り立て以外に役人がやってくることもなかったこの地方を、もっと住民が住みやすい地にしたいと思う。
特に目立った観光資源もないため、よそからの観光客はおろか、行商人もほとんどやってこなかったステビアーナ地方のため、何かしてあげたいというのがアリシアの最近の悩みだ。
(海が近いし、真珠や珊瑚が取れると言っていたし――、素敵なアクセサリーに加工出来たらいいと思うんだけど)
真珠の養殖技術はこの国には存在しない。しかしアリシアも真珠の養殖の方法は知らないため、それをこの地方で――と言うのは難しいだろう。そのため天然の真珠を採取して加工する必要があるのだが、それほど数は取れないため、大量生産は不可。希少価値を高めるしかない。
あとは、フリーデリックが言っていたが、海に面した町と反対方向にあるアガートという町の近くの山から水晶が取れるらしい。本格的に採掘を開始して加工販売すれば、町の雇用も生まれて外からの人も集まり活気が出るだろうとのことだ。
もちろん、それらはすぐに明日から――という風にはならないだろう。少しずつこの地に活気を産むことができればいいと思う。
そんなことを考えながらクララの診療所に向かっていると、アリシアは診療所の前に見慣れない男が立っていることに気がついた。
不審に思って近づいてみれば、クララが「だから、アリシア様はいらっしゃいませんってば!」と怒っているのが見える。
どうしたのだろうと思って「クララ」と声をかけると、クララと男が同時に振り向いた。
「わたしがどうかしましたの?」
アリシアはそれとなくクララをかばうように男とクララの間に入る。
クララは口を尖らせてアリシアを見上げた。
「この男がずっと『アリシア様を出せ!』って言うんです! 昨日も来たんですよ!」
きっと不審者です――と、アリシアにだけ聞こえる声で囁くクララに、アリシアは小さく苦笑する。
確かに怪しいが、しかし、どちらかと言えば温厚で優しいクララをここまで怒らせるとは、この男はどこまでしつこかったのだろう。
アリシアは黒い外套に身を包んだ男を見上げた。中肉中背でこれと言った特徴はない。肌は浅黒く、細い一重の目はどうも感情が読みにくかった。
「アリシア・フォンターニア公爵令嬢ですね」
「そうですけど……、見ない顔ですわね」
この町ではもちろん、王都にいたときも面識がなかったはずだ。いったい誰だろう――アリシアが首を傾げていると、男はすっと一通の手紙を差し出した。
「我が主からです」
「主……?」
アリシアは怪訝そうになり、手紙をひっくり返してみたが差出人の名前はない。しかし、押されている封蝋を見て、さっと顔色を変えた。
(この封蝋――)
見覚えがあるなんてものではない。忘れたくても忘れられない、苦い記憶だ。
「エルボリス――、ラジアン王太子殿下の……」
茫然とつぶやく。
そう、押されている封蝋は、アリシアの下に何度も手紙を送りつけてきたエルボリスの王太子ラジアンのものだったのだ。







