国王の暴走 3
「んー! いい天気!」
馬車を降りて、雲一つない秋晴れの空の下、アリシアはクララの診療所に向けて歩いていた。
潮を含んだ風はひんやりとしていて、動きやすいドレスの上に薄手の外套を羽織っているが、それでも少し肌寒い。
先日、フリーデリックが贈ってくれた毛織のショールを持ってくればよかったと思いながら歩いていると、すっかり顔見知りになった町の人たちから次々に声をかけられた。
「アリシア様、あんたがイカを干したらうまいって言っていたから試したら好評だよ! 少し分けたげるから持って帰りな!」
顔なじみの店のおばさんから一夜干しのイカを受け取って、アリシアがお礼を言いつつ立ち話をしていれば、あっという間に町の人に取り囲まれる。
あれよあれよといろいろなものを手渡されて、持ちきれないほど手土産を持たされたアリシアは、笑いながらクララの診療所へ向かった。
先日、これから風邪を引きやすくなるからと、蜂蜜とショウガを混ぜて作った「のど飴」をクララに持たせたところ、これが非常に好評だったらしい。
蜂蜜はこのあたりでは取れないため、フリーデリックに頼んで買い付けてもらい、作ったのど飴をクララに届けるために町にやってきたのだ。
クララの診療所に入ると、ちょうど最後の一人を診終わったところだった。焦げ茶色の髪を三つ編みにしたそばかす顔の少女はアリシアを見るとパッと顔を輝かせて、部屋の奥から駆けてくる。
「この前ののど飴ですわ。そろそろなくなったと思って」
町の人たちからもらった手土産をおかせてもらい、アリシアがのど飴の入った陶器の壺を差し出すと、クララは大切そうにそれを受け取った。
「ありがとうございます! 実はもうなくなっていて……。のどが痛いって人が増えたから助かります!」
「最近、急に寒くなりましたものね。あなたも無理をして体調を崩しては大変ですから、気をつけてくださいな」
クララは「はい!」と元気よく返事をすると、アリシアにお茶を煎れるために奥へ消えていく。
クララはもう充分一人で診療所を切り盛りできており、アリシアが手を貸せることはもうそれほど多くはない。少し淋しいけれど、町のためにもクララのためにも、アリシアはあまり手を出さない方がいいだろうとわかっている。
(リックは何も言わないけれど、未来の領主夫人が、この町を贔屓しているって思われたら、ほかの領地の人たちはいい気がしないものね……)
そうは思いつつ、ついつい手を貸したくなるのだが――、フリーデリックと結婚するのだから、そこのところも考えないといけない部分だ。
公爵令嬢としての教育は受けてきたが、領主夫人となるとまったく勝手が違い、マデリーンに頼んで探してもらった教育係からも少し距離を置くようにと苦言を呈されていた。
徐々に距離を置かなければならないとわかっているからこそ、今許されていることを最大限にしておきたい。
クララもアリシアの事情を理解してくれているので、アリシアがフリーデリックと結婚したのちに、ここへは今のように頻繁に来られないことをわかってくれている。
(蜂蜜とか、そのほか必要なものは、行商が入ることができるようにリックが手配してくれると言っていたし……、もう、ほとんどわたしがすることは残っていないわね)
逆に、領主夫人になれば、今とは違うことで忙しくなるだろう。
アリシアもフリーデリックも、パーティーは好きではないけれど、参加しなくてはいけないものも、主催しなければいけないものも増えてくる。
悪徳令嬢と呼ばれていたときからまだ数か月しかたっていないのに、アリシアを取り巻く環境はめまぐるしい速度で変わっていて――、正直まだ心がついていっていないところがある。
なんだか、思いもよらないほどに丸く収まった気がして、不安を覚える自分もいた。
夢とは言わないが――、どこかでちゃぶ台返しのように、悪い方向へと引き戻されるのではないかと思ってしまう。
(だめね……、まだ余計なことを考えちゃう)
誤解が解けて、フリーデリックと心を通わせて――、もうじき結婚式で、とても幸せだからこそ、不安を覚えるのだろう。
アリシアは急にフリーデリックの顔が見たくなった。
最近、小さな不安を覚えたときは特に、フリーデリックの顔を見たくなる。彼の顔を見るとどうしてか心が落ち着くのだ。安心する。彼がそばにいればすべてうまくいくような気がして、ついつい彼の姿を探すのだ。
アリシアはお茶を持って戻って来たクララとしばらく話をして、診療所をあとにした。
☆
城に戻ったアリシアは、リビングでのんびりとお茶を飲んでいるジョシュアの姿を見つけて目を丸くした。
「ストラウス騎士団長代理、いらしてましたの?」
ジョシュア・ストラウスは顔をあげると、少し嫌そうに眉を寄せた。
「やあ、アリシア嬢、久しぶり。それで、そのストラウス騎士団長代理って呼び方いい加減やめてくれない?」
「ではなんと?」
「ジョシュアでいいよ」
「はあ。では、ジョシュア様、どうしてこちらへ?」
「国王のお使い」
ジョシュアは端的に答えると、茶請けのマドレーヌに手を伸ばす。
アリシアはジョシュアの真向かいに腰かける。
使用人がアリシアのために紅茶を煎れてくれるのを待って、口を開いた。
「陛下のお使いって……、何か、ありましたの?」
「うん。あったといえばあったかな。おかげでフリーデリックはすごい不機嫌。そのせいで僕は執務室を追い出されちゃってねぇ。まったく、あの王様は次から次へと、人をひっかきまわすのが好きだこと」
いやになるよねぇ、とのんびりと言いながら、ジョシュアは二個目のマドレーヌに手を伸ばす。
そののほほんとしたジョシュアの様子に、大ごとではなさそうだとホッとしながらも、国王のお使いというのが気になって仕方がないアリシアだ。
「それで、陛下はなんて?」
「んー? うーん……、そうだねぇ」
「ジョシュア様?」
歯切れの悪いジョシュアに、アリシアが首を傾げると、ジョシュアは面倒そうに髪をかきむしった。
「あーもうさー、いろいろ面倒くさいから、さっさと子供作っちゃえば?」
「え……?」
唐突すぎて何を言われたのかわからなかったアリシアは目をパチパチと瞬き、
「――はい!?」
次に素っ頓狂な声をあげてソファから立ち上がった。
ジョシュアは飄々と、
「だからさー、子供。子供いれば、あの人もひっかきまわす気なんて起きないでしょ。結婚式まで三か月だし、誰も文句なんて言わないでしょ。さっさと一人くらい作っときなよ」
「………」
アリシアはただただポカンと口をあけて、ジョシュアを見下ろした。
「子供嫌いじゃないでしょ? じゃあさっさと産んどきなよ」
「えっと……」
セクハラ――、という概念はこの世界に存在しないから、アリシアはどう返したものかと頭を抱える。
(どうしていきなり子供? そりゃ、子供はほしいけど、でもどうして今? というか今すぐ? 子供って――)
イロイロ想像してしまったアリシアは、みるみるうちに顔を赤く染め上げた。
フリーデリックとはまだ手をつないで庭を歩くだけの関係だ。キスすらしていないのにいきなり子供とか言わないでほしい。確かに三か月後に結婚するが、三か月後に考えたって言いはずだ。
アリシアが答えあぐねていると、ジョシュアが「はー」とため息をつく。
「これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁してほしいんだよね。さっさと子供作ってくれたらさ、『子供できたんで』って言って城に戻れるのにさぁ」
「――ですから、どうしていきなり、子供……?」
「馬鹿な国王がまた馬鹿なことを言いはじめたから」
仮にも自分の主人たる国王を「馬鹿」呼ばわりするジョシュアに、アリシアは言葉もない。
ジョシュアは、三個目のマドレーヌを口に入れて、
「ま、細かいことはフリーデリックに聞きなよ。僕は子供を作って解決するに一票だけどね」
茫然とするアリシアを見上げて、薄く笑った。
☆
「リック――ッ!」
混乱したままリビングを飛び出したアリシアは、その足でフリーデリックのいる執務室の扉を叩いた。
ちょうどそのころ、フリーデリックは国王への手紙を書き終え、手紙に蝋を垂らしてステビアーナ辺境伯の紋の入った型を押して封をしたところだった。
そして、珍しく慌てている様子のアリシアの声に驚き、フリーデリックは椅子から立ち上がると、急いで部屋の扉を開けた。
「アリシア、そんなに慌ててどうしたんだ?」
「こ、国王から意味不明な手紙が来たとジョシュア様に聞いて」
「ああ―――」
フリーデリックは合点して、アリシアを部屋の中に招き入れると、動揺している彼女のためにメイドに紅茶を持ってこさせた。
そして、紅茶を飲んで一息ついたアリシアが少し落ち着いてきたのを見計らって、ジョシュアが持って来た国王ブライアンからの手紙を彼女に差し出した。
「俺も読んだ時は思わず取り乱してしまったが、なんてことはない、あの方が意味不明なことを言いだすのは昔からだ」
「はあ?」
アリシアは首を傾げて、フリーデリックから受け取った手紙を開いた。そして、あんぐりと口を開ける。
「すごいだろう。あの方の脳内はきっといろいろな妄想でいっぱいなんだろうな。冷静になって考えればなかなか面白いと――」
「面白くありませんわ! なんですのこれ!」
アリシアがぐしゃりと手紙を握りつぶすのを見て、「ああ、俺もやったなぁ」と苦笑したフリーデリックは、彼女の隣に腰を下ろすと、憤っている彼女の背中を優しくさすった。
「まあ、少し落ち着け」
「落ち着け? どうして落ち着けますの? 何ですのこの手紙。こんな――」
アリシアは握りつぶした手紙の皺を伸ばすと、そこに書いてある文面を睨むように見つめる。国王の手紙は要約すると――
「俺とユミリーナ王女が恋仲なんてどこでそんな勘違いをするんだろうな。お互い好きあっているなら結婚させてやるなんて、面白い冗談だ」
「面白くありません!」
アリシアは余裕すら感じるフリーデリックの笑みが憎らしく思えて、彼の頬に手を伸ばすと、むにっとつねってやった。
だが、頬をつねられても、フリーデリックは楽しそうに微笑んでいるだけだ。
「焼きもちか?」
「どうしてそうなりますの!」
「君が怒っているから」
にこにこと微笑むフリーデリックは、どうやらアリシアが焼きもちを焼いたのだと勘違いしているらしい。いや――、まったく嫉妬心が起きなかったと言えば嘘になるが、それどころではない。
「こんなことを言いだして、せっかく結婚式の準備も進んで、もう少しで結婚なのに――、また……」
また、ひっかきまわされるのだろうか。幸せになれると思った矢先に、沼の底に引きずり込まれるのだろうか。アリシアの中に言いようのない不安が広がって、彼女は表情を曇らせて俯いた。
そんなアリシアの様子を見て、フリーデリックは慌てて彼女を抱き寄せた。
「だ、大丈夫だ! 陛下には俺が今、手紙の返信を書いたからな。もちろん丁重に断ったし、俺が好きなのは君で、ユミリーナ王女はおこがましいかもしれないが妹のようにしか思っていないと説明した! 結婚がなくなったりはしない。大丈夫だから」
フリーデリックが国王の手紙を一笑にふせることができたのは、国王ブライアンが昔から突飛なことを言いだすことをよく知っているからだ。しかし、何年も悪徳令嬢だと追いかけられて、一時は処刑手前まで追い詰められたアリシアには笑えない冗談だろう。また幸せを奪われるのかと疑っても不思議ではない。
フリーデリックはアリシアの焼きもちを喜んでしまった自分を恥じて、婚約者を抱きしめる腕に力をこめた。
「俺は君が好きだ、君だけだ。君以外の人と結婚する意思はない」
すると、ようやくアリシアがホッとしたように肩から力を抜いた。
フリーデリックの腕の中で顔をあげたアリシアの不安そうな表情に、フリーデリックの心臓がドクリと大きく音を立てる。
「君だけなんだ。君だけを愛している」
そろそろと手を伸ばしてアリシアの頬を撫でると、彼女は睫毛を震わせながら目を伏せる。
「アリシア―――……」
フリーデリックは、まるで磁石に引き寄せられるかのように、アリシアの口に唇を寄せた。







