もう一度、最初から 2
酔っていたわけではないが、結局壁の花以外にすることがなく、アリシアは部屋に戻ることにした。
フリーデリックに送ってもらい、部屋の前までやってきたとき、気が抜けたのか、どっと疲れが押し寄せてくる。
ユミリーナに毒を盛った嫌疑がかけられたのは、アリシアが社交界デビューをした年のこと。パーティーには数回ほど出席したが、嫌疑がかけられてからは一度も顔を出しておらず、ほとんど経験がない。
今日は軽く食事を取って、ただ立っていただけだが、どうやら気疲れしてしまったようだった。
「送ってくれてありがとうございます」
「いや、ゆっくり休め」
「ええ、そうしますわ」
アリシアは頷いて、部屋の中へ入ろうとしたのだが、扉を開けてもフリーデリックが立ち去ろうとする気配がない。
不思議に思って振り返ると、彼はただじっとアリシアを見下ろしていた。
その青い瞳が何か言いたそうに見えて、アリシアは首を傾げる。
「どうかいたしまして?」
「いや……」
フリーデリックは首を横に振るが、少し逡巡したのち、意を決したように口を開いた。
「その……、少しだけ、話がしたいのだがいいだろうか……?」
「話? ええ、かまいませんわ。どうぞ?」
アリシアが部屋の扉を大きく広げると、話がしたいと言ったフリーデリックが、なぜか狼狽したように視線を彷徨わせた。
「入りませんの?」
一向に部屋に入ろうとしないフリーデリックに、アリシアが訝しそうな顔をする。
「……警戒心が、足りなさすぎやしないだろうか?」
「は?」
「いや、さすがに夜に女性の部屋に入るのは……」
「では、ここで立ってお話しします?」
「それは……」
煮え切らない態度に、アリシアはあきれた。
「明日になさいます?」
フリーデリックは騎士としても強く、体格も非常に男らしいのだが、変なところでおろおろする。用がないなら扉を閉めますわよ――と言わんばかりの目でじっとりと見上げれば、フリーデリックは小声で「入る」と言った。
アリシアのあとに続いて、遠慮がちに足を踏み入れたフリーデリックは、ソファの端にちょこんと座る。
アリシアが二人分の紅茶を煎れてフリーデリックの隣に腰を下ろすと、彼は隣に座ったアリシアに少し驚いたようだった。
(額に薬を塗るときはいつも隣に座るから……つい)
アリシアも気がついて、向かい側に座ればよかったと思ったが、さすがに座りなおすのは妙な感じだ。
ステビアーナ地方にいたときは、用事がなければアリシアからフリーデリックに近寄ることはなかったのだが、ここへ来てから彼がずっと近い距離にいたため、彼のそばにいることに慣れてしまった。
「それで、お話とは何ですの?」
フリーデリックの額の痣はすっかり消えた。彼の額を見上げてほっとしつつ訊ねれば、フリーデリックは視線を落としてぽつりと答えた。
「話とは……、君との結婚式のことだ」
ジーンが告げた、結婚式の予定まであと二週間を切っている。
「君はもう罪人ではない。俺と結婚するという処刑を回避するための陛下との取引は無効になった。だから……、君にはもう、俺と結婚する必要がない。――ずっと、言わなければと思っていたのだが、その、なかなか言い出せなくて……」
フリーデリックは膝の上に組んだ手を、落ち着かないのか、しきりに動かしていた。
結婚式のことは、アリシアも何となく感じていた。もう彼と結婚式を挙げる必要はないし、それから逃げるように自ら命を絶つ必要も、どこにもない。
帰る場所も、王都にある公爵邸に帰ればいいのか、ステビアーナにあるフリーデリックの城へ帰ればいいのか、よくわからない。
公爵邸には使用人は誰一人としていないが、必要であればマデリーン王妃が使用人を手配するのに協力すると言ってくれた。
国王も、今までの負い目があるようで、アリシアが望むなら、一生の生活の面倒を見るとまで言っていた。
アリシア自身もフリーデリックと話をしなければいけないと思いながら、今日までずるずると来てしまったのだ。
アリシアはフリーデリックの横顔を見つめる。
君が好きだと言ってくれた彼の言葉を、アリシアはもう否定するつもりはない。
本当に好きになってくれたのだと、アリシアはわかっている。
アリシア自身も――、きっと、フリーデリックに惹かれてきている。
でも、だからこそ、このままずるずると結婚式をむかえるのは、違う気がした。
「結婚式は――、一度、白紙に戻した方がいいですわね」
アリシアが答えると、フリーデリックの肩がびくりと震えた。
何か言いたそうな――、まるで、捨てられた子犬のような目をこちらへ向けるフリーデリックに、アリシアは思わず微苦笑を浮かべてしまう。
(なんて顔をするの……)
自分で言い出したくせに、まるでアリシアからの違う言葉を待っていたと言わんばかりの、顔。
アリシアの心臓がぎゅっと締め付けられる。
フリーデリックの、その、少し情けない顔を愛おしいと思ってしまう自分がいて――、アリシアは心の中で嘆息した。
これでは、惹かれはじめているどころか、充分に惹かれてしまっているのかもしれない。
(こんな情けない顔にときめくなんて、わたしも大概ね……)
生真面目で優しくて、少し情けない元騎士団長は、いつの間にかアリシアの心の中に深く入り込んでしまっていたようだ。
「一度――、と言ったでしょう?」
だから、苦笑を浮かべつつ、ついつい言ってしまう。
本当は、フリーデリックの口から、未来を見据えた言葉がほしかったけれど、打ちひしがれた表情を浮かべている彼には無理そうだからだ。
「一度、この変な関係を白紙に戻して、最初から考えればいいと――、言いたかっただけですわ」
「最初から……?」
気落ちしていたフリーデリックの表情が、みるみるうちに明るいものになっていく。
「ええ、最初から。もちろん、あなたが嫌でなければですけど」
「嫌じゃない!」
打てば響くように返したフリーデリックは、アリシアのほっそりとした手をぎゅっと握りしめた。
「君が好きだ。優しくて、強くて――でも、少し泣き虫な君が好きだ。俺は君とずっと一緒にいたい。だから、結婚してくれ」
「だ、だから――、最初からと……」
フリーデリックのまっすぐな言葉に、アリシアの顔が、真っ赤に染まる。
最初から考えると言った端から求婚してくるなんて、いったいどういうつもりなのだとなじりたいのに、言葉が出てこない。
「もちろん、ゆっくり考えてくれていい! 婚約期間も――、い、いや、気が早いな、そうじゃなくって……、だから、俺と結婚してもいいか、考えて、君の答えを聞かせてくれ。俺はいつまでも待つ」
これでは「最初から」考えるのは、アリシアだけのようだった。
「……あなたは、本当にわたしでいいんですの?」
アリシアとの結婚を白紙に戻したと言えば、渋々引き受けたはずのステビアーナ辺境伯の地位も、取引不成立だと、今であればつき返せるかもしれない。
国王はアリシアにはもちろん、フリーデリックも負い目を感じているので、押し通すことは可能そうだ。
「あなたは……、騎士団に戻りたいのではありませんの? わたしと結婚しなければ、そもそも取引はなかったと、再び騎士団に戻ることもできるかもしれませんわよ?」
すると、フリーデリックは朗らかに笑った。
「第三騎士団にはジョシュアがいる。騎士団を退くときに、俺はジョシュアにすべてゆだねてきた。今更後悔はしていないし、辺境伯も悪くはないと今は思っている。だから、そんなことを君が気に病む必要はない」
「そうですの……」
フリーデリックに握られている手が熱い。
トクトクと徐々に鼓動が早くなっていく。
「……わたしも、あなたのことが、好きみたいですわ」
気がつけば、自然とそんなことを言っていた。
フリーデリックの目が大きく見開かれる。
「……本当に?」
「ええ……」
「本当に、本当か?」
「ええ、本当です……わ」
みたい、ではなく、きっと好きなのだろう。惹かれはじめているのではなく、すでに惹かれている。
もしも結婚するのなら、このちょっと不器用な人以外は考えられない――、そう思えば、おのずと答えは出ていた。
驚愕した表情のまま、まるで時間がとまったように固まってしまったフリーデリックを見つめる。
なんだか、息まで止めてしまっているような気がして、心配になったアリシアが彼の前の間で手を左右に振ってみたときだった。
「アリシア……!」
突然、アリシアはフリーデリックに抱きすくめられた。
広い胸の中にすっぽりと抱きしめられて、アリシアが瞠目する。
「アリシア、アリシア、アリシア……!」
ぎゅーっと抱きしめて、何度もアリシアの名前を呼ぶフリーデリックに、アリシアは思わず笑ってしまった。
伝わってくるフリーデリックの鼓動は大きくて速い。
「騎士団長、ちょっと力が強いですわ」
くすくすと笑いながらアリシアが言えば、腕の力を緩めたフリーデリックが神妙な顔で見下ろしてきた。
「その……、俺はもう、騎士団長ではない」
アリシアはフリーデリックの腕の中で顔をあげて、パチパチと目を瞬く。
確かに、フリーデリックはもう騎士団長ではなくステビアーナ伯爵だ。「伯爵」と呼んだ方がいいのだろうか?
アリシアが悩んでいると、フリーデリックが目尻を赤く染めてこんなことを言った。
「お、俺の家族は……、俺のことをリックと呼ぶ」
「り、リック、ですか?」
フリーデリックは大きく頷く。
これはあれだ。愛称で呼んでくれと言う意思表示だ。
「リック」
試しに読んでみたが、たかが呼び方とはいえ、これはこれで気恥ずかしい。
せめて「フリーデリック」にしてもらおうと思ったアリシアだったが、「リック」と愛称で読んだ瞬間、嬉しそうに破顔したフリーデリックを見ると何も言えなくなってしまう。
(うう……、恥ずかしい……)
情けない話だが、アリシアは前世で生きた二十九年の間、ろくな恋愛をしてこなかった。
一度だけ社会人に入って一年目に、友人に紹介されて彼氏ができたことがあるのだが、それほど気が合うこともなく半年後に別れたため、甘酸っぱい思い出など皆無に等しい。
その彼氏のことも半年間「滝川さん」と名字で呼び続けていたため、男性を愛称で呼んだことなど、小学校の時を除いて一度もなかった。
(リック……リック……、しばらく慣れそうにないわ)
慣れるまで、呼ぶたびに赤面してしまうかもしれない。
でも、嬉しそうなフリーデリックを見ていると、恥ずかしくても頑張って呼ぶようにしようという気になった。
「アリシア……、俺のだ」
フリーデリックの大きな手が、愛おしそうにアリシアの緩く波打つ金髪を撫でる。
髪に神経など通っていないはずなのに、フリーデリックに髪を梳くように撫でられるのはとても気持ちがよかった。
アリシアはフリーデリックの胸に体重を預けて寄りかかり、目を閉じる。
つい二週間と少し前までが信じられないほど――、アリシアは今、幸せだった。







