鈴蘭の甘く危険な香り 4
疲れただろうから少し休むようにとマデリーンに言われ、アリシアは城の客室に案内された。
ユミリーナは今、眠っているらしい。目を覚ましたら呼ぶと言われた。
フリーデリックはアリシアの隣の部屋を用意されたが、腫れた額の治療のため、アリシアの部屋にいた。
マデリーンに頼んで城の薬草園で育てているアロエをもらい、中のゼリー状の部分だけをガーゼに乗せて、フリーデリックのこぶの上に貼る。
「痛くありません?」
「あ、ああ……」
ソファに腰を下ろし、膝の上に握った拳をおいて、フリーデリックはカチンコチンに硬直していた。
顔が赤いが、熱でもあるのかと心配してアリシアが額に手を当てれば、びくっと大きく肩が揺れる。
「あ、たんこぶに当たりました?」
「ち、違う。大丈夫だ」
「そう……?」
アリシアは首を傾げて、フリーデリックの熱を測る。顔は赤いが、特に熱はないようだ。
たんこぶの治療が終わり、アリシアが道具を片付けたときだった。
「アリシア、入っていいかな?」
扉が叩かれて、マデリーン王妃の声がする。
アリシアが扉を開けると、乗馬服からシンプルなドレスに着替えた王妃がいた。
フリーデリックが慌てて立ち上がり、胸に手を当てて礼を取る。
「ああ、いいよ。かしこまらないで」
マデリーンがカラカラと笑って部屋に入ると、その後ろに控えていたワゴンを持った四十前ほどの侍女がついて入ってきた。
マデリーン付きの侍女の一人で、確かタバサと言う名前だったはずだ。アリシアも面識のある彼女は、アリシアの顔を見ると小さく微笑み、てきぱきと紅茶を煎れはじめる。
マデリーンはソファに腰を下ろすと、高く足を組んだ。
アリシアとフリーデリックがマデリーンの向かいのソファに腰を下ろす。
「はぁー疲れた。人間ひと月半も寝込むと、さすがに体力が落ちるものだね。タバサ、甘いものはある?」
「マカロンがございますよ」
「マカロンか……、もっとがっつりとお腹にたまりそうなものが食べたいね」
「お医者様から、胃が弱っていらっしゃるのだから、消化に悪いものはできるだけお召し上がりにならないようにと言われていたはずですが……」
「なに、わたしの胃は丈夫だから問題ないよ」
「またそんなことを……」
タバサは苦笑を浮かべると、煎れたての紅茶を三人の前におき、「何か用意してもらってまいります」と部屋を出て行った。
タバサが出て行くと、マデリーンは紅茶を一口含んでから、アリシアとフリーデリックに向きなおる。
「ブライアンから聞きだしたよ。わたしが寝込んでいる間に、大変な目にあわせてしまったようだね。すまなかったね」
聞きだしたのではなく締め上げて吐かせたのだろうな――、と推測しながら、アリシアはゆっくりと首を振った。
「いえ、マデリーン様もご無事で何よりでしたわ」
「丈夫なのだけが取り柄だからねぇ。――フリーデリックも、わたしがいない間にアリシアの処刑を取り下げてくれて助かった」
「いえ……、俺は結局、アリシア嬢の疑いは晴らせませんでしたから――」
「そんなの、わたしだってそうだ。あの石頭は、気弱な癖に頑固で困る。その頑固頭を取引に応じさせただけたいしたものだ。わたしが殴り飛ばしても考えを変えなかったんだから」
はあ、とマデリーンは盛大にため息をついた。
(……殴り飛ばしたって言った?)
アリシアは紅茶に入れようと、角砂糖の入った容器に向かって伸ばした手を宙で止めた。
マデリーンに殴られる国王を想像して、アリシアは吹き出しそうになってしまう。
どうしよう、ちょっといい気味だと思ってしまった。
アリシアが密かに笑いをかみ殺していると、マデリーンがふと、真面目な表情を浮かべる。
「アリシア――、君に医学の心得があることは知らなかった。それは、本当?」
アリシアが顔をあげると、そこにあったのは王妃マデリーンではなく、一人の母親の顔だった。
「医学と胸を張って言えるほどのものではありません。ただ……、多少なりとも、お役に立てると思っています」
アリシアがマデリーンの目を見てきっぱりと言い切れば、王妃はホッとしたような笑みを浮かべた。
「そう……、今までアリシアの疑いを晴らしてあげられなかったわたしがこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど――」
ユミリーナをどうか頼むよ――、と頭を下げたマデリーンに、アリシアは深く頷く。
アリシアとて、自分の嫌疑を晴らすためだけにここに来たわけではない。
かつて姉妹のように仲の良かったユミリーナを助けてあげたいと、心からそう思ったのだ。
☆
翌朝、ユミリーナが目を覚ましたと聞いて、アリシアは彼女の部屋に向かった。
ユミリーナの部屋には、実に三年ぶりに足を踏み入れる。
ユミリーナに毒を盛ったという嫌疑がかけられるまで頻繁に遊びに来ていた部屋の中は、昔とちっとも変っていなかった。
愛らしい薄ピンクのカーテンに、小さな花柄の壁紙。ソファには薔薇が刺繍されたカバーがかけられ、猫足のローテーブルの上にはレースのテーブルクロス。
クリームイエローのベッドの天蓋は、マーガレットの花模様。
おっとりと愛らしいユミリーナらしい部屋だ。
血の気のない白い顔をしたユミリーナは、ベッドボードを背に上体を起こしていて、アリシアが部屋へ入ってくると、驚いたように目を丸くした。
「アリシア……?」
母譲りの銀色の髪に、アクアブルーの瞳。もともと小柄で細かったユミリーナだが、さらに細くなったように見える。
ユミリーナのそばに控えていた三人の侍女が、いっせいにアリシアに冷たい視線を送る。しかし、アリシアのすぐ後ろにいるフリーデリックがいるからだろうか、何か言いたそうな表情はされるものの、罵倒されるようなことはなかった。
ユミリーナと会うのも、実に三年ぶりだ。
恨み言の一つや二つは覚悟していたアリシアだったが、ユミリーナは白い顔をパッと輝かせた。
「アリシア……! 来てくれたの?」
アリシアはゆっくりとユミリーナに近寄った。
侍女たちは警戒するような視線をアリシアに注ぐが、ユミリーナの前をあけてくれる。
「久しぶりですわね、ユミリーナ。元気……と訊くのは、変ですわね。体調はどう?」
ユミリーナの顔に、アリシアを非難するような表情はない。アリシアの噂は彼女の耳にも入っているはずなのに――、その顔に、アリシアを疑う様子はなかった。
「大丈夫……、と言いたいところだけど、ベッドの上で起き上がるのが精いっぱいよ。これでも今日はまだ体調がいいほうなの。……だめね。お母様には、毒にやられるのは鍛錬が足りないせいだ、城の庭でも走って来いってよく言われていたけど、言うことを聞いて走っておけばよかったのかしら」
おっとりとユミリーナが冗談を言うので、アリシアは微苦笑を浮かべた。
城の庭をいくら走っていたところで、毒の耐性がつくとは思えない。
アリシアがベッドサイドの椅子に腰を下ろせば、ユミリーナはほっそりとした手を伸ばしてアリシアの手を握った。その目が、徐々に潤んでいく。
「ごめんなさい。わたくしのせいでアリシアにはたくさん迷惑をかけたわ。ううん、迷惑なんて言葉で言い表せないわよね。お父様には何度も言ったけれど、何も聞いてもらえなかった……。お兄様も今は留学中でいないし……。フリーデリックがあなたの処刑を止めていなければと思うと、今でもぞっとするの。あなたが無事でよかった。そして、お母様が間に合ってよかった……。ごめんなさい。本当に、わたくしのせいで。ずっと言いたかったの……」
「今はそんなことはどうでもいいのですわ。わたしはあなたを治しに来たのですから。泣くと体力を使うから、ほら、泣き止んで」
昔のようにアリシアがユミリーナの頭を撫でると、王女は瞳を潤ませたまま小さく笑みを作った。
「アリシアがわたくしを治してくれるの?」
「そうですわ。できる限りのことをしにきたの。ユミリーナ、さっそくですけれど、どんなふうに体調が悪いのか、教えてくれるかしら? ああ――、いつまでも起きていては体に毒ですから、横になって」
「ふふ、はぁい……、――っ」
くすくすと笑いはじめたユミリーナは、途中で激しく咳き込みはじめる。
アリシアが慌てて背中を撫でると、少しして咳はおさまったが、ぐったりと疲れたように横になった。
アリシアはユミリーナをこれ以上喋らせない方がいいと判断すると、侍女の一人に視線を向ける。
濃いブラウンの肩までの髪の、三人の中では一番年長だろうと思われる侍女――エレンを、アリシアは知っていた。残りの二人はアリシアがユミリーナの部屋に来なくなって入れ替わったのだろう、見たことがない。
もともとアリシアに友好的だったエレンだが、毒の一件があってから態度が変わった。今も鋭い視線を向けてきているが、アリシアが頼めば、渋々とユミリーナの症状を話してくれた。
「姫様は、眩暈やひどい頭痛が続いています。そのため、立って歩くこともできません。ひどいときは吐き気を催されて、うまく呼吸ができなくなることもございます」
「侍医はどんな薬を処方しているの?」
エレンは難しい顔をしたまま、ベッドサイドの小さな棚からクリスタルの瓶を取り出した。
「これを毎食後に飲むようにと」
アリシアはエレンから瓶を受け取り、瓶のふたを開けた。
(ドクダミに、バレリアン……あと何種類か入っていそうね)
いくつかのハーブをブレンドした薬草茶のようだ。あとで念のために飲んでみようと思うが、これ自体は体に悪いものではないと思う。
一緒に紅茶を飲んだ、ここにいる侍女三人は回復し、ユミリーナだけが回復していない。
引き続き、どこかに毒が仕込まれていると考えるのが妥当で――、これは、少し様子を見るしかないかもしれなかった。
「ユミリーナが起きて眠りにつくまで、ここですごさせていただいてもいいかしら?」
アリシアが問えば、侍女三人は嫌そうな表情を浮かべたが、ユミリーナは嬉しそうに笑った。
「もちろんよ! たくさんおしゃべりしたいわ!」
「ユミリーナは体調を治さなくてはいけないのですから、たくさんおしゃべりは駄目ですわ」
アリシアがあきれて返せば、ユミリーナがしょんぼりとうなだれる。
「……少しでも、だめ?」
口を尖らせて言うユミリーナが子供のようでおかしくて、アリシアは「仕方ありませんわね」と笑った。
そして、扉の前で、侍女たちを睨むようにして立っているフリーデリックを振り返る。
(騎士団長も……、たぶん、ここにいるわよね)
フリーデリックは、城の使用人たちがアリシアを傷つけないかを警戒しているらしい。
いくら王妃がアリシアをかばったとしても、人の心はそう簡単には変わらないからだ。
しかし、だからと言って、いつまでもフリーデリックを立たせておくのは申し訳なかった。
アリシアは考え、部屋にいる間はフリーデリックとソファに座っていることにする。そうすればフリーデリックも休めるし、侍女たちの仕事の邪魔もしないはずだ。
「ユミリーナは、少し眠った方がいいですわ」
顔色を見てアリシアが言えば、ユミリーナは渋々目を閉じる。
アリシアはこうして、ユミリーナにつきっきりの日々を送ることとなった。
☆
三日後――
アリシアは首を傾げていた。
三日間ユミリーナに張りついていて、出される食事もお茶もすべて確認したが、どこにも怪しいところはない。
さすがに部屋でじっとしておくのも暇なので、ソファに座ってユミリーナに借りた本を開いているが、さっきからその内容は全然頭に入ってこなかった。
フリーデリックはと言うと、じっとソファに座っているのは落ち着かないのか、たまに立ち上がっては部屋の中をうろうろと歩き回ってみたり、窓の外を眺めて、遠くから聞こえてくる騎士たちの鍛錬の声を聞いたりしている。
ちらちらとこちらに視線を送ってくるので、アリシアに話しかけたいのかもしれないが、ユミリーナの手前、静かにしていることにしているようだった。
フリーデリックの額のたんこぶの腫れは引いた。痣はまだ残っているが、こちらもそのうち消えるだろう。毎日アリシアが痣に軟膏を塗っているのだが、彼はそのたびに顔を真っ赤に染めて硬直してしまう。どうやら緊張しているらしいとわかったのは、一昨日の朝、ジョシュアが部屋へやって来たときに、「いつまで緊張しているんだお前は」とあきれ顔を浮かべたからだった。
侍女三人の態度は相変わらずだが、フリーデリックのおかげで、それほど嫌な思いをすることはない。
(おかしい……、どうして原因がなにもないのかしら?)
ユミリーナの体調は、ここ三日間落ち着いている。
アリシアが城へやってきたから、毒を盛るのをやめたのかしら――、そうアリシアがほっと胸を撫でおろしたとき、エレンが水差しに水をいれてやってきた。
何気なくアリシアはそのガラスの水差しを見やり――、勢いよく立ち上がる。
「それはなに!?」
アリシアが急に声を荒げたからだろう。エレンの肩がびくっと揺れ、ユミリーナが驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、アリシア?」
「どうしたもこうしたも……!」
アリシアが表情を強張らせたからだろう、フリーデリックも立ち上がり、アリシアとエレンを交互にみやる。
「あの水がどうかしたのか? 俺にはただの水に見えるが……」
アリシアは激しく頭を振り、エレンの手から水差しを奪い取った。
ちゃぷん、とガラスの水差しの中で揺れる水の中に、鐘のような形をした、小さな白い花が三つ浮かんでいる。
「この水は誰が用意したんですの?」
「わ、わたくしですが……」
エレンが水差しとアリシアとを見つめながら、怪訝そうに答えた。
「この、中に浮かんでいる白い花も、あなた?」
「い、いえ……、これは、侍医が。心を落ち着ける作用があるから、二、三日に一度、水に入れるように、と……」
アリシアは大きく目を見開いた。
「それを――、侍医が言ったの?」
エレンが頷く。
(信じられない……、侍医が、知らないはずはないわ……)
アリシアは水差しに視線を落とした。
水に浮かぶ小さな白い花――これは、鈴蘭だ。
(頭痛に眩暈、嘔吐反射……、やっとわかった……!)
アリシアはエルザに視線を向けると、今すぐに水をたくさん用意するように言う。
エルザの視線がアリシアの持つ水差しに向かった。
「え……、水でしたら……」
「これはだめよ! 絶対にだめ! 新しい、何も入っていない水を用意して! できれば一度沸騰させて冷ましてちょうだい!」
それから、アリシアはフリーデリックを見上げる。
「騎士団長、マデリーン様を呼んできてほしいんですの。大事な話がありますわ」
アリシアの表情が強張る。
水差しに入っている鈴蘭の花。――可憐な白いこの花が、毒だ。







