鈴蘭の甘く危険な香り 2
城が見えてきたころには、フリーデリックの額の血も止まった。
腫れてたんこぶになってしまったが、本人はあまり気にしていないようだ。
それどころか、血が止まってアリシアの膝から起き上がったあとも、なぜか彼はカチンコチンに固まったまま微動だにしなくて、さすがにもう動いても怒らないのにとアリシアが不思議に思うほどだった。
城へ到着すると、アリシアたちは再び手首に縄をかけられて、ジョシュアが城で与えられている第三騎士団長――彼は代理だが――の部屋に案内される。つい最近までフリーデリックが使っていた部屋だそうだ。
「しばらくここで待っていてくれ」
ジョシュアは、直接国王へ取次に言ってくれるらしい。
(どうしよう……、すごく緊張してきたわ……!)
覚悟を決めてここへ来たのに、城へ入ってからと言うもの、アリシアの鼓動は早くなる一方だ。
(どうしよう……、もし失敗したら、どうしたらいいの?)
今、アリシアの肩にかかっているのは、アリシアの命だけではない。失敗すれば、フリーデリックも、ジョシュアも危ないかもしれないのだ。
クッション性のほとんどない硬いソファに浅く腰かけて、アリシアは縛られた手を組んで知らず知らずのうちに祈るような体勢を取る。
「心配しなくても、きっとうまくいく」
そんなアリシアに、フリーデリックが優しく声をかけた。
「俺はともかく、ジョシュアが賭けに出てもいいと判断したんだ。勝機はある。だから大丈夫だ」
アリシアはゆっくりと顔をあげる。
せっかくの男前な顔はたんこぶのせいで台無しだったが、フリーデリックの穏やかな青い瞳を見つめていると、鼓動が徐々に落ち着いてくる。
「そう……ですわね」
大丈夫。アリシアは自分に言い聞かせる。
大丈夫でないといけないのだ。言い出した自分が自信を無くしてどうする。
アリシアはベッドの淵に腰を下ろしているフリーデリックを見やった。
「……たんこぶ、痛いです?」
「いや、大丈夫だ。訓練中にはこんな怪我は珍しくなかった。慣れているんだ。気にしなくていい。君が怪我をしなくてよかった」
慣れていても、痛いものは痛いだろう。
微笑むフリーデリックに、アリシアの胸がずきりと痛む。
アリシアは、フリーデリックのことをまだよく知らない。容赦なくとらえられた時の彼の印象の方がまだ大きい。
だが――、ジーンが言っていた。
アリシアを好きになったきっかけをフリーデリックが言わなかったのは、彼の性格によるものかもしれない、と。
恐ろしく生真面目で、融通が利かなくて、――すごく不器用なのだと言っていた。
アリシアを好きになったきっかけを話せば、優しいアリシアはフリーデリックを許そうとするかもしれない。でも、自分が彼女にした仕打ちは消えないし、そんなに簡単に許されては駄目なのだと――、きっとそう考えているのだろうと、フリーデリックを幼いころから知るジーンは推測した。
それが本当かどうかはわからないけれど、きっと、この人自身の口で、その時のことを話すことはないのだろうと、なんとなくだが、アリシアも思う。
(……ばかな、人……)
アリシアをかばって怪我をして、それでも笑うフリーデリック。
怪我をして痛いはずなのに、アリシアに怪我がなくてよかったなんて、どうして言えるのだろう。
アリシアの心がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。
「あとで……、ちゃんと、治療しましょう」
かばってくれてありがとうなんて言ったら、それこそフリーデリックはもっと体を張りそうな気がして――、アリシアは、困ったように笑ってそう言うのが精いっぱいだった。
しばらくして、ジョシュアが部屋に戻って来た。
謁見の間に通すようにと国王が言ったらしい。
アリシアはごくりと息を呑み、心を落ち着けるように深呼吸をくり返してから、ゆっくりと立ち上がる。
ジョシュアは自分の剣を腰に佩き、フリーデリックの剣を手に持つと、二人を先導して前を歩いた。
アリシアとフリーデリックの背後には、二人の騎士が逃亡を警戒するかのようについてきている。
フリーデリックの元部下である二人は、彼を見たときに複雑な表情を浮かべたが、任務だと割り切っているのか、何も言わずに静かに歩いていた。
ふかふかの絨毯の敷かれた城の廊下を進んでいると、数名の使用人とすれ違ったが、そのたびにアリシアは鋭く睨みつけられた。
ユミリーナに毒を盛ったと思われているのだから仕方がないのかもしれないが、やはり心が重たい。
やがて謁見の間へと続く、大きな両開きの扉にたどり着いた。
声には出せないため、ジョシュアがアリシアたちを見つめて、小さく頷く。
(いよいよ……、だわ)
処刑を言い渡された時も、これほどまで緊張はしなかった。
指先が震えて、心臓が耳の奥まで移動したかのように大きな音を立てている。
アリシアの肩に、すべてがかかっているのだと思うと、呼吸すら難しくなってきた。
「大丈夫だ」
隣に立つフリーデリックが小さくささやく。
顔をあげると、力強く頷かれた。
俺がついている。絶対に守るから――、綺麗な青い瞳にそう言われているような気がして、アリシアの肩から徐々に力が抜けていく。
(大丈夫よ、落ち着いて――)
国王は頑固だが、何よりユミリーナを溺愛していることを知っている。だから、きっと大丈夫なはずだ。
作戦は、うまくいく。
アリシアは自分自身にそう言い聞かせると、ジョシュアに向かって頷いた。
「アリシア・フォンターニア公爵令嬢、並びにフリーデリック・ランドール・ステビアーナ伯爵を連れてまいりました」
ジョシュアの声が朗々と響き渡る。
声に反応するように、目の前の重厚な扉が開かれると――、アリシアはぐっと顔をあげた。
ジョシュアについて玉座の前まで歩いて行けば、国王の両隣にそれぞれ第一騎士団、第二騎士団の団長、下座に議会に名を連ねる貴族たちが集まっている。
騎士団長の二人は、フリーデリックよりも十以上も年上の壮年のがっちりした男で、それぞれが厳しい目をこちらへ向けていた。その視線はアリシアよりも、むしろフリーデリックの方に向かっているように見える。
だが、フリーデリックは二人の騎士団長の視線を受けても表情一つ変えなかった。
「よくも私の前に顔を出せたものだ」
国王が、アリシアに向かって苦々しげに吐き捨てた。
「温情をかけて処刑を取り下げてやったというのに、恩をあだで返すような真似をしおって。今更何をしに来た」
声を張り上げているわけではない。だが、その声の中に隠し切れない怒りを感じて、アリシアは唇をかむ。
言わなければ――、そう思うのに、突き刺さる視線に声が出せない。
すると、フリーデリックがアリシアをかばうように一歩前に出た。
「アリシア嬢はずっと俺と一緒にいました。そのアリシアが、どうやって馬車で何時間もかかる王都の――、城にいる王女に毒を盛ると言うのですか? よく考えればわかることでしょう」
王の目を睨むように見つめて、フリーデリックが言う。
「黙れ! 無礼だぞ!」
途端に第一騎士団長からの叱責が飛んだが、フリーデリックはそちらをちらりと一瞥しただけで、意に介さない。
「アリシア嬢はやっていない。今回だけじゃない。今迄にしたってそうだ。証拠もないのに勝手に決めつけて、犯人扱いし続けて――、これ以上まだ疑うと?」
「黙れと言うに!」
第一騎士団長の手が、腰の剣の束に伸びる。王はそちらに視線を向け、騎士団長を制すると、フリーデリックに目を向けた。
「アリシアに骨抜きにでもされたか? そんなくだらない言い訳のために、わざわざ私の時間を割かせたと?」
「それは――」
「違いますわ」
フリーデリックを遮るようにアリシアが口を開いた。
フリーデリックが少し時間を作ってくれたから、その間にどうにか心の準備ができた。
「今回のことの言い訳に来たのではありません。なぜなら、わたしは無実なのですから、言い訳する必要がないのですわ」
「なに?」
国王がピクリと眉を動かした。
アリシアとフリーデリックを囲うように立っている貴族たちがざわざわとしはじめるが、国王の手前、声を張り上げてくることはない。
「もう一度言います。わたしは無罪です。だから言い訳する必要はございませんわ。わたしがこの場に来たのは、そんなことを言いに来たわけではありません。――ユミリーナ王女の毒の治療を、しに来たのですわ」
アリシアが堂々と言い切った途端、周囲のざわめきが大きくなった。
――悪徳令嬢が王女の治療?
――治療と言いながら殺すつもりでは?
――そんな言葉が信じられるわけがない!
周囲から浴びせかけられる言葉を、アリシアはきれいに無視をした。
まっすぐ国王を見つめる。
「ユミリーナを治療する、だと?」
「ええ」
「お前が?」
「ええ」
「――ふざけるな!」
とうとう国王が声を荒げた。
「王女に毒を盛ったのはお前だろう! そのお前が治療? 笑わせるな! もうよい! この女を、即刻捕えよ!」
国王が騎士団長二人に命じた――そのときだった。
「やっぱりこうなるよね。――フリーデリック!」
アリシアたちから少し離れたところに立っていたジョシュアがフリーデリックの名を呼びながら、手に持っていた彼の剣を大きく放り投げた。
フリーデリックは、手に巻き付けられていた縄をほどくと、その剣を手に取ってアリシアを背後にかばう。
駆けてきたジョシュアがフリーデリックの背中との間にアリシアを挟むように立って剣を構えた。
縄は、はじめから簡単にほどけるように巻き付けられていた。
アリシアも腕から縄をほどくと、国王に目を向ける。
怒りで顔を赤黒く染めた国王に、両隣の騎士団長たちは、今にも切りかかってきそうだった。
アリシアは、大きく息を吸い込んで叫んだ。
「そうやって、いつまでも真実から目を背けるから、なんどもユミリーナが狙われるのですわッ!」
「悪徳令嬢が何を言う!」
「うるさい!」
野次を飛ばしてきた貴族を大声で怒鳴りつけて、アリシアが国王を睨む。
「そうやって全部わたしのせいにしたいのなら勝手にすればいいですわ! 王女が本当に殺されて、あとになって気がついても遅いと言うことがわからないお馬鹿さんは、国王の前に、父親である資格なんてありません!」
「―――っ」
「でも覚えておくといいのですわ。今ここでわたしの話を聞かずに、この先ユミリーナが命を落とすようなことがあれば――、彼女を殺したのは、あなたですわ、陛下。あなたがユミリーナを殺すのです」
「無礼な!」
「来るな! あと一歩でもこちらに来れば、この剣を抜く!」
アリシアを捕えようと足を踏み出した騎士団長たちに、フリーデリックが怒鳴る。
それから、剣に手をかけたまま、フリーデリックは国王へ目を向けた。
「陛下――、あなたは、すべてアリシア嬢のせいにして、本当の犯人を捜さなかった。そのせいで今ユミリーナ王女が苦しんでいることを、いい加減理解してください。今まで何度王女は狙われました? 王女が何度も苦しむことになったのは、陛下がきちんと捜査をしなかったからです。あなが、王女を何度も苦しめたのです!」
はじめて、国王の表情に狼狽があらわれた。
大きく目を見開いて言葉を失う国王に向かって、フリーデリックは続ける。
「アリシア嬢には医学の心得がある。彼女が町の――領民を救うのを、俺はこの目で見た。アリシア嬢を拒むと言うのならそれでもいいでしょう。――ユミリーナ王女の容態がよくなるといいですね」
アリシア以外に、何とかできるものなどいやしない――、そう断言するような口調で、フリーデリックは告げる。
国王が愕然とした表情で言葉を失っていると、我慢の限界だったのか、国王の両隣の騎士団長たちが剣を抜いた。
「無礼者が! 捕縛する!」
アリシアの隣で、フリーデリックが舌打ちして剣を抜いた。
しかし――
「いい加減にするんだ」
凛とした声が響いて、ぴたりと二人の騎士団長――それから、フリーデリックとジョシュアも動きを止めた。
アリシアが目を見開く。
(この……声は……)
決して大きい声ではない。しかし、よく通る、女性にしては少し低めの声。
アリシアが首を巡らせる先で、ゆっくりと謁見の間の扉が開く。
あらわれたのは、長い銀色の髪を首の後ろで一つに束ね、すっきりとした騎乗服に身を包んだ、五十手前ほどの美女。
弧を描く眉はきりりと凛々しく、切れ長の双眸はエメラルド色。すっきりとした顎のラインに、女性にしては高めの身長。
「マデリーン王妃……」
茫然とつぶやくアリシアに、王妃マデリーンはにっこりと優雅に微笑んで見せた。







