背水の陣の計画 3
フリーデリックがアリシアを捕えに行ったとき、彼女は抵抗しなかった。
ユミリーナに毒が盛られたと告げたときのアリシアの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
美しい紫色の瞳を小さく見張って、それから長いまつ毛を震わせながら目を伏せた。その表情にあったのは、諦めだ。
フリーデリックは己の手のひらを見つめる。
馬車に連行するときに、いつも通り、アリシアの手首をつかんだ。――痛く、なかっただろうか。
フリーデリックは、今まで何度もアリシアの手首をつかんで引っ張った。もしも抵抗されて、逃げられては大変だからと、強い力で引っ張ったこともあった。
(……細かった……)
アリシアの手首は、折れそうなほどに細かった。
今まで一度も気にも留めなかったその細さに慄いて――、できるだけ力を入れないように気をつけたけれど、武骨なフリーデリックは、女性への力加減がよくわからない。
痛くなかっただろうか。一度気になると頭から離れずに――、一向に眠りにつけそうになかった。
手のひらを見つめたまま、フリーデリックはベッドの上で寝返りを打つ。
結局、アリシアを城へ連行したけれど、証拠も何もないという理由で、取り調べ後に解放された。
わかりきっていたことだ。
それなのに、見せしめのように王の前に連れて行かれ、側近や貴族連中から責めたてられた彼女は、ただ目を伏せて唇をかみしめ、ひたすらに耐えていた。
フリーデリックは目を閉じる。
アリシアは王都の公爵邸にいる。国王が命令したのだ。離れたところで、何をしでかすかわからないからと、睨みが聞くところにいるように。
フリーデリックには変わらず、アリシアの同行に目を光らせておけと命令が下されたが、アリシアが王都にいるため、彼も王都の伯爵邸にもどってきている。
瞼の裏に思い描くのは、アリシアの泣きそうな顔だけだった。
☆
アリシアを見れば見るほど、フリーデリックの中の疑念は大きくなった。
数か月がたつ頃には、フリーデリックはアリシアが悪徳令嬢なんて信じられなくなっていた。
きっと何かの間違いだ――、けれども、そのフリーデリックの訴えが、世間に通用するはずもない。
フリーデリックは、今は離れて暮らす、騎士団に入るまで乳母として同じ邸に住んでいたジーンの元を訪ねた。
フリーデリックは実の母親とは折り合いが悪かった。
母はそれほど子供に関心のない人で、子供のころから今までを思い返しても、ほとんど会話らしい会話をした記憶がない。
ランドール伯爵家の名前に恥じぬ行動を取りなさい――、あの人が言うのはそれくらいで、アリシアのことを話したら最後、烈火のごとく怒りだすに決まっている。
もちろん、父も兄たちも論外だった。フリーデリックが国王の行動に疑念を抱いているなんて知られたら、間違いなく拳が飛んでくる。
フリーデリックが訪れると、ジーンは目を丸くして驚き、それから喜んでくれた。
息子が成人して家を出て行き、昨年夫を病で亡くした彼女は、今は一人で暮らしている。
フリーデリックに対して、もう一人の息子のように接してくれるジーンは、彼の顔色を見て何かに悩んでいると瞬時に察したらしい。
家に招き入れ、暖かいお茶を用意してくれる。
「今日はお休みなのですの?」
ジーンは貴族ではないが、伯爵家に乳母として雇われるほどに教養の高い女性だった。長年貴族の邸で暮らしていたせいか、所作も言葉遣いも洗練されている。
「今日は、午後から休みなんだ」
「そうでしたの。お昼は食べられまして?」
「いや……」
「まあまあ、残り物で申し訳ありませんが、お昼に作ったシチューならありますよ。お食べになります?」
フリーデリックが頷けば、ジーンはシチューとパンを用意してくれた。
余り物のない質素な居間のテーブルについて、フリーデリックはシチューをすする。大き目の根菜がたくさん入った、優しい味のするシチューだった。
シチューとパンを食べ終えると、フリーデリックの気分は少し落ち着いた。
そして、一息ついたあと、思い切ってジーンにアリシアのことを語った。
アリシアの噂は、ジーンの耳にも入っているはずだ。彼女がどう思うかはわからない。それでも。フリーデリックは自分の目で見たこと、考え、思い――すべてを、ジーンに語った。彼女はフリーデリックが語り終えるまでじっと黙って聞いていてくれて、それから小さく微笑んだ。
「フリーデリック様は、アリシア様のことが好きになられたのですねぇ」
「え――?」
フリーデリックは瞠目した。
(俺が、アリシア嬢を、好き……?)
驚いていると、ジーンがおっとりと頬に手を添えた。
「あらあら、気がついていらっしゃらなかったのですね。相変わらず、こういうことには鈍いですわねぇ」
「いや――、だから、俺が今話しているのは、アリシア嬢には罪もないのに苦しめられているかもしれないということで――」
「ええ、もちろんわかっていますわ」
本当にわかっているのだろうか。アリシアをかばう発言をしたのに、どうして彼女は怒らないのだろうか。――信じて、くれたのだろうか。
不安が表情にあらわれていたのか、ジーンがくすくすと笑いだす。
「なんて顔をなさっているのです? わたくしは、フリーデリック様が自分の目で見て、判断したことを疑ったりはしませんよ。でも――、まるで、フリーデリック様自身が、自分の判断を信じ切れていないように見えますわ」
フリーデリックは息を呑んだ。
「アリシア様に罪はないと、信じたいのでしょう?」
「――ああ」
「でしたら、信じなさいませ」
「信じて……、いいのか?」
「あら、人を信じることに、誰かの許可がいりまして?」
ジーンは立ち上がり、からになっていたフリーデリックのティーカップに紅茶を注ぐ。
「好きな女性を信じられないなんて、男として最低ですわよ」
フリーデリックはおっとりと優しい微笑みを浮かべるジーンを見つめて――、ようやく、自分がどうしたいのかがわかった気がした。







