背水の陣の計画 2
コルネール地方についたフリーデリックは、公爵家のカントリーハウスにほど近い町で宿を探すことにした。
泊るところくらい用意していてくれてもいいだろうと嘆息するが、あくまでも隠密に見張っていろとのことなので、そのあたりも目立たないようにこっそりしろと言うことなのだろう。
できれば食事付きで、どこかいいところはないものかと町を歩き回っていたとき、フリーデリックはぎくりと体を強張らせた。
(あれは……、アリシア・フォンターニア?)
豊かな金髪は簡素にまとめられ、頭巾をかぶっている。綿のワンピースはとても公爵令嬢が着るものとは思えず、まさかと目を疑うが、ちらりと見えた美貌の横顔は、間違いなくアリシアのものだった。
なぜ公爵令嬢が村娘のような格好をして町を歩いているのだろうか。
手に持った籠には、パンらしきものが入っていた気がした。
(……まさか、買い物?)
公爵令嬢自ら買い出しなんて、そんなまさか――、そう思いながらも、フリーデリックは息を殺してアリシアのあとを追いかける。
気づかれないように距離を取りながら観察すれば、やはり彼女はアリシアだった。
籠にはやはりパンが入っていて、フリーデリックは戸惑ってしまう。
邸には、料理人がいるはずだ。使用人もいるだろう。パンなんて買う必要はどこにもないし、公爵令嬢たるアリシアが買い出しなんて、ありえない。
どうなっているのだと尾行を続けていると、アリシアがふと足を止めた。
(あれは――、子供?)
アリシアの目の前で、七、八歳くらいの男の子が転倒した。
親はどこにいるのか、うわーんと大声で泣きはじめた子供に、アリシアが慌てたように駆け寄る。
見れば膝小僧をすりむいていて、アリシアは男の子の膝に持っていたハンカチを巻き付けると、一生懸命彼を励ましていた。
大丈夫、帰ってお母さんに消毒をしてもらって――、男の子の頭を撫でながら、何度も熱心に語り掛ける彼女の横顔に、フリーデリックは言葉を失う。
(あれは――、本当にアリシア・フォンターニアか?)
優しい顔をしている。優しい目をしている。
一生懸命に男の子を慰めようとするその姿は、まるで――、まるで、おとぎ話に出てくる聖女のようではないか。
そんな馬鹿な、あり得ない――、フリーデリックは何度も首を振るが、目の前の光景が消えてなくなることはない。
優しく微笑んで、男の子を慰めるためか、籠から飴を一粒取り出したアリシアが、細い指先で彼の口の中に飴を放り入れた。
びっくりして目を丸くした男の子が、次の瞬間、痛みを忘れて笑顔になる。
美味しい? そう語り掛けるアリシアはホッとした笑みを浮かべていて――、フリーデリックは愕然とした。
悪徳令嬢だと、誰かが言った。
王女を呪う魔女だと。性根が腐っているのだと。
(悪徳……? どこが……)
悪徳どころか――、フリーデリックの見つめる少女は、徳の高い聖女のようなのに?
(どうして笑える? どうして、優しくできる?)
本当に、あれはアリシアだろうか。アリシアの顔をした、まったくの別人ではないのだろうか。
人にあれだけ蔑まれて――、どうして聖女のように笑っていられるのだろうか。
茫然とするフリーデリックの目に、悲鳴を上げて男の子に駆け寄る母親の姿が見える。
その母親は、アリシアの顔を見るや否や表情を凍り付かせて、男の子の手を強引に引っ張ると「こんな人に近づいたらいけません!」と怒鳴りつけた。
母親は、突然怒られてびっくりして泣き出す男の子を無理やり引きずりながら、「この子に何かあったら、承知しないよ! この悪徳令嬢!」とアリシアに罵詈雑言を浴びせかけて去っていく。
そんな女に、アリシアは何も言わず、ただ淋しそうな表情を浮かべて、ただじっと男の子が去っていくのを見つめていた。
美しい紫色の瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいるのを見た瞬間――、フリーデリックの心臓は、締め付けられたように苦しくなった。
(……本当に、彼女はアリシアなのか……?)
噂されている悪徳令嬢、その人なのか。
顔は知っている。何度も捕えた。
抵抗しない彼女の手首をつかんで無理やり馬車に押し込めた。
そのたびに彼女は目を伏せるだけで――、フリーデリックは、彼女の表情を見つめたことはなかった。
見つめようとも思わなかった。
噂を聞き、王の話を鵜呑みにして、勝手に想像して作り上げたアリシアの姿が、ガラガラと音を立てて壊れていく。
アリシアは服の袖で涙をぬぐうと、人の冷たい視線から逃れるように駆け出した。
町の外に向かって走っていくアリシアの背中を見つめながら、フリーデリックはもう一度自問する。
(彼女は、本当に悪人なのか……?)
当然ながら、答えは誰も、返してくれなかった。
☆
アリシアの公爵邸を見張っていて、フリーデリックは愕然とした。
広い公爵邸の庭は、秋になって枯れた草木で荒れ放題で、使用人らしきものは、年老いた執事一人しか見当たらない。
アリシアは毎日、邸の玄関の前を箒ではいていた。
公爵令嬢の手に箒があることにフリーデリックは驚き、どうして使用人がいないのだと疑問に思う。
アリシアは働き者で、邸の掃除をして、庭の井戸から水をくみ上げ、年老いた執事が重たいものを持ち上げようとすれば、手を貸した。
観察すればするほど、フリーデリックは「アリシア」がわからなくなる。
王女に危害を加えていると噂の悪徳令嬢、アリシア・フォンターニア。
そして、目の前で優しく微笑み、転んだ男の子に手を差し伸べる、優しいアリシア・フォンターニア。
彼女の微笑みは本当に美しくて――、どうしてあんなに美しく微笑むことができるのだろうと不思議に思う。
気がつけば、フリーデリックは以前ほどアリシアに反感を持たなくなっていた。
それどころか、アリシアがユミリーナに危害を加えたという話も、信じられなくなってきている。
何かの間違いではなかったのか――、そんな思いがフリーデリックの胸を占めはじめた、そんなある日のことだった。
「ユミリーナ王女に、毒が盛られた!?」
フリーデリックの宿に、副官のジョシュアがアリシアを捕えよという王の命令を持ってやってきた。
「アリシア嬢はずっとこの地にいたし、俺も見張っていたんだ。王女に毒を盛る暇なんてなかったはずだぞ!?」
すると、ジョシュアはあきれたように嘆息した。
「今更何を言っているんだ?」
「なにって……」
「今まで、アリシア嬢を捕えたときに証拠なんて用意されていたか?」
指摘を受けて、フリーデリックは言葉を失う。
そう――、そうだった。
今まで幾度となくアリシアを捕えたが、証拠なんてどこにもなかった。すべては王の命令で――、本当にアリシアのしたことなのか、そんな疑問すら持たなかった。
フリーデリックの脳裏に、アリシアの優しい笑顔があらわれる。
違う――、フリーデリックの心が告げた。
「違う。アリシア嬢じゃない。アリシア嬢は、王女に毒なんて盛っていない」
拳を握りしめて否定すれば、ジョシュアは銀縁の眼鏡を押し上げて、淡々と返した。
「だから?」
「――だから?」
ジョシュアは狭い宿のベッドの淵に腰を下ろして、組んだ膝の上に頬杖をついた。
「アリシア嬢はやっていない。そうかもね。だから何だと?」
フリーデリックは目を見開いた。
「王の命令は絶対。それは過去、お前がアリシア嬢に向けて言ったことだ。王の命令だ、同行しろと――、お前が言い続けたことだ」
「………」
そうだ。確かにフリーデリックは、王の命令に逆らうことは許されないと、何度もアリシアを捕えた。
だがそれは――、アリシアが犯人だと、疑わなかったからだ。疑問を持ってしまった今、素直にその命令に従っていいものなのか、フリーデリックにはわからない。
「とにかく、アリシア嬢を城へ連行しなくてはいけない。これは王の命令だ。俺たちがしなければ、第一、第二の騎士団が動くだけだ。――考えることがあるなら、あとにしろ」
ジョシュアはまるで自分には興味のない事柄だと言わんばかりに返す。
だが、フリーデリックの言い分を否定しない言い方に、彼は不思議に思った。
「ジョシュア――、お前の言い方ではまるで、アリシア嬢が犯人ではないと、わかっていたと言っているようだ」
ジョシュアは榛色の瞳に、心底あきれたような光を宿した。
「――お前まさか、噂通りアリシア嬢が魔女だとでも思っていたのか?」
もしも本当にアリシア嬢が呪いの使える魔女であるなら、こんなちまちましたやり方はせずに、さっさと王女も国王も、俺たちも殺しているだろうよ――
ジョシュアの言葉に、フリーデリックは鈍器で殴られたような衝撃を受けた。







