62 夜の静けさの中で……
夜の静けさが訪れ、湯あみを済ませた鈴花は書灯を手元に引き寄せ、娯楽小説の続きを読んでいた。鈴花はあまり小説を読む方ではないが、潤が勧めてくれものはおもしろく、続きが気になってしかたがない。
夢中になって読んでいる鈴花に、春明は「ほどほどにしてくださいね」と声をかけ隣の房室に下がっていった。隣室には警護を兼ねて春明や玄家から来た武道の心得がある侍女が交代で控えている。鈴花は自分の身ぐらい一人で守れるが、護衛を置いているということ自体が抑止力になるという。
鈴花の頁をめくる手は止まらず、月は少しずつ空を西へと移っていく。そして物語は山場というところで、鈴花の耳に鈴の音が届いた。訓練によって聞き取れるようになった独特な音色。鈴花は瞬時に没頭していた本の世界から現実へと戻り、気配を探る。
(……また侵入者?)
珀家による賊があってから、景雲宮にはさらに鈴の数が増えた。しかも敵がどこを通っているか分かるよう、場所に応じて音の高さをわずかに変えている。
(屋根の上ね……)
鈴花は書灯の火を吹き消し、書几の引き出しから小刀を取り出した。これは斬りつけるための刀ではなく、投げて相手を怯ませるためのものだ。侵入してくるなら窓と当たりをつけ、物陰に隠れて様子を伺う。明かりを消したため外の様子が月明かりで見えていた。
隣室に控える春明も侵入者の気配に気づいているようで、走廊を警戒しているのがわずかな衣擦れの音でわかる。鈴の音は一度きりで、敵の人数も潜む場所も詳しくは分からない。
(……来るなら来なさい)
珀家の騒動で多くの者が処分されたため、逆恨みで暗殺者を差し向けられる危険性は考慮していた。そのため、見張りの人数も倍に増やしている。鈴花が注意深く外の気配を探っていると、影が落ちてきた。音もなく着地した何者かに向け、鈴花はためらうことなく小刀を投げつける。
「うわぁっ」
短い男の声と同時に、甲高い金属音が空気を切り裂く。その声に、鈴花は吹き矢で追撃しようと帯に伸ばした手を止め、目を瞬かせた。
「あっぶな。何すんだよ小鈴!」
「……何、してるの?」
窓辺に近づき明らかになった顔は翔月で、「怪我するとこだった」と言いながら小刀を弾いた短剣を胸元にしまい、身軽に窓から入って来る。泥棒のように房室に入って来たこの国の主に、鈴花は呆れて口が半開きになった。隣室で戦闘態勢を整えていた春明も、相手が翔月と分かったようで戸が二回叩かれた。異常なしということだ。
「この国の皇帝に暗器を投げつけるやつがいるかよ」
心臓に悪いとぶつぶつ言いながら、翔月は灯篭に火をつける。房室全体が明るくなり、互いの顔が柔らかな灯りに浮かび上がった。翔月は髪を下ろしており、武官が着る身軽な服装をしている。彼が入って来ると同時に、彼の房室に焚かれていた香の匂いが辺りに広がる。
「皇帝が何賊みたいなことしてるのよ。来るなら普通に来ればいいでしょ」
来るなら来ると先に知らされていたほうが、鈴花だって助かる。
「そうなんだけど……今日、景雲宮から戻ったら太師と郭昭の目が生温かったというか、居心地が悪いというか」
歯切れの悪い言い方に、鈴花は「あぁ」とその理由に思い当たり半笑いを浮かべた。皇帝は跡継ぎを残すのも仕事のうちであり、騒乱が落ち着けば自ずとそこに期待がかかる。まして、仮面をつけていた時期は全く後宮に足を向けなかったのだから、臣下も孫を見守るような目になるだろう。
「これで渡りなんかすれば、明日の夕餉が変わってそうで……嫌」
無論、滋養強壮があるものにだ。天邪鬼な表情になっている翔月に、鈴花は小さく笑うと椅子に座るように勧めた。自分も向かいに座り、手元の灯りをつける。
「ということは、抜け出して来たの?」
「そう。あっちだと常に皇帝でいないといけないし、息がつまる」
「ご苦労様」
気分転換に来たのだと理解した鈴花は、手を叩いて春明を呼び点心と眠りやすくなるお茶を用意するよう伝える。翔月はそれならと、離れに置いていたお酒を取って来て一杯やりはじめた。宵の房室にあったものは片付けたのに、まだあったのかと鈴花は呆れる。
「こうやってゆっくり話すのも、久しぶりな気がするわね」
宵だった時は、毎晩皇帝になる訓練や雑談をしていた。それがぷつりと無くなり、つまらなく思っていたのだ。
「そうだな。寂しいなら毎日来るけど?」
夜光杯を揺らしながら意地悪っぽく口角を上げる翔月の顔に、宵の野性味が混じる。鈴花はむっとした顔をして、視線を外した。
「別に、寂しいなんて言ってないじゃない」
「ふ~ん。じゃぁ、俺が他の妃嬪のとこに行ってもいいの?」
翔月の口から他の妃嬪という言葉が出た途端、ぞわっと胸の内が騒がしくなるが、鈴花は顔色を変えずに淡々と返す。
「皇家を存続させるためにも、必要でしょ」
「可愛くないやつ」
いい子ぶっちゃってと、翔月はつまらなさそうに片肘をついて酒を飲み干す。鈴花が酒を注ごうとすれば、「ありがと」と杯を差し出した。そしてお酒のせいか熱を帯びた瞳を鈴花に向けると、甘い声で囁く。
「でもな小鈴。俺の中で一番大切なのは、小鈴だから……覚えとけよ」
髪を下ろし柔らかな笑みを浮かべる翔月には色気があり、鈴花は頬を赤く染める。
「何よ、宵みたいなことを言って」
少し怒ったような声になったのは照れ隠しで、鈴花は視線をどこにやっていいか分からずに、彷徨わせた。翔月は素直ではない鈴花の反応が面白いのか、喉の奥で笑うとお酒を口に運ぶ。
「宵も、仮面の皇帝も俺だからな。けど、悪くないだろう?」
品行方正で優しく穏やかな仮面の皇帝と、女の扱いが上手く自分の感情に素直な宵。その中間にいるのが翔月で、鈴花の中で仮面の皇帝と宵が混ざり合って翔月に統合されていく。
「そうね……飽きたら変わってもらえるものね」
口の減らない鈴花に「宵みたいだ」と笑う翔月。その視線は優しく温かみがあって、隠そうともしない好意に鈴花は背筋がむずがゆくなる。どう返していいか分からず、鈴花は茶杯を両手で持つと口をつけた。
「飽きさせないよ」
翔月の大きな手が伸びて来て、鈴花は思わず固まる。
「小鈴、ずっと俺の側にいてくれ。そして、楽しい人生にしよう」
その手は頬を撫で、髪を滑らせ離れていく。鈴花の顔は熱く、心臓は落ち着かない。
「……当然よ。玄鈴花として、皇貴妃に恥じない働きをするわ」
「本当、頭が固いなぁ。俺だけの帰る場所になってくれていればいいのに。可愛い小鈴」
甘い言葉は途切れなく続き、鈴花は何の拷問だと唇を引き結んだ。男慣れしていない鈴花には、上手く切り返せる言葉の持ち合わせがない。月はさらに西へと位置を変え、火を灯す油が減っていく。
そして十分口説いた翔月は満足したのか、酒の甕が空になったところで席を立った。やっと心臓に悪い時間が終わると、鈴花はほっとする。
「十分な工作はしてないから、寝所を抜け出したことが見つかると大事になる」
そう言いながら見送ろうと席を立った鈴花に近づくと、妖艶な笑みを浮かべて髪をすくい取った。目を丸くして動きを止めた鈴花に艶めかしい視線を送り、髪に軽く口づけをする。
「じゃ、また明日来るから。暗器は投げないでくれよ」
そう言い残し、固まる鈴花を残して翔月は酔いを見せない身のこなしで窓から出ていった。ほどなく屋根の上の鈴の音が聞こえ、屋根伝いに奥殿へと帰るのだろう。
「……窓、木で打ち付けておこうかしら」
鈴花の容量はすでに満杯で、甘い言葉に毒でもあるのか思考は鈍い。頭をすっきりさせるために窓から顔を出し、外の空気を吸い込んだ。ニ三回深呼吸をして、臥室に入ろうと窓辺を離れる。その瞬間、翔月の残り香が鼻腔を突き抜け、胸が締め付けられた。夜気で冷やされた頬がまた熱くなる。
(……もう!)
知らないうちに房室に翔月の香りが満ち渡って鼻が麻痺していたように、自分の中に翔月の存在が刻み込まれているような気がして、鈴花は速足で臥室へと入り衾褥へもぐりこむのだった。




