54 引導を渡します
「お待ちください! 陛下! どうか恩情を!」
転がるように前に出てきたのは珀妃で、膝をつくと涙を浮かべて懇願する。
「父は騙されていたのです! これは珀家を陥れようとする陰謀ですわ! きっと何かの間違いです!」
悲壮な顔で皇帝を見上げ、泣きつく様子は憐れみを誘う。だが、それで心が動くようでは、翔月も鈴花も国を背負って立つことはできないのだ。翔月は感情のこもっていない瞳を珀妃に向け、淡々と言葉を返す。
「珀妃。残念だが、証拠は全て押さえている。珀家を探せば、さらに山間の部族との繋がりや皇位争いとの関わりが出てくるだろう。いかに証拠を隠滅しようとしても、痕跡は残るからな」
「そ、そんな……よく調べてください! そ、そうですわ。きっとあの男に唆されただけです! お父様は何も!」
必死な形相で、珀妃は仮面の男を指さして言い募る。大きな緑色の瞳からは涙が次々に溢れていた。珀妃は皆に訴えかけ、首を巡らせている。自ずと鈴花とも目が合い、表情に憎しみと怒りが宿った。
「小賢しい女! 皇貴妃になるのに、私が邪魔だから家ごと消そうとしたのでしょう!? 醜くて吐き気がするわ!」
苦し紛れに噛みつかれ、鈴花はうんざりとした表情を浮かべる。どうしたものかと皇帝に視線を向ければ頷き返されたため、小さく息を吐いた。引導を渡せということらしい。鈴花は重い腰を上げて珀妃と向かい合えば、彼女も立ち上がった。
「珀妃。気品もなく喚き散らして、醜いのはどちらかしら。先ほど陛下が挙げられた証拠に対し、右丞相は反論できていない。これから調べれば、さらに後ろ暗いものがたくさん出てくるわ」
「だから、それは全て偽造されたものよ! 卑怯な玄家が! 手放した国を取り戻したいから、こんな手の込んだ策を弄したのでしょう!?」
侮辱の言葉に、鈴花の眉が上がる。怒りの炎が燃え上がり、腸が煮えくりかえるようだ。腹の底から低い声が響く。
「なんですって? 国に仕える臣としての誇りを失い、部族を用いて国を揺るがしたのは珀家でしょう!」
「そんなはずないわ! 私は后妃になるの! それを、蓮が……邪魔をすることは許さない!」
耳をつんざく叫び声をあげる珀妃に対し、鈴花は思わず舌打ちをした。
(面倒なことを知ってるのね……その口、塞ごうかしら)
護身用の吹き矢は帯紐の中にある。睡眠薬が塗られているので、一瞬で静かになってくれるだろう。だが百官たちが揃う中で、闇の玄家を見せるわけにはいかない。鈴花は口には口でと、すっと息を吸った。
「黙りなさい!」
空気を切るような鋭い声。
「自分の思うようにならないからって、泣き叫ぶのは子どもと同じよ」
「偉そうな口を!」
「珀妃、あなたに后妃となる資格はないわ。この期に及んでも、父親や家、そして信を寄せてくれた官吏たちの心配よりも先に自分の望みを口にするようではね!」
一刀両断。鈴花の言葉の切れ味は鋭く、翔月は小気味よさそうに口元に弧を描き、いつの間にか壁際に潜んでいた凉雅は晴れ晴れとした顔をしている。珀妃は唇を噛み、拳を握りしめた。言い返す言葉が出てこないようで、涙だけが頬を伝い床を濡らす。
「珀妃……あなたは何も知らず、ただ甘い夢を見ていただけかもしれないわ。でも、国に仕える家の一員ならば、家族を止めるべきではなくって!? 傍で暮らしていたのなら、不審な点も見つかるでしょう! 真に国を想うのならば、罪の重さを考えなさい!」
返事はない。何か思い当たる節でもあるのか、珀妃は唇を引き結んで涙を流すだけだった。鈴花は父親の野望に翻弄された娘の姿に、後味が悪いものを感じる。鈴花は追い打ちをするのを止め、後はお好きにと皇帝に視線を向けた。その意を組んだ翔月が軽く手を挙げると、武官たちがつき添うように珀妃を連れ出した。右丞相も、珀家に与していた官吏たちも一度牢に留め置かれ、取り調べの後処断が下るのだろう。
そして、珀家の仮面の男を拘束しようと武官たちが手を伸ばした時、男が急に立ち上がって手を薙ぎ払った。そのとたん、男を掴もうとしていた武官が倒れ、珀妃の悲鳴と武官たちのどよめきがあがる。
「何!?」
鈴花が注意を向けた時には、男は足を踏み出しており、皇帝へと突き進んでいた。一瞬鈴花に視線を向けたかと思うと、視界の隅に暗器に影が映る。
(速い!)
避けようと足を動かすが、裾の長い裙では思うように動けない。迫って来る暗器と遠ざかる男の動きがゆっくり見えた。
「鈴花様!」
春明の切迫した声が耳に届くと同時に、目の前を盆が横切った。暗器を弾いたようで、床に落ちる金属音がする。
「宵!」
瞬時に他の暗器がないことを確認した鈴花は、床を踏み切り宵へと駆ける。武官たちは不意を突かれたため対応できておらず、男はまっすぐ皇帝に向かっている。身をかがめた男の手元には光るものがあった。
(まずい!)
鈴花たちを襲った賊と同じ短剣に、鈴花の血の気が引く。吹き矢で動きを止めようと右手を帯紐の中に入れた瞬間、皇帝の姿が消えたかと思うと男が膝をついた。
(え?)
鈴花は足を止め、なんとか踏みとどまる。男が倒れ伏した横には、顔色一つ変えていない皇帝がいる。誰一人動けなかった。
(何をしたの?)
皇帝の動きは早く、目で追えなかった。そして倒れた衝撃で男の仮面が取れ、人々の間にざわめきが走る。翔月とは似ても似つかぬ顔で、唇が痙攣していた。
(麻痺……あ、首筋に小さな傷がある)
どうやら男の横に回り込み、首筋を麻痺毒が塗られた暗器で傷つけたらしい。目に留まらぬ早業で、技能の高さに鈴花は舌を巻く。
(春明並みだわ)
何が起こったか正確に理解できるものは、ここにはほとんどいないだろう。皇帝は硬直している臣下を見回し、手を叩く。
「何をしている。早く連れていけ」
そう促され、やっと武官たちが動き始めた。誰もが戸惑い、恥じるようにそそくさと嫌疑がかかった者たちを連れていく。だが、その嫌疑は今の男の行動で決定的なものとなっただろう。珀妃も信じられない顔で父親を見ており、対する父親はぼんやりと虚空を見つめていた。
武官たちは彼らを引きつれ、堂庁を後にする。鈴花は珀妃の小さな後ろ姿が見えなくなると肩の力を抜き、息を吐いた。そして踵を返して席に戻ろうとしたところで、父親と目があう。彼は満足そうに微笑んでおり、口が小さく「よくやった」と動いた。
(何その顔……全部計画通りですって感じで腹が立つ!)
鈴花は右手を胸元に引き寄せ、襦で他の人からは見えないように隠す。そして父親の隣を通る時に手の形を変え、合図を送った。玄家で使われる、手を使った簡易的な意思疎通だ。
(後で覚えていて、と……宵、いえ、皇帝にもたっぷり話を聞かないといけないし)
席に座した鈴花が殺気を込めて皇帝の背を睨みつけると、わずかに肩が震えた気がした。そして振り返ろうとしたが止め、玉座へと戻る。珀家が消え、百官も数を減らした堂庁を見回す。
堂々としたその姿は、悔しいが皇帝だと認めさせる力がある。仮面をつけていた時はあえて大人しく、弱そうに見せていたのだろう。視線を巡らすだけで空気に緊張感が生まれ、三家の息子たちが玉座の前で跪けば、臣たちは背筋をのばし頭を下げていった。
鈴花も周囲にならい頭を下げながらも、胸の内は落ち着かず、上目遣いで皇帝の顔を盗み見た。
(まだ、信じられないわ。あの宵が、皇帝だったなんて)
だが、冷静になって考えれば皇帝は玄家で身代わりになる訓練を受けていた。誰かに成りすますのは兄以上の実力だとも。
(宵に、なりきってたのね……それを見抜けなかったなんて)
思えば、襲撃の夜にいち早く駆けつけたのだって、鈴の音が聞こえたからだろう。他にも気配を消して近づいてきたり、声真似も筆跡を写し取るのも上手かったりするのも、つじつまがあう。
鈴花が自分の未熟さを感じていると、静まった堂庁に皇帝、翔月の声が響いた。




