4 皇帝陛下のお誘いを受けます
今日も暇な一日が始まると思っていた鈴花は固まっていた。輿に乗せられて連れていかれたのは禁苑、後宮内で最も広く芸術の髄を集めた庭である。毎日庭師が手入れをしており、枯れ葉の一つも落ちておらず、敷き詰められた玉石は光り輝いている。
そんな風光明媚な景色に感嘆する間もなく、池の真ん中にある水亭に案内され、皇帝と向かい合って座ることになったのである。そして挨拶をし、口上を述べてからは沈黙が続いていた。
(仮面、あれ以外もあったんだ……)
そう、やはり皇帝、翔月は仮面をつけていた。だが昨日のような腹筋に打撃を与えてくる仮面ではなく、工芸品のような仮面だ。黒檀の表面は艶やかに磨き上げられ、表情は書きたいのか、銀粉で穏やかな笑顔が描かれている。目と口に細い切り込みがあるが瞳や口は見えない。そればかりか仮面は顔を耳元まで覆うように曲げられていて、素肌さえ見えなかった。ほおや額には螺鈿が押され、梅の花が太陽を受けて七色の光を返している。
(あれが小箱なら、高値で取引されそうなのに)
玄家は工芸品にも手を出している。日夜職人たちが腕を磨き、美しい銀細工や漆、螺鈿の簪や櫛、小箱を作っていた。
(今日も素晴らしいお召し物で、銀の刺繍が仮面とよく合ってるわ)
藤色の袍に黒の帯紐、仮面を装飾の一つとしてもいいなら、謎めいた感じを除けば上級の装いと言える。
(ほんとに、お声をお出しにならないのね。せっかくお洒落をしたのに、一言くらい褒めてくださってもいいじゃない)
朝一に使いが来てから、鈴花は慌てて支度をした。春明はいつ何時陛下からのお声がかりがあってもいいように、季節や天気を考えて数通りの衣装をあらかじめ用意してくれていたのだ。本日は外でお目にかかるということで、柔らかい印象になるよう揃えている。
薄桃色の襦には小さな花の文様が捺染されていて、ふわりと広がる裙は梅色。肩からかけている帔帛は薄黄色であり、春を切り取ったような色合いだった。化粧は派手すぎず、鈴花の可愛さが引き立つようにしている。
(気まずいわね、何か話した方がいいのかしら)
そう鈴花が考えていると、翔月は急かすように大理石でできた丸卓を指で叩いた。鈴花は慌てて世間話でもと口を開く。
「あ、えっと。本日の仮面も素敵ですね」
世間話に仮面は含まれない。まずかったかと笑顔が固まるが、翔月は頷きを返した。
「そちらも陛下がお作りに?」
これには首が横に振られた。さすがに職人の手によるらしい。ということは他にもまともな仮面がいくつかあるのだろう。昨日のような破壊力のある仮面ばかりでないことがわかり、鈴花はほっと胸を撫でおろす。あれを朝廷でもつけているなら、臣下が可哀想すぎる。
「あの、ではどうして昨日はあの仮面を……?」
何か深い意図があってのことかと、心して尋ねた。妃として皇帝の側にいるのなら、今後仮面にも詳しくならないといけないだろう。仮面に意味があるのなら、それに応えなければと鈴花は意気込む。皇帝は少し顎を引くと、沈黙ののちにくぐもった声で返答した。
「和むかと」
その言い方が妙に可愛くて、鈴花は噴き出すのを慌てて堪える。また頬が膨らんだ。まるで栗鼠のようで、それを見た翔月の肩が震える。
(今後、腹筋が鍛えられるまで仮面の話はしないようにしましょ)
鈴花はそっと息を吐きだし、平静を装って話を変えた。
「えっと、今日はどうして私をお呼びくださったんですか?」
「別に……」
不明瞭だが、昨日と同じ柔らかさのある声だ。会話ができていることが嬉しくて、顔が自然と綻んだ。
「一刻の気まぐれでも、私たちには無上の喜びです。後宮の園にもっと足をお運びいただければと」
「……善処する」
小さい声なので聞き逃しそうになるが、鈴花は集中して音を拾った。この時ばかりは、築山から流れる滝の音を邪魔だと思ってしまう。そしてまた皇帝は黙ってしまい、視線を爽やかな風が通り抜ける園林へと向けた。鈴花もそれに倣って視線を飛ばす。
(不思議で、捉えようのない人だけど……嫌じゃないのよね)
向こうもこちらとも距離の取り方を測りかねているような気がする。だが邪険に扱われるわけでもなく、たまに気遣うような雰囲気を感じた。それがまた好感が持てる。
「お庭、きれいですね」
そう焦ることもないだろうと、鈴花は当たり障りのないことを言った。こくりと翔月が頷く。
(これから長い時間をかけてお互いのことを知ればいいんだもの)
春の心地よい陽気に包まれて、鈴花の心も浮足立つ。後宮に入る前はまだ見ぬ皇帝の人柄を不安に思ったこともあったが、今のところいい人そうだ。変な人ではあるけれど。
二人の間にはまだぎこちなさが残るが、よい関係を築いていけそうだった。
その後、使いの宦官が水亭への飛び石を渡ってきて、翔月に政務の予定を伝えた。同時に、鈴花は三日後から皇帝が建国祭の前に先帝たちの陵墓へ参るため、数日都を空けると聞かされる。
(建国祭は一か月後よね。そんな準備があるなんて知らなかったわ)
建国祭では様々な行事が行われ、皇帝は民衆の前に姿を見せる。その時、隣には后妃か皇貴妃が立っているのだ。
(選んでもらえるように、これからもっと親しくなりたいわね)
だが鈴花の想いとは裏腹に、事態は動くこととなるのである。