34 眠れぬ夜を過ごします
衾褥にもぐり、目を閉じれば宵の真剣な顔と艶やかな声が蘇る。それも甘い言葉ばかりが耳元から離れない。気にしないようにしようとすれば、ますます小憎たらしい顔が浮かんできて、鈴花は硬く目を瞑った。
(なんのよあいつ……苛々するわ)
なかなか寝付けずに寝返りを打つ。雨が廂を叩く音が聞こえて来て、頭の片隅で降り出したんだと思う。風もあるようで、時々ごうっと音を立てていた。花散らしの雨だ。
(大人しく身代わりだけしておけばいいのに)
宵にはご落胤の件も含めて計画を狂わされてばかりだ。率直に物を考えて口に出し、自分の想いに素直に生きる宵は羨ましくもあるが厄介だった。鈴花は常にある程度先を見通してから動きたいため、臨機応変に対応するのはあまり得意ではない。その辺りは春明が上手く相談にのり助言をしてくれるから、今までやってこられたのだ。
(宵への今後の対応も考えないといけないわ……)
想定される事態を挙げて、その備えをする。それは幼いころから父に教えられたことの一つだった。だが宵について考えれば考えるほど、先ほどの声が蘇り、匂いまで感じるような錯覚に陥る。半ば夢現ということもあるのだが、鈴花は嫌々と衾褥の中で首を振った。
(陛下を思い出して落ち着こう)
必死に遠い日の記憶と、仮面の皇帝を思い浮かべる。枝垂桜の景色を考えれば少しは落ち着くが、眠りへは誘われなかった。瞼は石のように重いのに、頭が冴えている。時折夢の世界へ入っていける気がしても、すぐに現実に戻された。入眠効果のある香を焚いても無駄で、鈴花は半ば諦めて今後の対策を練るのだった。
そんなものだから、当然次の日は寝不足であり、重い瞼に薬草を蒸したものを綿布に包んで乗せていた。体も重く気分も良くない。朝食を終えた宵が訪ねてきたらしいが、宮女に追い返してもらった。
(今は宵に会いたくないわ……)
鈴花は瞼の上から熱をじんわりと感じながら、溜息をついた。明らかに不調な主人を気遣って、宮女たちは朝から鈴花が好きな甘い点心を作り、朝食に添えてくれていた。その優しさが身に染みるが、心身の疲れは取れない。
すると宮女たちはこの機会に体を整えましょうと、按摩と肌の手入れをしてくれた。とても上手で気持ちがよく、鈴花は知らないうちに眠りに落ちていたのだった。一時間もすれば鈴花の少し腫れていた目もすっきりし、体も軽くなったのでやっと活動を開始できる。
(確か宵は景雲宮の片づけをするって言ってたわよね)
宵はほとんど景雲宮付きの宦官となっており、あまり他の仕事はしていなかった。玄家が推挙したこともあってか、鈴花の側付き扱いをされているのだ。後宮の女の子にちょっかいを出されては困るので鈴花としてもありがたかったのだが、今は少し息苦しい。景雲宮は広いとはいえ、顔を合わせないとも限らないからだ。
(春明はまだ帰らないし……少し散歩でもしようかしら)
房室の中にいれば息がつまるし、院子だと四方を邸舎に囲まれているので宵と鉢合わせする可能性もある。幸い夜に降った雨は上がっていた。空はまだ雲が多いが、すぐに降り出しそうにはない。鈴花は手の空いている宮女を一人連れて近くを散歩することにし、路を北へと歩いて行った。梅は身頃を過ぎたので、苔が美しいと評判の園林に行こうと足を進めると、人の気配を感じて立ち止まる。
築地塀の角に人気がしたが、姿は見えなかった。
(気のせいかしら)
気が立ってるのかしらと思うと同時に、はたと気づく。
(あれ、なんで私景雲宮の主人なのに、外に出てるわけ? あいつを追いだせばよかったんじゃない!)
一日くらい侍中省で働かせればよかったと鈴花は舌打ちが出そうになる。さらに昨日の振る舞いなどを思い返すと、だんだん腹が立ってきた。眉間に皺が寄り始めた鈴花だが、突然立ち止まった主人を心配そうに見ている宮女に気づいて咳払いをして歩き出す。
(いけない……また頭の中にあいつの顔が)
鈴花は無心になろうと好きな点心を頭に浮かべながら進んでいく。
(甘い小豆の包子に、桃饅頭……干し杏子に干し芋、杏仁豆腐)
考えていると無性に食べたくなったので、春明が帰ってきたら作ってもらおうと決める。そしてしばらく歩けば後宮の半分を過ぎ、目的の園林目前というところで鈴花は前方に注意を向けた。
(……あれは)
築地塀の角から目立つ人影が見えてきたのだ。遠目でもその色彩ははっきりしていて、紅が押し寄せてくるようだった。比喩でも何でもなく紅の集団だ。
(うっわ~。脇道に入りたいけど、逃げたくない)
鈴花が顔をしかめていると、宮女も相手が誰か分かったようで困ったようにちらちらと視線を向けてきている。彼女だって回れ右をしたいだろう。
(さっきの人気はたぶん下女ね……私が外に出たから主人に伝えにいったのね)
言いたいことがあるなら文でも送ればいいのにと思うのだが、相手にも矜持があるのだろう。
「何かあったら、すぐに宮まで伝えに走ってね」
「は、はい!」
話している間も歩みは止めない。それは向こうも同じであり、どんどん彼我の距離は縮まっていく。鈴花は腹をくくって目に力を入れ、二度目の対面に臨むのである。




