32 夜の亭で……
月の無い夜。雲は厚く、空が低く感じる。梅はことさら香りが強く、散る間際に香りを残そうとしているようだった。下女が先に院子へ駆けていき、亭への道の足灯りを点けてくれていた。よくできる下女で、鈴花はありがたさを感じながら玉砂利を踏み進む。
(外の空気を吸うと、少し頭がすっきりするわね……)
亭へと石の段を上り池と庭を一望すれば、塞いでいた気が晴れていくよう。座りっぱなしで体が固まっていたから、伸びをする。月がでていれば池に月が映り、心惹かれる景色となっていた。
(今日はあいにくの天気ね)
鈴花は丸卓の向こうにある長榻に腰掛け、欄干にもたれかかった。ぼんやりと水面を見つめていれば、心も凪いだ水面のように落ち着いてくる。少し視線を向こうへ飛ばせば、枝垂桜がその枝を揺らしている。ここからは見えないが、蕾は膨らみつつあるのだろう。
梅から桜へと、時は確実に流れていく。
(枝垂桜が咲くころには、なんとしても決着をつけないと……)
あと二週間ほどで建国祭がある。郭昭とも、建国祭までには動きがあるだろうと話していたところだ。時間はない。なのに先は見通せず、不安が常に心に巣くっていた。
(……だめよ。弱気になっちゃだめ)
鈴花は悪い考えへと引っ張られそうになる自分を叱咤し、ゆっくり深呼吸をする。脳裏に支えとなる風景を思い描き、その時の決意を呼び起こさせた。月が皓皓と輝く夜、枝垂桜の向こうに見えた栗色の髪の後ろ姿。
「……陛下」
あの時、彼が皇帝であればいいのにと思ったのだ。彼のために働きたいと。顔の見えない彼は、泣きじゃくる鈴花に優しく名を呼んでくれた。小鈴と。
(本当はゆっくり、あの時の話をしたかったのに……)
本当に彼だったのか、確認することもできないまま皇帝は行方知れずとなってしまった。
(もう一度、会いたい)
そう考えた瞬間、
「小鈴」
と、突然現実で名を呼ばれ、鈴花は我に返って振り向いた。亭の石段の下に人が立っていて、顔は薄暗くて見えないが声で宵だと分かる。
(き、気づかなかった……考え事をしていたとはいえ、気配に気づかないなんて)
急に声をかけられたため、ひやりとし、心臓が早鐘を打っていた。それと同時に気づけなかった自分への戸惑いが大きい。
「考え事か?」
近づいて来た宵は寝る準備を終えたようで、髪を下ろしていた。袍もゆるめに身に着けており、胸元が開いている。房室で香を焚いていたのか、甘い香りがかすかに残っていた。隣に座って欄干に肘をついた宵からは、薄暗くて顔はよく見えないながらも色香を感じて、鈴花は目を逸らした。
「まぁね……今日で色々分かったことがあるから、整理してたの」
「ふ~ん。そんな思いつめた顔をしてか?」
宵の声は鋭く、険を帯びている。不機嫌なのか纏う空気がピリッとして、鈴花は不愉快そうに眉を上げた。余裕がない時にそんな態度を取られれば、こちらも苛立ってくる。
「当然でしょ。たくさんの物を背負って大勝負に出ないといけないんだから……誰が敵かも分からないし、神経質にもなるわよ」
不機嫌さを隠すこともなく、鈴花は言葉を返した。宵の視線は刺さるようで、鈴花は顔を向けることなく水面に視線を飛ばしている。
「なら、全部投げ出せばいいじゃねぇか」
「……何言ってるの?」
棘のある声で返し、思わず顔を宵に向けてしまった。そこには熱く真剣なまなざしがあって、鈴花を捉えている。その目で見つめられると胸の奥がざわざわとし、視線をどこに向けていいのか分からなくなる。
「こんな窮屈なとこ逃げ出して、俺と一緒に外で暮らそうぜ。なんなら属国や、胡国に行ってもいい」
「ちょっと、急に何を言い出すのよ」
「こんな国、お前が神経すり減らして尽くす価値ないだろ」
「なっ……」
宵の言葉はいつも飾りがなく、その分直接心に響く。かき乱され、さざ波が立った。
「それは鳳蓮国と玄家を侮辱してるの!?」
「事実だろ。末の公子は身代わりにさせられるわ、上の公子は皇位争いして国を荒らした挙句自滅。身代わりとして育てられたと思ったら皇帝をさせられるなんて、可哀そうすぎるわ。今回行方不明なのは、玉座が嫌になって逃げたんじゃねぇの?」
宵はあてつけるように口端を上げ、意地悪な表情をつくっていた。
「そんなはずないわ! 陛下は国を想っていらっしゃる立派な方よ!」
鈴花は思わず立ち上がり、宵を睨みつける。国だけでも許せないのに、彼は皇帝まで侮辱した。
「なんでわかるんだよ。小鈴、お前はいつも国だとか家だとかばっかだな。お前はどうしたいんだよ」
「……私?」
そんな質問、今までされたことがなくて鈴花は答えにつまってしまった。鈴花の行動基準はまず家であり、しいては国である。
「お前を見てると腹が立つんだよ。お前はなんのためにこんなことしてんだ? 本当にしたくてしてんの?」
「と、当然でしょ? 陛下を支え、国に尽くすのが私の喜びだわ」
「じゃぁ、俺が皇帝でもいいよな」
静寂が広がる。鈴花は宵の雰囲気にのまれそうで、無意識に一歩後退った。
「小鈴。本物の皇帝がいようが知ったことじゃねぇ。お前がこの国に、玄家にこだわるっていうなら、俺は皇帝になる。そんで、お前を后妃にする」
「はい? なんでそうなるのよ。ご落胤かもしれないからって、いい気にならないで!」
今の鈴花は宵を信じ切れておらず、意図を理解しきれなくて混乱する。宵はわざとらしくため息をつくと、立ち上がって鈴花と向かい合った。香の匂いが漂い、ことさら彼の存在を意識させる。
「先帝の子かもってのは関係ねぇよ。まぁ、それが本当なら利用しない手はないけど。俺は、お前が国のために尽くしたいっていうから……小鈴、それは俺の隣でもできるだろ?」
少し小首を傾げ、鈴花を見下ろす宵の声音にからかいの色はない。それがさらに鈴花を混乱させた。
「な、なんで。なんでそんなことを言うのよ」
宵は妓楼の客引きで、父親に金で雇われた。ご落胤の可能性があるとはいえ、政治とは無縁の人生だったはずだ。
(野心でもでてきたっていうの?)
手の届くところに魅力的なものがあれば、手を出してみたくなるのが人の性。そういうことだろうかと、鈴花は勘ぐる。だが、宵の表情を観察し、その理由を探ろうとした鈴花の思考は次の瞬間には吹き飛ばされた。
「……俺が、お前の側にいたいと思うからだ」
「……え?」
「好きだ」
ぽつりと、水面に落とすように呟かれた言葉は、鈴花の心の中に水紋となって広がっていく。頬が紅潮し、息が苦しい。男性から好意を寄せられたことなんて初めてで、鈴花はうるさい心臓を取り出したくなった。
「何、言ってんのよ。なんで、あなたが私を好きになるのよ」
「好きになるのに理由なんているかよ」
出会ってまだ二週間と少ししか経っていない。宵は鈴花にとって協力者であり、命運を託す者であり、利害が一致した上でなりたっている関係だ。そこに色恋がからむことは、鈴花は想像すらしなかった。そんな鈴花を宵は一蹴する。
「小鈴の頑張る姿を見て、話をして、お前の側が心地いいんだよ。お前となら、窮屈な後宮だって、明日も知れない市井だって、どこでも生きられる」
ここまで来ると、鈴花にも口説かれていることは分かる。分かっても、すぐに適した言葉を返せるほど鈴花は恋愛経験がなかった。顔は茹でられたように熱く、心臓は走った後のように早鐘を打ち続けている。冷静さなど、すでに失っていた。
「む、無理よ。だって、私は陛下を」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。頭がぐるぐるして、目の前を捉えることすら危うい。
「あなたが皇帝になったとしても、陛下とは違うもの!」
なんとか言葉を絞り出すと、鈴花は踵を返した。これ以上宵と話を続けたら、奈落の底に落とされる気がして怖かったのだ。丸卓の脇をすり抜け、亭から降りる石段に足を踏み出した時、腕を捕まれ後ろに引かれる。
(……え?)




