31 疑いが深くなります
鈴花が一人自室に籠って考え事をしてほどなく、春明が戻った。宮女から郭昭が訪ねてきたことを聞くなり、顔をこわばらせる。そして緊張をほぐすのにいい洋甘菊茶を用意し、緊急作戦会議を開いたのだった。
部屋には鈴花が焚いた伽羅の香りが仄かにしていて、そこに洋甘菊の香りが混ざっていく。鈴花と春明は卓子に向かい合って座っており、お茶を飲み干した鈴花は静かに息を吐いた。やっと落ち着けた気がする。
「鈴花様……郭昭様はなんと?」
緊張に満ちた声で春明が問えば、鈴花は曖昧に微笑んで返した。
「宵が偽物だと見破られたから、計画を話して協力してもらうことになったわ。陛下の幼少期を知っていたみたい」
春明は驚きを隠せず、鈴花の茶杯にお茶を注ぐために茶壷に手をかけたまま止まった。
「信用はおけるのですか?」
その場にいられたらよかったと悔しそうな顔をしながら、お茶を注ぐ。
「たぶんね……少なくとも国と皇帝への忠義は本物だと感じたし、何より玄の面を知っていたわ」
「五家以外でもまだ覚えている人がいるとは……そういえば郭家は蓮国につながる家でしたね。玄家と関わりがあったのかもしれません」
春明は手元が震えそうになるのをこらえ、音を立てずに茶壷を卓子に置いた。急展開に頭で整理するのが忙しく、ずっと眉根を寄せている。幼いころから一緒に育った鈴花には、春明が持つ膨大な情報と照らし合わせながら思考していることが手に取るようにわかったが、容赦なく新しい情報を加えていく。
「それとね、私は玄家を、お父様を信用しないことにしたわ」
「……それは、どういうことですか?」
声に険が帯びる。目つきが鋭くなっており、鈴花は心して話し出した。春明は鈴花の側付きだが、玄家に仕えている。まして父親が手塩をかけて育てたのだ。
「陛下は三年間、玄家で身代わりになるべく訓練を受けていたの。おそらくお父様手ずから……。なのに、私にはそのことを教えられていない。おかしいでしょう?」
「まさか……ずいぶん昔に公子の一人が保有地に短期の療養に来たと聞いたことがありましたが……三年もですか」
情報収集能力が高い春明も知らないとなると、用意周到に隠されたのだろう。影武者の存在がばれては意味がなくなるのだから、当然ともいえる。春明は表情を翳らせ、口元に手を当てた。
「そうなると、最初から考え直さないといけないわ。陛下は捕らえられているのか、それとも自分で身を隠されているのか」
「捕らえられているなら相手は相当の手練れですよね。それこそ……」
春明は鈴花が言わんとしていることを察し、口をつぐむ。そしてその可能性は一つ、玄家に戻って仕入れた情報に関連してくる。
「鈴花様……玄家に戻って当主様と話し、他の侍女とも話していたのですが……気になることがあるのです」
「何?」
「……宮仕えされている凉雅様からの文がこの二週間ほど途絶えているそうです」
凉雅は鈴花の五つ離れた兄であり、朝廷に出仕して雑用をしていた。名前にそぐわぬ凡庸な顔立ちをしており、物静かなためたまに忘れられるほど影が薄い。文官の寮に住んでいるため滅多に家には帰らないのだが、毎週文のやりとりはあったのだ。
鈴花はますます怪しいと顔を曇らせる。
「お兄様も動いていると見てもいいのかしら……」
「まだ何とも……。それと、これは当主様からの情報なのですが、皇帝を保護したという三家への物の流れや人の動きを調べたところ、珀家は一人分の食料や日用品、また薬の購入量が増えていたそうです」
それは実に有益な情報であり、明らかに人を保護、もしくは監禁していることになる。だが、疑わしい父親からの情報とあっては罠にも見えてしまう。同じことを春明も考えたのか、顔色は優れない。
「一応こちらでも裏付けをとりますので」
「えぇ、お願い。……宵のことといい、なんだか上手くいきすぎている気がするのよね。なんだかご落胤というのも怪しく思えてきたわ」
宵が働く妓楼は玄家が所有しており、父だって宵の存在を知っていた可能性がある。そしてご落胤の可能性を出したのは宵だが、それを裏付けたのは父だ。一度疑いの芽が芽生えると、どんどん猜疑心という養分を吸って茎を伸ばしていく。怪しいものは全て疑い、考えぬけというのは父の教えだ。
「ご落胤自体が嘘ということですか?」
「……そこまでは言い切れないわ。郭昭も李妃が寵愛を受けていたことは知ってたし、身ごもった可能性もなくはないもの。でも、それが宵だとは限らないんじゃない?」
文に簪、その気になれば捏造くらいできるだろう。疑い出せばきりがなく、不安はどんどん膨らむ。せっかく積み上げてきた計画が一瞬で崩れてしまい、鈴花はがけっぷちに立たされているような心地になっていた。
(でもなぜそんな手の込んだことをするのかしら……)
そう思うと同時に頭の片隅に何かがひっかかる。それは他の家が皇帝を保護したと名乗りを上げた時に考えたこと。
(まさか、皇位を狙って……?)
ご落胤が本当であれ、嘘であれ、宵が皇位につけば玄家は国に大きな恩を売れる。さらに鈴花が子を産み后妃となればその地位は盤石だ。
(でもなんで今更……)
父親に野心でも芽生えたのだろうかと思いつめていると、固く握って卓子に置いていた手に、春明の白い手が重なった。優しく撫でられると、皮の硬さを感じる。春明は緊張を解いて、ふわりと微笑みかけた。大丈夫ですよと、緩んだ目元が伝えてくれる。
「そうかもしれませんね。しかし、私たちはそこに賭けることにしたのですから、信じましょう。私は、いつでも鈴花様の味方ですから」
鈴花を気遣う温かい言葉は、不安で凝り固まった鈴花の心に広がり解きほぐしていく。春明の手が離れても熱が残り、その温かさが勇気となるのだ。
「そうね。……ごめん、弱気になったわ」
鈴花は両手で頬を叩くと、気を引き締めた。信じてくれる人がいるなら、くじけているわけにはいかない。
「これからは他家と玄家の動きに注意しながら、皇帝を捜索、そして宵を身代わりとして守り通すわよ」
「はい。その命、しかと承りました」
春明は情報を集めるために再度市井へ赴き、鈴花は自室に籠って策を練る。父親が一計を案じていることも考慮すると、今後の展開がさらに枝分かれし、全てに対策を講じていかなければならない。
夕食も心ここにあらずの状態で食べ、鈴花は物思いにふける。気づけば外は真っ暗になっており、気を使った宮女が灯篭に火をいれてくれていた。空は吸い込まれそうなほど黒く、月の姿を隠していた。今にも雲が雫を落としそうだ。
(……だめ、もう頭が回らない)
限界だと鈴花は腰を上げ、房室を出る。外の風は生暖かく、湿気を含んでいた。雨が近いと鼻で感じる。鈴花は戸口に控えていた下女に、
「少し夜風にあたってくるわ」
と声をかけると院子へと向かった。