30 皇帝陛下の隠された過去を知ります
「身代わりってどういうことですか?」
鈴花は険しい表情になっており、気持ちを落ち着かせるためにお茶を一口飲んだ。身代わりという言葉に、背後から何かが迫って来るような気味悪さを感じる。重大なことを見落としていたような、根底が覆ってしまうような、そんな予感がした。喉が張り付くように乾いてくる。
郭昭もお茶を一口飲むと、重々しい口調で続きを話し出した。
「皇族に暗殺が多いのは周知のことです……。そのため、末子や容姿の似た子を身代わりに育て上げることがままあるのです」
苦々しい表情で話す郭昭からは、そのことに納得がいっていないことが伝わってくる。
「陛下のご母堂様は景雲宮に住まわれていたこともあり、私は妃の身の回りの世話も仰せつかっておりました。ゆくゆくは幼少の陛下の教育係を任されることになっておりました……」
郭昭は若く見えるが、後宮で二十年以上勤めている。今の皇帝に側仕えとして侍中に抜擢される前も、相応の地位にはついていた。
「ですが、妃は後宮を出られご生家で療養されることになったのです。その時、翔月様は三歳ほどでしょうか。あどけなく笑っていらっしゃった顔をよく覚えています……その後、上四人の公子が成長されるにつれ、陛下の存在は人々の記憶から消えていきました」
郭昭はそこでお茶を飲むと、静かに置いた茶杯の側面を指でなぞる。
「そして、陛下が十歳になった頃、身代わりとして訓練を受けさせるよう通達が来たのです。秘密裏に行われる必要があったため、手配は私一人が行い、陛下は顔を見られないために仮面をつけるようになったそうです。そして三年間訓練をされ、その後は皇帝としてお迎えに上がるまで、私にも何も知らされていません」
「待って」
鈴花のかすれた声が話を遮った。心臓が早鐘を打ち、手先が冷えていく。皇帝が十歳ということは、鈴花はその時六歳。
(まさか……じゃぁ、あれは)
脳裏に枝垂桜が蘇る。幼い日のおぼろげな記憶。優しく高い声と、最後に見た栗色の髪。そしてショウゲツという名。
「その訓練はどこで?」
ひたひたと嫌な予感が迫って来る。鈴花は血の気の引いた顔をしており、それを宵は怪訝そうに見ていた。
「……玄家でございます」
告げられたその言葉に、鈴花は黙って俯き、宵は眉間に皺を寄せて視線を鈴花に向けた。どういうことだと目で問うている。だが鈴花は宵に視線を向けることはなく、茶杯に少し残るお茶に目を落としたままだ。
「郭昭様……ということは、陛下は玄家が何なのかご存知なのですね」
「玄の意味はご存知です」
鈴花は机に肘を置くと、額に手を当てた。指で額を触りながら考えをまとめていく。話が見えない宵が鈴花の襦の袖を引っ張るが、鈴花は応えなかった。
「なら、お父様は当然このことを知ってるわ……ならどうして」
「……私は、陛下は何か考えがあって身を隠されているような気がします。即位されてから仮面をお取りにならなかったのも、何か意味があるように思えるのです」
郭昭は眉をハの字にしており、そうは言っても不安はぬぐえないようだった。自分で身を隠しているのと、誰かに捕らわれているのでは大きく異なってしまう。そして鈴花は新たな事実を知ったことで、猜疑心がどんどん膨らんできた。根底が覆ったことで、分からないことが増えていく。
宵は一人だけ話についていけず、頬杖をついて行儀悪くお茶を飲みふてくされていた。それでも鈴花には宵にかまっている余裕はない。
(お父様はどうして私にそのことを言ってくれなかったのかしら。それに、身代わりになるために訓練されたなら、襲撃から逃れるくらいできたはず……何の意図があるの? なんだか気味が悪いわ)
自ら考えて動いていたはずなのに、誰かに操られているような。すでに蜘蛛の巣に絡め捕えられているような。目に見えないうすら寒さを感じる。
(お父様の情報は信じられないわね……陛下もご自身で身を隠されているならまだしも、捕らわれているならそれができるのなんて)
玄家には裏の顔がある。歴史に忘れられ、ごく一部のものしか知らない一面が。
(今はこれ以上考えてもしかたがないわ。郭昭様を味方につけられただけでも御の字よ)
鈴花は居住まいを正し、まっすぐ郭昭を見返す。今はただ進むしかない。
「教えてくださってありがとうございます……玄家の誇りにかけて、偽物を暴き必ず陛下をお救いしますわ」
「えぇ、こちらも朝廷内部に関する情報を流しますので、お役立てください」
鈴花はこくりと頷き、「ではこれで」と房室を後にした郭昭を見送る。彼の足取りに迷いはなく、勤めていた経験から景雲宮の構造は熟知しているのだろう。
(すぐに、春明と相談しないと)
鈴花は焦る気持ちを押さえつつ立ち上がった。宵が「おい」と声をかけるが、鈴花は見向きもしない。
「小鈴、ちょっとわかんねぇんだけど?」
その声は苛立っていて、立ち上がると鈴花の前に回り込んで進路を塞ぐ。目の前に立ちふさがられ、鈴花は迷惑そうに眉根を寄せた。
「今あなたに話せることは何もないわ。房室で大人しく待ってて」
鈴花は宵の右横をすり抜けると、「待てよ」と宵に腕を掴まれた。それでも鈴花は止まることなく、振り払って前に進む。その力が強くて宵は目を丸くした。
「黙って。今はそれどころじゃないの」
鋭い小刀のような視線を向けられ、宵の言葉は抑え込まれる。小さな体からは想像もできないような迫力があり、宵は初めて鈴花を怖いと思った。遠ざかっていく背中を見つめることしかできず、宵の舌打ちが暗くなってきた空へと吸い込まれていくだけである。
そして裙の裾を翻して自室へと向かう鈴花の表情は、険しく焦燥の色が濃い。
「……お父様は信じられないわ。そして宵も」
父が経営する妓楼で働いていた宵。その巡り合わせすら仕組まれたものではないかと疑ってしまう。鈴花は今までの父親とのやりとりを思い出しながら、考えを深めていく。心を閉ざし、思考の世界へと入る鈴花の表情には仄玄い影がさしていた。




