3 陛下にお目通りが叶いました
陽が落ち、石畳の過廊下を等間隔に吊るされた灯篭が照らしている。梅の香りがする夜に、衣擦れの音が吸い込まれた。
鈴花は明かりの少ない室内でも目を引くように、襦も裙も白っぽい色を選んだ。白が引き立つように襟や帯紐は濃い青で細かい花が刺繍されている。歩調に合わせて頭の上の銀歩揺が揺れ、他にも金や玉がついた簪がささっていた。春明は髪を全て結い上げて高髻にしたかったが、鈴花は肩がこるからといつも通り、上だけ耳の上で巻き上げて残りは後ろに流している。
(夜に出歩いたのは初めてだけど、ちょっと不気味ね)
後宮は建国当初から存在し、その長い歴史の中では不遇の中で死んでいった妃もいると聞く。鈴花は宮女たちがしていた怪談を聞いてしまい、院子の木や殿舎の影が気になってしかたがない。それは鈴花の後ろにつき従っている宮女の二人も同じなのか、落ち着きのない素振りで辺りに視線を配っていた。
「あれが天架宮です」
前に見えてきた宮は篝火で煌々と夜闇に照らし出され、朱塗りの柱が目を引いた。春明は落ち着き払っており、逆に鈴花は緊張で身が固くなってくる。
門の前に控えていた宮女が案内を引き継ぎ、鈴花たちは手の込んだ院子を抜けた先に案内される。そこは厅堂で、奥は一段上がっており帳が下ろされていた。その向こうに人影を見つけた鈴花は慌てて礼を取り顔を伏せる。おそらくこの先にいるのは皇帝、鳳翔月だろう。帳の手前に宦官が控えており、彼が高く通った声で鈴花の名を呼ぶ。
「玄鈴花、御前へ」
鈴花は宦官の手前まで進み出て、面を伏せたまま声がかかるのを待つ。すぐ先に皇帝がいると思うと心臓が口から飛び出しそうなくらい高鳴っていた。
(陛下のために、国のために尽くすと決めたのだもの)
その竜顔を見たいが、許可なく顔を上げることは許されない。
「面を」
ぼそりと小さな声が聞こえた。弱弱しく優しい声だ。鈴花は一瞬何を言われたのかわからず、宦官の方に目をやれば顔を上げるよう促された。
(どんな素敵なお方なのかしら……っ)
まずは口上を述べないと、と思いつつ顔を上げた鈴花は、ぐっと息を止め、腹筋に力を入れた。紗羅の帳が下がっているとはいえ、至近距離なら中は見える。
(待って、待って、待って!)
一瞬でも力を抜いたら吹き出しそうだ。いや、吹きだす寸前で無理矢理口を閉じたから、空気で頬が膨らんでいる。
(聞いてた、聞いてたけど!)
頭を上げた鈴花の視界に飛び込んできたのは、仮面だった。それも白地に穴が開いたようなものではない。子どもの落書きのように見える歪な目と口、何の冗談か頬紅まで描かれていて、酒宴の芸に使われるのかという出来だ。目と口の部分には細い隙間があるが、素顔を垣間見ることすらできない。
鈴花は頬にたまった空気を慎重に吐き出し、腹筋を総動員させて口上を述べた。
「玄家の娘、鈴花でございます。皇帝陛下の御代がとこしえに続くよう、玄家は身を捧げる所存でございます」
多少声が震えた。せっかく考え抜いた口上も、仮面の破壊力で最低限しか出てこなかった。鈴花は仮面を見ていられず、皇帝の首元へと視線を下げる。首筋には栗色の髪がかかっており、艶やかで柔らかそうなのが不出来な仮面のおかしさを引き立てた。
(もっと、ましな仮面あるでしょ!? まさか、そうやって妃を試してるの?)
鈴花は負けるものかとさらに腹筋に力をこめ、翔月を観察する。髪は肩より少し長いぐらいで、上を纏めて布で包んで残りを流している。冠をつけていないということは、私的な場ということなのだろう。
(お召し物も素敵なのに~!)
翔月は鳳凰の紋様が染められた紫色の袍に身を包み、刺繍に彩られた帯から下がる玉飾りも技巧が凝らされている。
鈴花が頭の中で早口にまくし立てていると、微かに声が聞こえた。
「下がってもよい」
やわらかく透明感のある声でそう言われ、鈴花は目を見開いて思わず視線を上げた。
(それだけ!? わざわざ呼び出しておいて、今まで放置していたことへの言葉かけくらいしなさいよ!)
鈴花は怒りを原動力に笑いを抑え込み、言ってやるわと口を開く。
「陛下、後宮はまだうら寂しく、華々は春が来るのを待ち望んでおります。ご高配を賜れればと……」
そう遠回しに後宮に来てねと伝えると、手前にいた宦官が一つ頷いた。どうやら皇帝直属のようで、彼にも思うところがあるのだろう。
「……春は必ず来る」
ぼそりと一言返って来て、会話が成り立ったと鈴花は少し感動する。少し前まで鈴花にとって皇帝など雲の上の人だった。それが目の前にいて言葉を交わせるのだ。そのことが嬉しくて、つい気になっていたことが口をついて出た。
「その、仮面はどなたの手の物ですか?」
「……え?」
その瞬間宦官が吹きだし、翔月は仮面に手を当てた。宦官は笑いをかみ殺そうとしているが、肩が震えている。衣擦れの音がし、翔月は顔を宦官の方へと向けた。主の言わんとすることを察した彼は、すっと笑いを引っ込めて背筋を伸ばすと穏やかな声で返答する。
「陛下の御作でございます」
まさかの皇帝自作の品で、鈴花は表情筋に最上の笑みを命じた。牡丹の花が開くような優雅な笑みを浮かべる。
「そうなんですね、とても素敵な品ですわ。子ども心が息づいているような……では、陛下のお姿を一日でも多く拝せることを祈って、本日はお暇致します」
そしてこれ以上墓穴を掘らないように、そそくさと退出した。後ろに控えていた春明が見えないようにわき腹をつついて来たので、この後お叱りがくるのだろう。外に出ると緊張が解け、ふぅと息を吐いた。
石畳の過廊を歩きながら、鈴花は短い対面を思い返す。
(ほんと、想像以上に変な人だわ……)
あの仮面の皇帝がこの国の柱であり、鈴花の夫である。妃嬪は皇帝に誠心誠意お仕えし、安らぎの場となり、果ては国母となることを目指す。
(たとえ皇帝がどんな人だろうが、玄家の娘として頑張るわよ!)
寵愛を受け、うまく玄家が扱っている品を気に入ってもらえれば、箔がつく。少しでも器用貧乏の状態を脱せないかと、鈴花は頭の中で考えを巡らせた。お渡りがあった時のために、玄家が手掛けているお茶やお菓子を用意しておこうと決めた鈴花だ。
(それに、あの仮面に驚かされたけれど、感じはよかったわね)
ほんの一刻にも満たない時間だったが、不思議と惹かれるものがあった。幼いころから国のために、皇帝のためにと育てられてきた鈴花だったので、会えたという感動も大きかった。
そして翌日、朝餉を済ませた鈴花のところに、皇帝からの使いと輿がやってきたのである。
先帝の後宮の規模を2000人としました。また変わるかもしれませんが、ひとまずたくさんいたとご承知ください<m(__)m> 2020.2.2