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08.灰谷さんは聴いている

「今日は少し来られるのが遅かったですね、先輩」


 いつものように第二書庫で「先輩」と食事を取っていた亜緒が、そう口にした。


 昼になると隣太郎が訪ねてきて二人でこの部屋に行き、食後にお手製のデザートをご馳走になるという生活がすっかり馴染んでしまい、本人は全く違和感を持たなくなっている。

 亜緒も友人と食べたい時があるだろう、と隣太郎は基本的に日を空けて尋ねてくるのだが、亜緒の方はデザートで餌付けされているため、最近は何となく隣太郎が来ない日は物足りなさを覚えていたりする。胃袋的な意味で。


「ああ、ちょっと人に会っててな」

「先輩のお友達ですか?」

「いや、知り合いというか、知り合ったというか……言い表すのは難しいな」

「はあ、そうですか……?」


 伊摩とは何度か顔を合わせたことはあったのだが、そのたびに口論をして終わっていたので、まともに会話が成立して自己紹介まで漕ぎ着けたのは今日が初めてだった。

 別れ際の彼女はかなりフレンドリーな雰囲気だったが、これまでの関係を思うと単純に友人であると言い切るのは無理があるだろう、と隣太郎は考えていた。


「今日はもう来られないのかと思ってました」

「いや、来るさ。せっかく作ったデザートを、無駄にするわけにはいかないからな」


 そう言いながら隣太郎は、弁当を片付けたテーブルの上で包みを開く。

 本日のデザートはストーカーの手作りマドレーヌ。味は四種類あり、数を食べても飽きさせないようになっている。

 こうして何度かお菓子作りをすることで、隣太郎の腕前は着実に向上していた。


「わあ! 今日も美味しそうですね、先輩!」

「ああ、美味しくできてると思う。好きなだけ食べてくれ」

「はい! いただきまーす!」


 相変わらずスイーツを前にすると、精神年齢が著しく低下する亜緒である。

 いまだに昼休みが終わって隣太郎と別れる頃には、自分の無邪気な痴態を思い出して懊悩していたりするのだが、一度たりともストーカー先輩からの誘いを断れた試しはない。

 彼女の中では「甘いものは、美味しい」が世の真理であり、免罪符なのだ。


 ちなみに隣太郎は、そんな彼女の心の動向を大体は察している。

 彼にとっては、亜緒が自分の作ったお菓子を美味しそうに食べてくれることも、その後に恥ずかしくなって照れる姿を晒すことも、等しくご褒美である。


 満面の笑みでマドレーヌを頬張る被害者。

 そんな彼女を見て、頬を緩める加害者。

 今日も今日とて、決して平和でないはずの関係である二人の間には、穏やかな時間が流れているのだった。




 ――そして、そんな雰囲気を味わわされている人間が、もう一人いた。


「笈掛くんったら、あんなに優しそうな声を出して……」


 薄暗い部屋の中で一人、灰谷 十和は呟いた。

 現在、彼女がいる写真部の部室はカーテンが閉め切られ、隙間から入り込むわずかな太陽光だけが室内を照らしている。


「私も彼に、あんな声で話しかけてもらいたいわ……」


 そんな暗がりの中で、彼女は部長用の席について独り言ちていた。

 物憂げな表情は、元の器量の良さも相まって、絵になりそうな美しさである。


 十和という少女は、紛れもなく美人だった。

 癖のある色素の薄めな髪を、低めの位置でポニーテールにしている。髪をまとめるスカーフをその日の気分で変えるのが、彼女なりのお洒落に対するこだわりだ。

 身長は伊摩と同じくらいなので、女子としてはやや高めだろう。

 ただし同じ身長でも伊摩がメリハリの利いたボディであるのに対し、十和の方は全体的に細身だ。まあ、瀬里に比べれば胸はある方だが。

 伊摩が目立つタイプの美人なのに対し、十和は静かな温室に咲く花のような、自然で目立たないのに気付けば目を離せない、そんな美しさを持っていた。


「でも笈掛くん、私のこと苦手そうなのよね……」


 整った眉をハの字の形にしながら、十和は嘆息した。


 そして思い出す。他人のことなど大して興味のなかった自分が、何故こうして隣太郎の声を離れた場所から聴くようになったのかを。




 元々、十和が写真部の部長になったことに、切実な理由などなかった。何だったら部長になどなりたくなかったし、そもそも写真部にも興味はなかったほどだ。


 この学校において、写真部というのは特別な部だった。

 十和は興味がなかったので聞いても覚えていないが、十年ほど前には有名なコンクールで何度か優勝した実績もあるらしい。

 偶然その頃、写真に対する熱意と才能がある生徒が多かったというだけなのだが、そこから著名なカメラマンになった者も何人かいるため、学校側としては栄誉ある写真部を廃部にしたくない。そんな思惑から、入部希望者が揃わない年は「幽霊部員でもいいから入部させる」という行為が暗黙の了解となっている。

 あくまで学校側が幽霊部員を募るのではなく、現部員が「部活動に参加しなくてもいい」という勧誘文句を使用することを黙認しているという形だが。


 そのため、いまだにこの学校の写真部は、在籍人数がそれなりに多い。

 ほとんどが幽霊部員で自前のカメラすら持っていないので、そんなものに意味があるのかと、十和としては疑問に思うのだが。

 そもそも十和自身が、撮影など碌にしない実質的な幽霊部長である。

 何故そんな人間が部長を務めているかと言えば、彼女の代には写真部への自発的な入部希望者が、一人もいなかったからだ。

 結局、幽霊部員を認めることで頭数だけはそれなりに集められ、わずかながらに活動していた先輩たちが卒業していった結果、在籍する幽霊部員の中でも成績優秀で素行に問題のない十和が、部長の座を引き受けることになった。


 もはや幽霊部員どころか幽霊部となった写真部だが、その部長職というのは非常に楽なものだ。

 要するに、今まで通り活動はしなくてもいいから部員数を維持して、写真部という入れ物だけを存続させればいい。

 そんな中身のない部活に価値はないだろうし、熱意ある新入部員など望むべくもないと十和は思うのだが、学校側も無理に活動をさせてもコンクール等で結果が出せないのは分かり切っているので、とりあえず看板だけ守れればいいという方針のようだ。


 なので十和も、適当に帰宅部の一年生に声をかけて、部員を集めたのだが……。


「貴方、帰宅部よね? 幽霊部員でいいから、籍だけ置かせてくれない?」

「俺ですか? まあ、部活に出なくていいなら構いませんが」


 そんな中で、笈掛 隣太郎に声をかけたのは偶然だった。

 学校側から秘密裏に伝えられた、部活に在籍していない新入生の情報。それを頼りに何人か声をかけやすそうな生徒をあたった際に、彼もその中の一人として選ばれたのだ。


「もし貴方が真面目に活動したいというなら、部長の座を譲るわよ?」

「いえ、結構です。でも籍を置くだけなら問題ありませんよ」


 最初、彼のことを「思ったより話しやすい子」だと、十和は思った。

 一年生に声をかける基準として、とりあえず乱暴そうだったり気の強そうな生徒は除外していたが、年下とはいえ男子相手ということで、多少の緊張はあった。

 しかし実際に話してみると、隣太郎とはとても気楽に会話ができた。

 あまり軽口を言わない十和が、つい冗談めいたことを口にしてしまうほどだ。


「笈掛くん。実は部室の整理をするよう、顧問の先生から言われてしまったの。申し訳ないのだけど、手伝ってくれる?」

「ええ、いいですよ。一応、俺も写真部員ですからね」


 何となく、このまま幽霊部長と部員の関係で終わるのは嫌だと思った十和は、その後も適当な理由で彼を呼び出すようになった。

 当人には「他の幽霊部員にも声をかけているが、誰も来てくれない」と説明していたが、当然ながら実際に呼んだのは隣太郎ただ一人である。

 一応、たまに掃除くらいはしておいてほしいと、やはりやる気のない顧問からは頼まれていたので、何もかも嘘だったというわけではない。


「やっぱり男の子がいると違うわね。逞しくて素敵よ? 笈掛くん」

「あまり褒められると、むず痒いですね。先輩」


 それほど多くはなかったが、一緒に過ごす時間を持つ度に、十和は隣太郎との会話に心地よさを感じていた。

 最初は軽い冗談が飛び出す程度だったはずが、少しきわどい性的アピールのような言葉が出るようになっていった。

 自分はもっとお堅くて、異性どころか他人への興味が薄い人間だと思っていた十和は、心境や言動の変化に違和感を覚えつつも、彼との会話が楽しくてそれどころではない。


 結果、気付いた頃には隣太郎の方が、少しずつ彼女の変化に引いていた。


「笈掛くん、たまには部室に来ない? ゆっくりお話ししたいの」

「すみません。今日はやることがあるので」


 十和の言動に苦手意識を覚えるようになった隣太郎は、徐々に写真部の部室から遠ざかって行った。

 流石に上級生の誘いを全て断るのも失礼だと思い、特に頼まれ事があった時は応じるようにしていたが、それでも確実に断る頻度は増えていき、やがて十和の方も自分が避けられていることに気付く。

 年が変わって四月になってからは、十和は当然知らなかったが隣太郎が亜緒に惚れてしまい、彼女とお近付きになるために行動をしていたので、いよいよ写真部に顔を出すことは、ほとんどなくなっていた。


「はあ……笈掛くん、全然来てくれないな。一緒にお話ししたいのに……」


 自分以外に誰もいない部室で、最近はめっきり来なくなった後輩のことを想いつつ、十和は嘆息した。

 彼と話したい。彼の声が聴きたい。彼に自分のことを呼んでほしい。

 そんなことをつらつらと考えていると、ある一つの事実に思い当たった。


 ――私って、笈掛くんの声が好きなんだ。


 今までも彼と会話をすると、心地よい気分になっているのは自覚していた。

 それについて自分は彼のことが好きで、好きな相手と話していることに対する高揚感だと思っていたのだが、厳密には彼の「声」そのものに昂ぶりを覚えていたのだ。


 ――笈掛くんの声が聴きたい。


 自分の本質に気付いた十和は、今までとは似て非なる欲望を持ち始めた。

 直接、彼と会話ができなくてもいい。ただ声が聴けたら、それでいい。

 それは純粋な恋とは異なる、少し歪んだ欲望だった。


 そして彼女は、欲望のままに行動を開始した。




「はあ……本当にいい声。できたら直接話したいけど、()()()越しでも最高ね」


 薄暗い部室でイヤホンを耳に着けながら、うっとりとした顔で十和は呟いた。


 自分の欲を抑えきれなくなった結果、十和は隣太郎を盗聴することにした。

 バッテリーやバレやすさ、回収のしやすさの問題もあるので、彼自身に仕掛けるのではなく、校内での彼の活動範囲にいくつかの盗聴器を仕掛けている。

 現在、彼が想い人と話している第二書庫も、その範疇だ。


「それでも、やっぱり生がいいわ。いつか十和って呼んでほしい……」


 正直、隣太郎が一年生の女子に現を抜かしているのは、別に構わない。

 十和は彼に対して好意的な感情を持ってはいるが、それ以上に彼の声に対する好意が強すぎて、恋人関係になりたいという欲求があまり湧かないのだ。


 だが恋愛感情とは別の意味で、彼とそういった関係になりたい理由がある。


「恋人だったら、名前で呼んでくれるわよね。それに普段とは違う、甘い声なんかも聴けるかも……。ベッドの中では、また違う声が聴けたりして……」


 彼女の目的。それはいまだ聴いたことのない、隣太郎の声を聴くことである。

 そのためには自分が彼と特別な関係になるのが、一番手っ取り早い。

 隣太郎の自宅を盗聴するという手もあるが、今でさえ犯罪すれすれなのに不法侵入まですると言い訳が利かなくなる。それに歪んだ形とはいえ彼に対して好意はあるので、他の女性への睦言を聴くというのも面白くない。声自体には興奮するだろうが。


「やっぱり、彼ともっと仲良くなりたいわ」


 どこかすっきりした顔で、十和は自分の決意を口にした。


 そんな異常事態には気付くはずもなく、イヤホンの向こう側では隣太郎と亜緒が、一聞すると仲睦まじい会話を繰り広げているのだった。

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