07.東風原さんは名前を知りたい
「それは酷いね……」
「でしょ!? アイツ、ほんとにムカつくったらないわ!」
自分が今まさに苛立っている理由に理解を示され、伊摩は気を良くした。
友人である瀬里から事情を訊かれ、最初は不承不承という感じで話し始めたのだが、語っているうちに怒りがぶり返して熱弁に変わり、さらに揉めた相手が酷い人間であるという同意を得られたことで、すっかり語り口も軽くなっている。
実はかなり自分の都合のいいように事情を話しているのだが、伊摩としては意図的に誇張しているのではなく本気で自分が被害者だと思っていたりする。
「短期間に二回も同じ相手にぶつかるなんて、普通にわざとに決まってるし。図星突かれたら、こっちの悪口言ってごまかすとか、マジありあえない」
この言い草である。
自分の容姿や男性人気に自信のある彼女にとって、件の男子生徒――隣太郎は自分への下心でぶつかってきた不届き者であると確定していた。
そもそも現実には一回目はぶつかりそうになって肩を掴まれ、二回目は階段の踊り場で鉢合わせただけなのだが、瀬里への説明の時点で二回とも相手の過失で伊摩に衝突し、さらに二回目は口汚く彼女を罵って去って行ったという完全に別のエピソードと化している。
実情を知る人間が自分しかいないのをいいことに、言いたい放題だった。
「そういうのって先生とかに相談して、対応してもらった方がいいんじゃない?」
「え? あー、どうだろ。そこまでしなくても大丈夫じゃないかな……?」
気持ちよく自身の被害者ぶりを語っていた伊摩だったが、瀬里から解決のアドバイスを提示されると、途端に煮え切らない態度を見せた。
さっきまでは本気で自分は被害者だと錯覚していたものの、教師を巻き込むという具体的な方針を聞いて、調子に乗って話を盛り過ぎたことに、ようやく気付いたのだ。
「伊摩、本当に大丈夫なの? 無理に抱え込まない方がいいと思うけど……」
「大丈夫! 大丈夫だから! ほんとに心配しないでいいよ!」
本気で自分のことを心配してくれている瀬里に、今更「実は話盛ってました」などと言えるはずがない。
かといって悪いのはお互い様――いや、自分が3で相手が7くらいだろうか? まあ、そんな感じの状況で、教師が干渉して相手が停学なり厳重注意なり受けることになったとしたら、流石の伊摩も罪悪感を覚える。
「それより瀬里! 久々に一緒に帰れるんだから、どっか寄ってこうよ!」
「まあ、伊摩が大丈夫って言うなら……それじゃあ、どこ行く?」
「あそこの公園のクレープ、最近新作が出たらしいけど――」
こうして伊摩と隣太郎の出会いは、相手が彼だと気付かれないまま、かなり歪曲した形で瀬里に伝わったのだった。
それから数日後の昼休み、伊摩は気まぐれに購買のパンが食べたいと思い立ち、一人で廊下を歩いていた。
一緒に昼を過ごすメンバーのうち数人は同行しようかと申し出てくれたのだが、今日は自分以外の全員が弁当持参なので、決して近くはない購買に付き合わせるのも悪いと思い、断って一人で教室を出たのだった。
伊摩は基本的に友人なりと複数人で行動するタイプだが、決して一人が嫌いというわけでもない。
なので購買に一人で向かうという現在の状況にも不満はなく、どんなパンがあるのだろうと心を躍らせていたのだが……
「うっ……アンタ……」
「ん? 何だ、また君か」
これぞフラグと言うべきか。またもや隣太郎に出くわしてしまった。
見れば相手は片手に弁当箱が入っているであろう袋を携えていて、もう一方の手にはシンプルなラッピングをされた内容不明の袋がある。
これから誰かと食事の予定なのだろうかと、伊摩は推測した。
「お互い名前も知らないのに、君とは何だかよく会うな」
「まあ、そうね……」
伊摩としては腹の立つ相手であると同時に、本人の与り知らぬところで好き勝手に言ってしまったという、負い目のある相手でもある。
そんな心境だったせいか、過去二回に比べて態度はそこまで刺々しくない。
一方で隣太郎は、またぞろ罵倒や嫌みが飛んでくるのではと内心で身構えていたので、切れの悪い返答に肩透かしを食らった気分になっていた。
「今日はずいぶん大人しいな。何かあったのか?」
「何よ。いつもぎゃあぎゃあ騒いでるみたいに言わないでよね」
「いや、まあな」
騒いでいただろうと言いたい隣太郎だが、今日の彼女は以前より大人しいとはいえ、流石にそれを言ったら騒ぎ出すだろうと思い口を結んだ。
中途半端な隣太郎の返事は気にならなかったのか、伊摩は特にリアクションを見せず、別件について尋ね始める。
「ところでアンタって、ほんとにあたしのこと知らないわけ?」
東風原 伊摩は、今年の四月に転入してきた二年生。隣太郎とは同学年である。
転入生という時点で話題性はあったのだが、加えて彼女は目立つタイプの美人であり、転校前から読者モデルとして何度かファッション誌のページを飾った経験があった。
そんな客観的にも魅力溢れる女子が転入してきたということで、男女問わず、どちらかといえば男子を中心に、早くも校内では有名人となっていた。
「知らないな。前回とその前の件以外で、会ったことがあるのか?」
そんな伊摩のことを、隣太郎は全く知らなかった。
それもそのはずで、今年の四月といえば彼にとっては一つ下の後輩・亜緒に恋をし始めた時期である。
元々、亜緒に出会うまでは色恋と無縁だった隣太郎にとって、別のクラスの美人だろうと転入生だろうと、一切興味はない。
さらにその後は亜緒と親しくなるのに夢中だったので、伊摩の顔も話題も何ひとつ知らないまま、転入から数か月が経過していた。
「や、ないけど。マジで知らないんだ……」
「ないなら、そりゃ知らないだろう」
妙な反応をする伊摩の真意が分からず、困惑する隣太郎。
とはいえ彼にとって昼休みの主な目的は亜緒と一緒に過ごす、もしくは亜緒を遠くから見守ることである。
これ以上、ここで彼女と問答をしていても埒が明かないだろうと思い、今回もさっさと会話を終わらせて亜緒の元へ向かおうと行動を始めた。
「それじゃあ、俺は用があるから」
「ちょ、待ちなさいって!」
「……何だ? 俺に何か用があるのか?」
立ち去る自分を止めようとする伊摩に、隣太郎は訝し気な目を向けた。
これまでも目の前の少女は、自分が立ち去ろうとすると待つように言ってきたが、それは文句を言い足りないからだろうと思っていた。
しかし今回は別に口論をしているわけではないし、お互いに冷静な状態で話ができている。
この上で何か話すことがあっただろうかと、隣太郎は内心で首を傾げた。
「えっと、その……名前! 名前教えなさいよ」
「名前? 俺のか?」
いきなり「名前を教えろ」と言われて、ますます首を傾げる隣太郎。もちろん胸中での話だが、既に彼の心の首は真横に倒れているに違いない。
そんな首倒しに自覚なく挑戦している伊摩だが、彼女の方も勢い任せに隣太郎を呼び止め、その勢いのまま名前を尋ねてしまったので、自分が何をしたいのか分かっていなかったりする。
ただ明確なのは、目の前にいる男子に興味があるということだけだ。恋愛や怒りという強烈なものではなく、とりあえずこれっきりで終わりにしたくないという意味で。
「そうよ、未だにアンタの名前とか知らないし。とりあえず、あたしは東風原 伊摩ね。今年の四月からの転入生。多分、同じ二年生よね?」
「ああ、俺も二年だ。あーっと、名前は笈掛 隣太郎だな」
唐突な自己紹介タイムに面食らった隣太郎だが、相手から名乗られれば名乗り返すのが礼儀だろうと、素直に返答する。
伊摩の方から先に名乗った点については、かなり好印象であった。
三回目の邂逅にして、隣太郎の中で彼女の印象はそれなりに改善されていた。
「笈掛 隣太郎……うん、隣太郎ね。それで隣太郎、アンタって」
「すまない、東風原さん。君と話したくないわけじゃないんだが、今日は他の人と昼を食べることにしてるんだ。これ以上は時間がなくなる」
「え? あ、そうなんだ。っていうか、あたしもパン買いたいんだった! もういいの売れちゃったかな……」
このまま和やかに歓談……となりそうな雰囲気だったが、お互いに予定があったことを思い出して中断された。
ちなみに隣太郎が「他の人と食べることにしている」という微妙な言い回しをした点について、伊摩は特に疑問を覚えなかったらしい。覚えていたら折角よくなった両者の間の雰囲気が、再び最悪になっていただろう。
「まだ大丈夫だろう。基本はボリュームのあるパンが売れるからな。デザート系のパンなら、そこまで心配しなくても売り切れないと思うぞ」
「そうなの? 良かった。ありがとね、隣太郎」
何となくデザート系が目当てだろうと当たりを付けた隣太郎だったが、無事に的中したらしい。今まで見たこともない、にこやかな表情で伊摩に礼を言われた。
今までは目付きがきつい美人という印象を彼女に抱いていた隣太郎だが、こうして笑顔になると意外に人懐っこく、最初に感じた気位の高そうな印象とは全く異なる。
伊摩の方も、隣太郎に対して妙に自分に刺々しい男子、という被害者的な思考からきた印象があったが、今となっては校内の有名人である自分に変な目を向けない、話しやすい雰囲気の男子であると感じ始めていた。
「それじゃ、また今度ゆっくり話しましょ。隣太郎」
「ああ、またな。東風原さん」
こうして隣太郎と伊摩の三回目の邂逅は、無事に幕を下ろした。
しかし忘れてはいけない。笈掛 隣太郎は、雨葦 亜緒のストーカーであることを。
ストーカーとモデル少女。
二人の関係は、まだここから拗れていくのである。