05.梔さんは見守りたい
図書委員である亜緒は読書が大好きな、いわゆる『本の虫』である。
彼女は本の内容だけでなくインクや紙の質感も好きなタイプで、本に囲まれるだけでも幸せという性質から、図書室の当番を積極的に買って出ていた。
第二書庫の私的な利用を見逃されているのも、彼女の仕事ぶりに対する評価があってこそだ。
そんな亜緒は、今日も今日とて大好きな本に囲まれて、充実した放課後を過ごしていた。
図書室は本の匂いに包まれていて、暇があれば好き放題に本も読める。
彼女にとっては、まさに天国のような空間である。
そんな天国に紛れ込んだ異物――ストーカーがいた。
言うまでもないが、隣太郎のことである。
彼は亜緒の容姿だけでなく内面も含めて非常にタイプで、彼女を眺めているだけでも幸せという性質から、図書室に頻繁に出入りしていた。
こんな犯行が見逃されているのも、高校生という身分があってこそだ。
そんな隣太郎は、今日も今日とて愛する亜緒を眺めて、充実した放課後を過ごしていた。
図書室での亜緒は機嫌が良く、好き放題にその顔を眺められる。
彼にとっては、まさに天国のような空間である。
ストーカーとその被害者が揃って満足しているという、謎の空間が出来上がっていた。
そんな意味不明な二人の様子を窺う人物が、もう一人――。
(トナリくんってば、さっきからあの子ばっかり見て……。あれじゃあ、いつか本当に捕まっちゃう……!)
隣太郎のクラスメイトである、瀬里だった。
彼女はストーカーを自称するという奇行に走った友人を心配して、数日前から動向を監視しているのだ。
隣太郎が机にかけて本を読む振りをしながら、堂々と亜緒を観察しているのに対して、瀬里は本棚の陰に隠れて巧妙に隣太郎を観察していた。
手鏡を用いて、同じ方向に視線を向け続けないという徹底ぶりである。
どうみても彼女の方が隣太郎よりも気合の入ったストーカーなのだが、割と迂闊なところのある彼女は現在の自分の姿に疑問を持ってはいなかった。
(でも本当に見てるだけなんだよね。まあ、ストーカーって割とそういうものなのかもしれないけど)
数日間の観察の結果、隣太郎が亜緒に対して不埒な真似をしようと企んでいるわけではないと、瀬里は確信していた。
その点は安心しているのだが、それはそれで隣太郎に注意がしづらい。
図書室に毎日のように通うような生徒なら、彼以外にもそれなりにいるのだ。それを理由に彼の行動を改めさせるのは、少し難しいだろう。
(あの子もあの子だよね……。トナリくんが自分のストーキングしてるって知ってるわけでしょ? 絶対おかしい……!)
そして瀬里の中では、亜緒に対する誤解も深まっていた。
隣太郎からストーキング宣言を受け、実際にこうして図書室まで押しかけられているのに拒絶せず、それどころか昼食まで一緒に取るという態度は、瀬里には理解し難いものだった。
よもや純朴な隣太郎を騙そうとしている悪女なのでは……と勘繰る瀬里だが、当然ながら亜緒にそんな意図はない。
単に勢いに流されやすく、それ以上にスイーツに目がないだけである。
仮に瀬里がその事実を知ったとしても、それはそれで理解し難いだろうが。
(それにしても……トナリくんって、ああいう子がタイプなのかな)
瀬里は隣太郎だけでなく、彼が想いを寄せる亜緒のことも観察していく。
雨葦 亜緒という少女は、ハッキリ言ってしまえば割と地味なタイプだ。
ストレートの黒髪を背中まで伸ばし、制服は実に真面目に着こなしている。
赤いフレームの眼鏡と、名字にちなんだ開いた傘の形をしたヘアピンが特徴と言えるが、花の女子高生としては飾り気の少ない方だろう。
身長も平均よりは低く、小柄な体格である。
ただし胸は身長の割に大きい。具体的に言うと、瀬里より大きい。
(あんまり大人っぽいタイプじゃないなあ。……胸は私よりあるけど)
対して瀬里はどうか言えば、こちらも決して派手なタイプではない。
高校進学前に軽く染めた茶髪の分、亜緒よりは洒落っ気があるように見えるが、肩までのミディアムヘアは目立つほどの特徴とは言い難い。
顔立ちはそれなりに整っているものの、それを言うなら亜緒も同様である。
そもそも瀬里には校内でも屈指の美人である友人がいるので、容姿についてはあまり自信がある方ではなかった。
ついでに言うと、女子高生の平均的な身長に対して胸はあまりない。具体的に言うと、亜緒より小さい。
妙な敗北感を覚えてしまう瀬里であった。
(やっぱり胸かな……? 仮に胸じゃなかったとしても、あの子と私じゃタイプが違い過ぎて参考にならないし……)
改めて自分と亜緒を見比べて、瀬里は悩んだ。
自分と亜緒ではタイプが違い過ぎる。仮に隣太郎が亜緒の容姿に惹かれていた場合、どうやって自分がそれに近付ければ――。
「って違うし!」
そこまで考えたところで、思わず瀬里は叫んでしまった。
(なんなの、どうやって近付ければって!? それじゃあ、私がトナリくんのことが好きで、彼の好みに近付きたいみたいじゃないの!? わ、私はトナリくんが友達として心配なだけで、別に好きとかそういうのじゃ――)
「あのー」
「ひゃわっ!?」
唐突に真横から声をかけられて、瀬里は再び声を上げた。
ドキドキしながら声の方を向くと、そこにいたのは――。
「あまっ……」
「あま?」
先程まで瀬里が熱心に観察していた、雨葦 亜緒その人だった。
咄嗟に彼女の名字を呼びかけたが、初対面であることを思い出して口を噤む。
亜緒は校内で有名人でも何でもないので、学年すら違う瀬里が名前を知っているのは不自然だろう。
だが途中まで声が出かかってしまっていたので、そこだけは誤魔化す必要があった。
「あ、あまりに本が多くて、どれがいいやら迷っちゃうよねー? あはは」
「はあ……本をお選びですか? 何やら唸っていたり大きな声を上げていたので、お困りかと思ったんですが……」
「そ、そうなのよ。ごめんね? 無意識だったんだけど、うるさくしちゃったかな?」
あまりに拙い瀬里の演技だったが、幸い亜緒もチョロい流されガールなので、あまり疑問は持たなかったようだ。
「いえ、何事もないのなら良かったです。それより本を選ぶのにお困りなら、私がご相談に乗りますよ。これでも本は好きでして、全部とは言いませんがこの図書室の本なら、それなりに把握していますから」
らしくもなく得意げな顔で、亜緒は瀬里に提案した。
瀬里は当然知らないが、本好きの亜緒は司書の仕事に憧れを抱いており、本の案内をするという司書らしい仕事が出来ると、テンションが上がっているのだ。
澄まし顔の下では、どんな本をオススメしようかと、ウキウキで考えていた。
「えーっと、そうね……」
一方で瀬里は大いに焦っていた。
亜緒に見つかったのは予想外ではあるが、まだいい。
しかし自分がここにいることを隣太郎に知られると、今後の監視に差し支える。
今日だけなら「図書室に用があった」と言えば誤魔化せるだろうが、出来ることなら自分が図書室に来るというイメージを持たれない方が都合がいい。
そういう意味で言うと、ここで亜緒に本の案内をされるのはマズい。
単純に亜緒と一緒にいるだけで隣太郎に見つかる可能性が高くなるし、案内された本を借りるなどという話になれば、受付まで行く必要が出てくる。
亜緒と一緒に受付に行けば、間違いなく隣太郎の目に留まってしまうだろう。
なので、この場はどうやっても逃げ出したいのだが……。
(だ、ダメ……! 何も言い訳が思い付かない……!)
残念なことに、瀬里はとにかくアドリブに弱かった。
学業の成績は良好で頭の回転も遅くはないのだが、どうにも間が悪いのだ。
当人は自覚していないが、微妙に思い込みが強いというのも原因である。
そんなわけで、瀬里は窮地を迎えていた。
実際は言うほどピンチでもないのだが、彼女の中ではここで隣太郎にバレたら一巻の終わりという認識にすり替わっている。
焦って考えがまとまらず、より焦るという泥沼に嵌まっていた。
なおこの泥沼は、瀬里が勝手に突っ込んだものであることは言うまでもない。
「あの、大丈夫ですか? もしかして、どこか調子が悪いのでは?」
「そ、そんなことないよ? 私は元気です」
「いえ、ちょっとそうは見えないんですけど……」
焦るあまりに瀬里は言動が怪しくなり、ついに節穴の亜緒にすら怪しまれる。
もはやここまでかと諦めかけた、その時――。
瀬里のスマホが、ポケットの中で小さく振動した。
普段なら気付かなくても不思議ではないその振動に、この状況で瀬里がしっかりと気付けたのは、ある意味で奇跡と言えるだろう。
それを切っ掛けに瀬里の動揺は収まり、同時に打開策が思い浮かんだ。
「ごめんなさい。実は友達と待ち合わせをしていて、暇潰しに本でも読もうと思ってたの。ちょうど連絡が入ったから、私はもう行かないと」
瀬里は制服のポケットからスマホを取り出して、画面を確認する振りをした。
実際は着信内容など見ている暇はないが、亜緒にそう思わせられれば十分だ。
「そうでしたか……。それは差し出がましい真似をしました」
「ごめんね。せっかく案内してくれようとしたのに」
「いえ、お気になさらず。また時間がある時に、是非お越しください」
「うん、そうするね」
こうして瀬里は、窮地を切り抜けたのだった。
相手が亜緒だったからこそ誤魔化せたのだが、瀬里は自分の演技も満更ではないと、内心でほくそ笑んでいた。
ともあれ喜んでばかりはいられない。
隣太郎に見つかる前に逃げ出さなくてはと、瀬里は足早に図書室を出た。
そして――。
(梔……最近よく図書室に来てるな。読書ブームなのか?)
そんな瀬里の背中を密かに見つめる、隣太郎の姿があった。
瀬里は彼にバレていないつもりだったが、そこはストーカー初心者。
監視を始めた最初の頃に、一度バレていたのである。一度バレたら次も見つかりやすくなるというのは、瀬里自身が想像した通りだ。
ストーカーをストーキングする少女、梔 瀬里。
彼女の進む道は長く、そして見事に拗れていた。