42.少女たちは彼を追いかけ続ける
九月のある日。夏の頃よりも更に赤く染まった夕暮れの図書室に、大小二つの影が伸びていた。
室内には影の主人たち以外の姿はなく、それはつまり年頃の男女が二人きりで向かい合っていることを意味している。
向かい合うこと数分、どちらもきっと同じ気持ちで心拍数を上げ、喉の渇きを覚えていた。
大きい方の影の主人――笈掛 隣太郎は、自分の想いが実ることを期待していた。
目の前にいる少女、小さな影の主人である雨葦 亜緒に惚れ込んだ今年の四月から、隣太郎はずっと彼女を好きであり続けてきのだから、当然だ。
ここに至るまでの間、何の因果か複数の少女たちに好意を持たれ、隣太郎自身も彼女たちの亜緒とは違った魅力に惹かれる部分はあったのだが、それでも亜緒への気持ちは最後まで揺らぐことはなかった。
むしろ六人で過ごした日々を経て、彼女への想いは前に告白したあの日よりも、ずっと深くなっている自信がある。
だが今回の隣太郎は、自らの想いを告白する側ではない。
目の前にいる亜緒に呼び出され、こうして彼女に振られた場所に再び立っているのだ。
亜緒は真っ赤な顔で俯いていたが、やがて意を決して万感の想いを口にした。
「トナリ先輩……私、先輩のことが好きです」
それは隣太郎があの夏の日からずっと、心の底から聞きたかったセリフだった。
「一度あんな風にお断りしておいて、身勝手なことを言っていると思われるかもしれません。だけど今の私は、間違いなくトナリ先輩が好きなんです。本当はもっと前から好きで、でもなかなか言えなくて……」
どこか切実さを感じさせる表情で、亜緒は自分の想いを告げた。
それは今まで隣太郎のことを「ストーカー」として(本人の認識では)突き放してきた後ろめたさの表れであり、同時に自分よりも魅力的であろう少女たちに勝ちたいという強い思いの表れでもあった。
一方の隣太郎は、喜びと同時に胸の痛みを覚えていた。
亜緒と想いが通じ合ったことは、天にも昇りそうなほどに嬉しい。
しかし四人の少女の傷ついた顔と、その時の気持ちも思い出してしまう。
自分の告白になかなか答えを返さない隣太郎に、亜緒は怪訝な顔をした。
「……トナリ先輩? どうかしましたか?」
「あ……いや、何でもない」
亜緒に声をかけられた隣太郎は、自分の中の迷いを払うように頭を振った。
――いまさら後戻りなど出来ないのに、何を迷っているんだ、俺は。
隣太郎は、自分が一瞬でも迷ったことを恥じた。
四人の気持ちを確かめた上で、それでも亜緒が好きだと言い切ったはずだ。
そして彼女たちにもそれを告げて、自ら退路を断った上でここに来たのだ。
たとえ亜緒と結ばれることで、大切になった何かが終わってしまうとしても――あの六人で過ごした日々が二度と戻らないとしても、それでも隣太郎は亜緒を好きであり続けると決めたはずだ。
だから――。
「俺も……亜緒が好きだ。四月に君の笑顔を見た日から、ずっと。いや……あの時よりも、もっと君を好きになってる」
決して小さくない心の傷を敢えて無視して、隣太郎は亜緒の告白に答えた。
そしておどけるように、ふと思いついた言葉を口にする。
「なんだったら、結婚してもいいくらいだ」
「……はい?」
唐突に出てきた「結婚」という言葉に、亜緒は間の抜けた声を漏らした。
しかし、その言葉が意味するところに思い至ると、くすくすと笑い始める。
「そ、そういえばトナリ先輩、最初に言ってましたね……私に『結婚してくれ!』って。いきなり何を言うのかと思ってました」
「悪かったな。告白するのなんて生まれて初めてで、緊張してたんだ」
「トナリ先輩も緊張するんですね……ちょっと意外です」
亜緒はずっと隣太郎のことを、真っ直ぐでブレない人間だと思っていた。
自分みたいな平凡な女子を好きになり、周りにもっと綺麗な女性が増えているというのに、飽きずに亜緒のことを追いかけ続ける、真っ直ぐな変人だと。
だけど、それは違った。
隣太郎は変わり者ではあるが、あくまで普通の人間なのだ。
普通の人間だから自分のような平凡な女子を好きになり、普通の人間なのに最後まで他の綺麗な女子ではなく自分を選んでくれた。
あの人たちに心を奪われなかったなんて事、あるはずがないのに。
ひとしきり笑った後、隣太郎の顔を見上げながら亜緒は微笑んだ。
自分を選んでくれた彼に、ありったけの想いを伝えるために。
「いいですよ。しましょうか、結婚」
「……は?」
今度は隣太郎の方が、呆けた声を出す番だった、
隣太郎とて亜緒と結婚したいくらいに好きという気持ちはあるが、あくまで以前の告白で口が滑って出た言葉をなぞっただけなのだ。
まさか本気で結婚まで話が進むとは、隣太郎も想像していなかった。
「何ですか。私とは結婚したくないって言うんですか?」
「い、いや、出来るならしたいが……」
亜緒に軽く睨まれて、隣太郎は少し狼狽える。
心にもないことを言ったつもりはないが、実際のところすぐに結婚するのは無理だろう。お互いの親が認めないだろうし、そもそも年齢の問題もある。
「ああ、でもトナリ先輩は十八歳未満なので、まだ結婚は無理ですね。仕方ありません、大学進学のタイミングにしましょうか。それなら在学中に名字が変わるより、違和感は少ないでしょうし」
「いや、どうやっても違和感はあると思うんだが」
「その辺りは、追々話していきましょうか」
どこまで本気か分からない顔で、亜緒は頷く。
ぶっちゃけてしまうと、そこそこ本気で彼女は隣太郎と結婚する気である。
流石に今すぐは無理だと分かっているし、大学進学と同時というのも半分は冗談なのだが……半分は本気の時点で、相当浮かれていることが窺える。
そんな浮かれ気分の亜緒は、隣太郎を真っ直ぐに見つめながら言った。
「結婚はまだ無理ですけど……誓いのキスでもしてみましょうか」
「え……いいのか? さっき付き合い始めたばかりだぞ」
「実際はもっと前から両想いだったんですから、熟練カップルみたいなものです。むしろキスするのが遅かったくらいかと」
「……同行ストーキングとか言ってたくせに」
誰のせいでキスも出来ない関係だったのかと、隣太郎は冷たい視線を送る。
しかし、そんな彼の視線を、亜緒は涼しい顔で受け流した。
「そんなの知りません。……私は甘いものが好きですから、とびきり甘いキスでお願いしますね、トナリ先輩」
「ファーストキスはレモンの味って言うけどな」
「そこは先輩の愛で、どうにか甘くして下さい」
かなり無茶なことを言う亜緒だが、彼女が当たり前のように「愛」という言葉を口にしてくれたのが、隣太郎には堪らなく嬉しかった。
大切なものと引き換えではあったが、ようやく彼の愛は亜緒に届いたのだ。
「眼鏡、外さなくてもいいのか?」
「……これから何度もするんですから、付けたままでも出来るように慣れた方がいいと思います」
「そうか」
思わず頬を緩めながら、隣太郎は亜緒の両肩に手を置いた。
これからは何度でも彼女とキスが出来る。
そしてこれからするキスが、その最初の一回目なのだ。
「トナリ先輩、誓いますか?」
隣太郎の顔を見つめたまま、亜緒はそんな言葉を呟いた。
その顔が真っ赤に見えているのは、きっと夕日のせいだけではないだろう。
「……何をだ?」
「色々です。先輩と私の、これからの色々なこと」
ずいぶんと抽象的な説明だったが、隣太郎は特に疑問を覚えなかった。
きっと亜緒自身も、今自分が感じている気持ちの全てを説明できないのだろう。
そうだとしても構わないと、隣太郎は思った。
亜緒と一緒なら――彼女のためなら、何だって誓ってやる。
そんな気持ちで、彼は頷いた。
「分かった。誓うよ、亜緒」
「……そうですか。私も誓います、トナリ先輩」
結局、最後まで何についてか分からないまま、二人は誓い合った。
亜緒の答えを聞いた隣太郎は、身をかがめて彼女に顔を近付ける。
亜緒の方も隣太郎の顔を見上げた角度のまま、そっと目を閉じた。
二つの影は今、ようやく一つに重なった。
初めてのキスを済ませた隣太郎と亜緒は、並び歩いて学校を出ようとしていた。
互いの手は繋がれた状態で、誰が見ても二人が特別な関係であると分かる。
そんな二人は、校門の傍に見慣れた顔が揃っていることに気付いた。
「みんな……」
「あーあ、上手くいっちゃったみたいね、二人とも」
残念そうに……しかし笑顔でそう言ったのは伊摩だった。
彼女だけではない。他の三人もそこにいて、笑顔で隣太郎たちを見ている。
「何ですか、伊摩先輩。『上手くいっちゃった』って」
「まあ、私たちにとっては『いっちゃった』で間違いないんじゃないかな?」
伊摩の言葉に不満げな顔を見せる亜緒に、苦笑交じりに返したのは瀬里だった。
その横には十和と翠もいて、隣太郎たちに笑顔を向けている。
「リン兄! 亜緒と別れたくなったら、私にすぐ言ってね!」
「ふふっ、もちろん私でもいいわよ? 何だったら別れなくても、たまに遊んでくれるだけでも……」
「おいおい……」
とんでもないことを言い出した二人に、思わず隣太郎は閉口する。
亜緒と別れるなら……という翠の言葉が縁起でもないのは当然だが、十和の方は完全に浮気を持ちかけているので、かなり危険な発言だった。
しかもそんな二人の言葉に、伊摩と瀬里も便乗してくる。
「アンタたち、なに抜け駆けしようとしてんのよ。亜緒と別れたら、今度はあたしと付き合うに決まってるでしょ」
「いやいや、決まってないからね? トナリくん、私も全然OKだよ!」
「OKじゃありませんよ、まったくもう……!」
碌でもない話題で盛り上がる四人に、膨れた顔を見せる亜緒。
以前の亜緒なら、ここで強気の発言など出来なかっただろうが、他ならぬ目の前の四人に鍛え上げられた彼女は、隣太郎に関しては一歩も引かない度胸があった。
「トナリ先輩には、私という彼女が出来たんですから。皆さん、変な真似をするのは止めて下さいね?」
自分こそが隣太郎の彼女であると、高らかに宣言する亜緒。
自信が持てずに悩んでいた彼女を知る他のメンバーは、その成長ぶりに思わず笑顔を零した。
そんな彼女の前に立ち、伊摩が不敵な笑顔で語りかける。
「言うようになったわね、亜緒――でも嫌よ」
「……はい?」
呆気に取られる亜緒を余所に、伊摩は悪びれずに続けた。
「隣太郎にちょっかいを出されるのが嫌なら、コイツよりもいい男を連れてきなさいよ。そうしたら考えてあげるわ」
「うわあ……伊摩ってば、めちゃくちゃ言うなあ。でも確かに、トナリくん以外の男子って言われてもピンと来ないよね」
「あ、そうだ、亜緒。二人のデートの記念写真は、私に任せといてね!」
「あら……それじゃあ私は、記念録音でも任されようかしら? うふふ」
自分たちの犯行を隠す気すらなく、口々に好き勝手なことを言う四人を前に、隣太郎はいよいよ諦めの境地に達しつつあった。
どのみち四人に対しては、友人として強い好意を持っているのだから、いまさら多少のことで突き放せるはずもない。多少で済む問題かどうかは、議論の余地があるだろうが。
何にせよ、亜緒と付き合った後も皆で過ごせるのは、願ってもないことだ。
しかし、それはそれとして、隣太郎は改めて実感してしまった。
「亜緒……やっぱり君は、最高の女性だ」
何と言っても、自分のプライベートを侵害しないところが素晴らしい。
色々と麻痺しつつある隣太郎は、割と本気でそう思ってしまった。
「この状況で言われても、全然嬉しくありませんよ!」
夕焼けの空に、亜緒の切実な叫び声が木霊する。
六人で過ごす騒がしい日々は、まだまだ続くようだ。
隣太郎と亜緒が付き合い始めてから、約三か月後――。
亜緒は隣太郎の自宅を訪ね、緊張の面持ちで彼のベッドに座っていた。
そのすぐ横には、部屋の主である隣太郎が寄り添うように座っていて、同じく非常に緊張した雰囲気を醸し出している。
「えっと……二人きりですね、トナリ先輩」
「ああ……そうだな。二人きり、だな」
付き合ってからというもの、二人は以前よりも遥かに距離を縮めてきたはずだが、今はストーカー時代よりもよそよそしさを感じるくらいだった。
しかし、これは決して二人の仲が悪化しているというわけではない。
むしろその逆で、クリスマスという特別なこの日に、二人は恋人としての関係を今よりも一歩先へと進めようとしていたのだ。
口に出して約束したわけではなかったが、お互いの想いが同じ方向を向いているのを、隣太郎も亜緒も何となく感じていた。
正直、亜緒としては、もっと早く隣太郎との関係を先に進めたかった。
告白した時に彼女が言った「結婚しましょう」という言葉は、決してその場の勢いだけの冗談ではない。
付き合うまでの自信のなさや、最初の頃の警戒心に反して、付き合ってからの積極性は人一倍高い亜緒なのだった。
隣太郎もまた亜緒が自分との進展を強く望んでいることには気付いていたが、どこへ行っても存在が見え隠れする四人のせいで、なかなか踏み出す機会が作れずにいた。別にストーキングされるばかりではなく、普通に皆で遊ぶことも多かったのだが。
しかし、今日はクリスマスだ。
恋人たちにとっては特別な日であり、あの四人も今日くらいは自重するだろう。
今こそ一歩を踏み出す時――そう決心した隣太郎は、ベッドの上を所在なさげに彷徨っていた亜緒の手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。
お互いの心臓の音が聞こえそうな静寂の中、二人は少しずつ顔を寄せ合い――。
図ったようなタイミングでスマホが振動して、二人は動きを止めた。
「…………」
数秒ほど顔を見合わせた後、隣太郎はベッドから立ち上がる。
机の上に置いてあった双眼鏡を手に取ると、窓の外に向けて覗き込んだ。
隣太郎の目に映ったのは、笈掛家から少し離れたところにある小さなビルと――その非常階段に座り込んでカメラを構える翠の姿だった。
その隣には瀬里もいて、立派な望遠鏡をこちらに向けている。
隣太郎が自分を見ていることに気付いたらしく、望遠鏡から顔を上げた瀬里がこちらに向けて手を振り始めた。
一方、亜緒は自分の鞄を探り、最近入手した盗聴器の発見器を取り出した。
電源を入れると、たちまち盗聴器の存在を告げるブザーが鳴り響く。
「……いました?」
「……いたな」
具体的に「何が」とは言わずに亜緒と現状の確認をすると、もはや見るまでもないと思いつつ隣太郎は自分のスマホを覗き込んだ。
そこにはセクシーなミニスカサンタ衣装に身を包んだ伊摩の画像が表示されていて、背後には楽しそうな他の三人の姿も見える。おそらく直前に撮影したものではなく、事前に四人で集まって撮った写真なのだろう。
まさかクリスマス当日まで、こんな調子だとは。
隣太郎は溜め息を吐きながら、再び亜緒の横に腰を下ろした。
いつも通りの状況と言ってしまえばその通りなのだが、これでは二人の関係を先に進めるどころではないだろう。
仕方がないので、今日は普通に恋人らしく過ごすとしよう。
そう思って亜緒の方を見ると――。
「……ですか」
「……亜緒?」
顔を伏せた状態で、何かを呟いていた。
心配に思った隣太郎が顔を近付けると同時に、彼女は勢いよく顔を上げた。
「もおおおお! 何なんですか、これー!? 確かに皆さんの事は好きですけど、たまには二人きりにしてくれたっていいじゃないですかー!」
「あ、亜緒? 不満なのは分かるが……」
いきなり叫び出した亜緒を宥める隣太郎だが、それでも彼女は止まらない。
今日こそ隣太郎と一線を越えようと決意していた亜緒は、その機会に水を差されたことで、かつてないほどにブチ切れていた。
「不満です! もう欲求不満ですよ! 今日こそトナリ先輩とするつもりで、下着だって気合を入れてきたんですよ!?」
「い、いや……そのくらいにしておいた方が……」
今はハイになっているが、冷静になったら自分の言動を後悔するだろう。
そう思った隣太郎は、どうにか亜緒を落ち着かせようとするものの興奮は収まらない……どころか、危うげな光を瞳に宿して隣太郎を見つめてきた。
「こうなったら……見せつけてやりましょう、トナリ先輩!」
「は……? いきなり何を……うおお!?」
呆気に取られているうちに、隣太郎はベッドの上に押し倒されてしまう。
その上に覆い被さった亜緒は、爛々と目を輝かせながら怪しい笑顔を浮かべた。
「ふふふ……最初から、こうすれば良かったんです。私とトナリ先輩は愛し合う恋人同士なんですから、遠慮なんて要らなかったんですよ」
「ま、待て、亜緒。いくらなんでも、これは……って、力つよ!?」
このままでは取り返しのつかない事態に陥ると思った隣太郎は、どうにか亜緒を自分の上から退かせようと抵抗するが、理性を失った彼女の力は普段とは比べ物にならない。並の女子よりも華奢な文学少女のはずなのに、隣太郎の力ではビクともしなかった。
「大丈夫です……トナリ先輩は、天井の染みでも数えていて下さい……」
「い、いや、それは俺のセリフじゃ……」
そんな場合ではないと思いつつ、隣太郎はついツッコミを入れてしまう。
最初は亜緒を振り回す側だった彼は、ここにきて襲われる側となったのだ。
「さあ……二人が結ばれる瞬間を、皆さんに祝福してもらいましょう!」
「ちょ、ま、待ってくれええええ!」
――その後、亜緒は「見られていた方が興奮する」という、とんでもない嗜好に目覚めてしまうのだが……。
それについては、ここでは語らないでおこう。
これにて本編は終了となります。
停滞期間はあったものの、どうにかオリジナル版のラストまで辿り着きました。
この後はオリジナル版にはなかった番外編を書く予定です。
ひとまず本編終了までお付き合いいただき、ありがとうございました。




