34.梔さんはほろ苦い
「つ、ついに来ちゃった……」
扉の前に立ちながら、瀬里は緊張の面持ちで独り言ちた。
彼女の前にあるのは何の変哲もない普通の扉だったが、今は緊張のせいか聳え立つ偉大な山脈のように瀬里には感じられる。
しばしの間、扉の前で胸を押さえ深い呼吸を繰り返した瀬里は、意を決した様子で扉横に備え付けられたスイッチに手を伸ばした。
ありきたりな電子音が響いた、少し後――。
「いらっしゃい、瀬里。上がってくれ」
扉の中から現れたのは、瀬里の想い人にしてストーキング対象である隣太郎だった。
それもそのはず。ここは彼の自宅――つまり笈掛家なのだから。
「ほ、本日はお招きいただき、ありがとうございます!」
「いや、何キャラだよ」
ガチガチに緊張して、友人相手とは思えない挨拶をしてくる瀬里に、隣太郎は思わず苦笑しつつ突っ込みを入れる。
そんな隣太郎に対して、瀬里はなおも緊張で小さく震えながら訴えた。
「だ、だって……男子の家にお邪魔するなんて私、初めてで……!」
「俺も女子を招くのは初めて……いや、翠がいたか」
自分も似たようなものだと瀬里に伝えようとした隣太郎だったが、よく考えたら小学生時代には幼馴染である翠が何度も遊びに来ていたと思い出す。
当時の翠は女性らしさがまだあまりなかったので、「女子を招いた」という実感はないが。
「け、経験者……!」
「いや、その言い方はおかしくないか?」
戦慄した表情になった瀬里に、隣太郎は再び苦笑する。
彼女と話している時の隣太郎は、この表情か呆れ顔が割とデフォルトである。
「まあ、入ってくれ」
いい加減に立ち話も何だからと隣太郎が入室を促すと、瀬里は覚悟を決めた表情になる。
「よ、よし……! お邪魔します!」
「気合入り過ぎだろ……」
威勢よく挨拶する彼女を見て、何度目になるか分からない苦笑を漏らす隣太郎だった。
今回、瀬里が笈掛家を訪ねたのは、隣太郎からお菓子作りを習うためである。
なぜ急にお菓子作りなのかといえば、夏休み中に瀬里が亜緒に対して見栄を張った結果、「手作りのスイーツをご馳走する」と安請け合いしてしまったのが原因だ。
その後、夏休み中は翠と出会ったり、彼女と狂気の観測会を開催したりと忙しかったので、瀬里は亜緒との約束はすっかり忘れていた。
しかし夏休み明け、隣太郎から手作りゼリーを貰ったことで、自分も似たようなことを亜緒にすると約束していたのを思い出したのだ。
そして今日、こうして隣太郎の家でお菓子作りを習うことになったのだが……。
「まずは超シンプルにホットケーキを作る」
「ホットケーキ」
まるで魔王の城にでも挑むのかと思うような緊張ぶりを見せていた瀬里だが、入ってしまえば笈掛家は何の変哲もない一般住宅なので、すっかり落ち着いていた。
「ちょっと簡単すぎるんじゃない?」
「まずは簡単なところから、君の腕前を確認するんだ。逆に言えばホットケーキも作れないようなら、お菓子作りは向いてないと思った方がいい」
「むぅ……」
瀬里は自分がかなり侮られていると感じて不満げだが、対する隣太郎からすると彼女の危なっかしさは相当である。
正直、ホットケーキなら普通に作れて当たり前だと思う一方で、瀬里ならもしかしたら何かやらかすかもしれないという不安が拭えない隣太郎だった。
「まあ、何事も手順が大事だよね。それじゃ見ててね、トナリくん!」
まずはやって見せて、自分の実力を証明するのが一番早い。
そう理解した瀬里は、意気揚々とホットケーキを作り始めた。
そして――。
「もしかして……私、お菓子作り向いてない?」
「うーん……」
約三十分後。落ち込む瀬里と、腕を組んで唸る隣太郎の姿が、そこにあった。
「まあ、食べられないわけじゃないな。爆発もしなかったし」
「爆発なんてするわけないでしょ……」
慰めなのかも分からない隣太郎の言葉に、力なく突っ込みを入れる瀬里だが、隣太郎としては瀬里ならそういうベタなことをしかねないという不安があったのだ。
突如フライパンの上で爆発が起きてテンパる瀬里というのは、割と容易に想像ができる。むしろ変に手際よくこなすより、そちらの方が隣太郎にとっては違和感がない。
「たしかに食べられなくはないけど、あんまり美味しくないなあ。自分で言ってヘコむけど、むしろちょっと不味いかも。何が悪かったのかな……?」
自分で作ったお世辞にも美味しくないホットケーキを突きながら、瀬里は苦々しい顔でぼやく。
その表情は料理が上手くいかなかった苦悩のためだけではなく、そもそもホットケーキの端が少し焦げているせいでもある。
そんな苦みを共に味わいながら、隣太郎は瀬里にアドバイスを送る。
「何が悪かったかというと、まずは見て分かると思うが焼き加減だな。あとは混ぜ方と、分量のはかり方も割と雑だったと思う」
「それ、悪くないところないんじゃないの……?」
思った以上に辛辣な隣太郎の評価に、瀬里の表情はさらに苦みを増した。
しかし隣太郎は頭を振り、感心した顔で瀬里に告げる。
「いや、盛り付けはかなりいいと思う。瀬里にこんな才能があるとは思わなかった」
「え? そ、そうかな……?」
思わぬところを褒められて、瀬里の傷ついたメンタルは一気に持ち直した。
隣太郎の言葉通り、瀬里がホットケーキ(やや焦げ)に施したデコレーションは、素人がやったものとしてはかなり見事なものだった。
最初はシンプルにハチミツとバターだけのつもりだったのだが、瀬里が意外に軽快な手付きで生クリームやフルーツを盛り付けて、かなりの見栄えになっている。
惜しむらくは、下にあるホットケーキがどうしようもなく微妙という点だが。
「そこは素直に凄いんだけどな。肝心の本体がこれだと、厳しいかもしれない」
「う……やっぱりそうかな?」
自分にも得意な部分があって浮かれる瀬里だったが、そもそも今回はデコレーションの出来が重要なわけではないと思い出し、再び意気消沈する。
隣太郎は現実を見据えて敢えて厳しく言ってくれているのだろうが、瀬里としては上げて落とされた気分になってしまう。
「考えてもみろ。こんな見栄えのいいホットケーキが出てきて、気分良く食べ始めたら下はコレだぞ」
「……最悪だね」
瀬里も今さっき味わったから分かるが、上げて落とされるというのは始末が悪い。
それなら最初から落としてくれた方が、落差を体感しない分だけ楽である。
瀬里は想像した。亜緒が自分の作った一見綺麗なホットケーキを見て目を輝かせ、いつもより少しだけはしゃぎながら口に運ぶ姿を。
そして舌の上に載せた瞬間、その瞳が絶望と侮蔑の感情に染まる姿を。
『瀬里先輩、これゲロマズです。スイーツ舐めてるんですか? ていうか、ホントは料理下手だったんですね、見損ないました。唐辛子でも食べててください』
そんなことを可愛い後輩から言われてしまったら、瀬里は耐えられないだろう。
実際の亜緒は、そんなことは間違っても言わないだろうが。
そもそも亜緒は唐辛子などの辛い食べ物に対して、変な敵意など持っていない。
おそらく本物の亜緒なら、苦々しい笑顔を浮かべつつ「独特な味ですね。こういうのも嫌いじゃないかもしれません」などと言うのではなかろうか。
どちらにしろ、可愛い後輩にそんなことを言わせるわけにはいかないのだが。
「やばいよ、トナリくん! このままじゃ、亜緒ちゃんに失望されちゃう!」
「いや、失望は言い過ぎだと思うが……まあ、ガッカリされるかもしれないな」
「一緒じゃないのー!」
どうやら瀬里にとっては、失望されるのもガッカリされるのも似たようなものらしい。
「だからこうやって練習してるんだろ。今から『やっぱり作れません』って亜緒に言うのも、正直でいいとは思うが」
「そんなの言えるわけないでしょー!」
「なんてワガママなやつだ……」
瀬里が可愛い後輩からガッカリされそうな危機に動揺しているのは、隣太郎にもよく分かるのだが、それそれとしてテンションが高くて相手をするのが大変だった。
「まあ、とにかく練習だ。さっきのを見て、大体の方向性は決まった」
「え? ホットケーキを作るんじゃないの?」
隣太郎が方針の変更を告げると、その意図が理解できていない瀬里が怪訝そうな表情になる。
「あれは君の実力を確認するために、簡単なものを作ってもらっただけだ。そもそも亜緒に渡すのに、ホットケーキはあまり向いてないだろ?」
「あ、そう言われると、たしかに」
他のお菓子も焼き立てに越したことはないものが多いが、中でもホットケーキはその傾向が強い。
学校に持って行けば冷めてしまうし、そうなると亜緒を家に招いて振る舞うしかないが……。それを説明すると、瀬里は明らかに乗り気ではない顔になった。
「うーん、亜緒ちゃんを家に呼ぶのが嫌なわけじゃないけど、人を呼ぶとなると準備とか必要じゃない?」
「……散らかってるんだな、部屋」
「ちょっと!? 何で決め付けちゃうかな!」
心外とばかりに言う瀬里だが、部屋が散らかっているのは事実である。
逆に亜緒はきっちり片付けていそうなイメージがあるので、余計に幻滅されてしまいそうで自宅に呼ぶ勇気が出ない。
「まあ、それはそれとしてだな。どっちにしろホットケーキは亜緒に振る舞うには都合が悪いから、本番は別のものを作るぞ」
「別のものって? あと今、話はぐらかさなかった?」
「はぐらかしてない。あと作るのはカップケーキだ」
見事に話をはぐらかしながら、隣太郎は本番用のメニューを告げる。
「カップケーキ?」
「ああ、シンプルなスポンジケーキを飾り立てるから、瀬里のデコレーションの腕前が活かせると思う」
「なるほど、それならいけるかも!」
隣太郎が概要を説明してやると、瀬里は納得の表情になる。
正確にはデコレーションに頼らず、スポンジ本体の味で勝負するタイプもあるが、瀬里の場合は前者の方が適切だろう。
「分かってくれたなら、これから生地を作るぞ。いくらデコレーションでごまか……見栄え重視といっても、最低限の味は必要だからな」
「今、誤魔化すって言わなかった?」
「言ってない」
確実に言っていたが、隣太郎は適当に流した。
そもそも今の言い方だと、瀬里のスポンジケーキは最低限の味に達していないことになるのだが、そこは気にならなかったらしい。
「まあ、いいや。どんどん作るから、トナリくんも味見とアドバイスよろしくね!」
そう言って瀬里は、長く苦しいスポンジケーキ作りの道に踏み入った。
結論から言えば、そこまで長く苦しい道のりでもなかった。
最初は不慣れだった瀬里の技量も、回を増すごとに着実に上達していた。
午前中から始まったお菓子作り教室は昼の休憩を挟み、現在はそれなりに満足できるケーキが焼きあがったので試食を兼ねたティータイムと洒落こんでいる。
「ただいまー」
隣太郎と瀬里が他愛もない話に花を咲かせていると、玄関ドアが開く音とともに女性の声が聞こえてきた。
「ん? 母さんか?」
「うぇ!? お、お母さん?」
どうやら仕事に出ていた隣太郎の母親が帰宅したらしい。
隣太郎のセリフからそれを察した瀬里は、予期せぬ母親との対面に狼狽えた。
そもそも今日は夜まで隣太郎以外に誰もいないと聞いていたので、彼の家族に会うことなど瀬里は想定していない。
しかし、いくら狼狽えようとも後の祭りである。
「ただいま、隣太郎。なんか客先のトラブルで、早く帰らされちゃって……」
「おかえり、母さん。お疲れ様」
「うん……ん? なんか甘い匂いが……って、あれ?」
疲れた顔でリビングにやって来た隣太郎の母親は、そこに息子だけでなく、見慣れない人物がいることに気付いた。
一方、想い人の母親との対面にテンパってガチガチになっていた瀬里は、流石に黙ったままでは失礼だろうと自分の意識に鞭を打ち、どうにか自己紹介の言葉を絞り出した。
「は、初めまして! 私、トナリ……隣太郎くんのクラスメイトで、梔 瀬里といいます!」
「おお? おおー! 初めまして! 隣太郎の母の珠季です」
「は、はい……お邪魔してます」
瀬里の威勢のいい挨拶に、一瞬呆けた顔を見せた隣太郎の母親――珠季だったが、すぐに息子が女友達を家に連れ込んだと察して、人のいい笑顔に表情を変える。
瀬里の方はどうにか自己紹介はできたものの、やはりテンパっていた。
そんな彼女を見て笑顔を深めながら、珠季は話を続ける。
「あ、この子の呼び方は『トナリ』でも大丈夫よ? 前に男の子の友達がそう呼んでるの、聞いたことあるし」
彼女が言っているのは、以前この家に遊びに来た霜馬のことである。
瀬里としても「隣太郎くん」という呼び方はどうにも慣れていない上に、先輩とのキャラ被りも懸念されるので、いつもの呼び方が出来るのは非常に助かる。
「は、はい……あ、そうだ。もしよろしかったら、カップケーキ食べませんか? さっきまで、トナリくんと一緒に作ってたんです」
「え、いいの? ありがとう! いやあ、息子がなんでかお菓子作り始めたのは知ってたけど、彼女と一緒に作りたかったからなの? 可愛いとこあるわねえ」
瀬里から勧められたカップケーキに顔をほころばせながら、珠季は息子をからかうように言う。
しかし息子は流石に母親の性格を理解しているので、動揺したのは主に瀬里の方だ。
「彼女じゃないぞ、母さん。さっき本人も言ったけど、クラスメイトだ」
「そ、そうです。私とトナリくんは、そんなんじゃないです!」
「あら、そうなの? ごめんねえ」
反省しているような口振りだが、あまり本気で言っていないのは表情からよく分かる。
「でも隣太郎がうちに女の子を連れてくるなんて、翠ちゃん以来じゃない? あ、そういえばあの子、ちょっと前から帰って来てるんだけど、もう会った?」
「夏休みの間に会ったよ。あと翠は俺が連れてきたっていうより、母さんの友達が連れてきたんだろ?」
「どっちでもいいじゃないの。細かいなあ」
何気ない親子の会話を見て、瀬里はいろいろと納得したことがあった。
隣太郎の割と落ち着いた性格は、この母親の陽気さに接しているうちに育まれてきたのだろう。もしかしたら幼馴染である翠の影響もあったのかもしれないが。
少し硬い口調は、人懐っこい母親への思春期的な対応なのかもしれない。
「えっと、瀬里ちゃん、だったよね? このケーキ、美味しいわね」
「あ、はい。ありがとうございます!」
「そうだ。美味しいケーキのお礼に、夕飯をご馳走しましょう!」
「え? そ、そんな急に……」
急な誘いに慌てた瀬里が隣太郎の顔を見るが、彼は瀬里を苦笑気味の顔で見返しつつ「諦めろ」と言うように首を振った。
どうやら珠季がこうなった場合、息子の隣太郎でも止められないらしい。
「あ、そうね、急だったわよね。ごめんなさい」
「いえ! あの……もし、ご迷惑でないなら、ご馳走になってもいいですか?」
珠季が残念そうな表情になったのを見て、瀬里は慌てて夕飯を食べていくことに同意した。
元々、本気で嫌がっていたわけではなく、テンパってどう対応するべきか困っていただけである。
冷静に考えてみれば、隣太郎の家族とお近付きになれる機会を逃す手はない。
遠慮がちだが自分の誘いを受け入れられて、珠季は表情を緩める。
「もちろん大歓迎よ! じゃあ夕方までには用意するから、二人は隣太郎の部屋で待っててね」
「あ、あの! よかったら私もお手伝いを……」
「え、いいの? いやあ、うちって一人息子だから、実は娘と料理するのって憧れだったの」
「ええっと、お手伝いはしたいんですが、実はあんまり料理とか自信なくて……!」
ここがチャンスと料理の手伝いを申し入れる瀬里だったが、予想以上に好意的に受け入れられてしまい、焦って料理の経験に乏しいことを明かす。
流石に隣太郎の母親にまで見栄を張っても仕方がないというより、かえって印象が悪くなりかねないと、彼女も理解しているようだ。
「いいよいいよ! 笈掛家の味で良ければ、教えてあげる」
「あ、はい! むしろそれを教えていただきたいというか……」
「お? これはこれは……」
恥ずかしそうに呟いた瀬里に、珠季は面白そうな顔を向ける。
どうやら賑やかな夕食になりそうだと、女性二人から蚊帳の外にされながら隣太郎は考えていた。
こうして翠以外の女性陣で、隣太郎の母親との初顔合わせ一番乗りは瀬里という、なんとも意外な結果になったのだった。
ちなみに後日、珠季は息子が別の女子を家に連れてきて、驚愕することになる。




