33.灰谷さんはクビになる?
二学期が始まってまだ間もない、ある日の放課後。
隣太郎は十和から呼び出しを受けて、写真部の部室にやって来ていた。
彼の放課後の行動としては割と定番なのだが、今日はいつもとは少し違う点があった。
「十和先輩、なんか妙に落ち込んでたな。『相談がある』って言ってたし」
以前は十和からの呼び出しはメッセージアプリが使われることが多かったが、亜緒たちも巻き込んで親しくなってからは電話をかけてくることも少なくない。
今日も電話での呼び出しだったのだが、十和の語り口が妙に沈んでいたことが、隣太郎には気掛かりだった。
大抵は写真部に関する適当な雑用で呼び出されるのに、今日は「相談したいことがあるの」と言われたのも、気になるところだ。
いろいろと考えながら歩いていると、すっかり見慣れた部室の前に着いたので、いつも通りにドアを軽くノックする。
以前は逃げ出したい気持ちを表した弱々しいノックだったが、今では単なる習慣だ。
「あ、えっと……隣太郎くん?」
「え?……あ、はい。そうです、十和先輩」
部室の中から聞こえてきた十和の言葉に、隣太郎は驚いた。
電話口と同じく沈んだ声なのも原因のひとつだが、何より十和がドアの前にいる人物が隣太郎であると、わざわざ確認を取ってきたことが信じられなかったのだ。
普通に考えれば別に不思議でも何でもない行動なのだが、隣太郎の知る十和の行動としては不自然極まりない。
「……入りますよ、先輩」
恐る恐るドアを開けた隣太郎だが、中にいた十和の様子を見て、ひとまずは安堵した。
少なくとも酷く泣き腫らしていたり、目に見えるような怪我をしている様子はない。
とはいえ、その表情はやはり深く沈んでいた。
「十和先輩……えっと、ただいま……?」
ぎこちない口調で、隣太郎は十和にいつもと違う挨拶をした。
この「ただいま」というのは、十和がいつも隣太郎に対して「失礼しますは他人行儀だから」と求めていたものだ。
十和はふざけて言っていたのだろうが、彼女が落ち込んでいる今なら、元気付けるのに役立つかもしれないと、隣太郎は思った。
「隣太郎くん……」
しかし予想に反して、十和は隣太郎に向けて泣きそうな顔をする。
「どうしよう、隣太郎くん。私、部長をクビにされちゃう……!」
「え、ちょ、先輩? 落ち着いて下さいよ!?」
いよいよ堪え切れなくなった十和は、隣太郎の胸に飛び込んで涙を流し始めた。
初めて密着した十和の体温や香りに、隣太郎の体はすっかり硬直してしまい、ただ彼女が落ち着くのを待つしかなかった。
たっぷり数分が経った頃、ようやく十和が落ち着いて体を離してくれたので、隣太郎の硬直も解けた。
途中からスンスンと、鼻を啜るのとは少し違う音が聞こえていた気がするが、おそらく気のせいだろう。
「それで十和先輩。クビになるっていうのは?」
「あ、えっと……実はまだ確定じゃないんだけど……」
さっきまで泣いていたのが恥ずかしいらしく、十和は俯きがちになりながら話している。
現在は隣太郎が淹れたお茶を飲みながら、部室に以前から備え付けられていた応接セットで、十和から事情を聞いているところだ。
「今、うちの部に入部希望者がいるらしいの」
「入部希望者が? それって幽霊部員の噂を聞いた生徒じゃなくて?」
写真部の入部希望者と聞いて、隣太郎が最初に思い浮かべたのは、そういう類いの生徒だ。
幽霊部員の事実は暗黙の了解となっているので、面白がったり何かしらの部活に所属した方が都合のいい生徒が、時々入りたがったりするのだ。
その性質上、自発的に幽霊部員を希望する生徒は、基本的にお断りされているのだが。
しかし隣太郎の問いかけに、十和は深刻そうな表情で首を振った。
「それが違うみたいなの。写真に興味がある子で、是非ともうちの部に入りたいって」
「うちの部に……ん? それって……」
十和の話で気になる点があった隣太郎だが、十和の方は全く余裕がないのか、そんな隣太郎の様子に気付くことなく話を続ける。
「それを聞いた先生方が、その子に『今なら部長の座も空いてる』って言ったみたいで、私のところにもその子が望んだら部長の座を譲るように言ってきたの……」
「あ、あの……十和先輩?」
隣太郎が十和に呼びかけるものの、彼女が気付く気配はない。
どうも隣太郎の予想以上に追い詰められているようだ。
「このままじゃ私、写真部の部長じゃなくなっちゃう……! どうしたらいいの……!?」
「先輩? 十和先輩? えっと、十和ー?」
十和にとっては念願の呼び捨てまでされたのだが、それでも彼女は反応しない。
「こうなったら、何か先生の後ろ暗い秘密を掴んで脅すしか……」
「ちょ、先輩!? ダメですって!」
「きゃっ!?」
かなり危険な発言をしていたので、仕方なく隣太郎が肩を掴んで揺すると、十和はようやく正気に戻った。
目を白黒させた後、隣太郎に触れられていることに気付いて赤面する。
「り、隣太郎くん? えっと、まだ明るいし、こういうのは早いんじゃないかしら……?」
「いや、何を言ってるんですか。そうじゃなくて、先輩がクビになるって話でしょ」
正気に戻ったはずなのだが、さっきとは別の意味で危険な発言をする十和だった。
曲がりなりにも美人なので、隣太郎としては誘惑するような言動は控えていただきたいところだ。
一度は恥ずかしさから赤面していた十和だが、隣太郎の発言で部長解任の危機であることを思い出し、泣きそうな表情に戻る。
「そうだったわ……このままじゃ、部長じゃなくなっちゃうのよね」
「あの……先輩、そのことなんですけど」
「……隣太郎くん?」
何やら言いづらそうな空気を醸し出す隣太郎に、十和は首を傾げる。
隣太郎は何度か目線を動かした後、意を決して口を開いた。
「その入部希望者って、翠のことなんじゃないかと……」
「え……? 翠ちゃん?」
「いやほら、最近になってうちに入部したがるような、写真に興味のある生徒ですよね? それって多分、転校してきた翠じゃないですか?」
隣太郎は翠からそういう話は聞いていないが、何しろ彼女は再びこの街に引っ越してくることさえ、隣太郎を驚かせたいという理由で黙っていたような性格だ。
今回の件でも、同じように隣太郎と十和を驚かせようとしている可能性は、十分にあるだろう。
「まあ、先輩がなんでそのことに気付かなかったのかは……先輩?」
隣太郎が気になるのは、自分が気付くようなことに普段から鋭いはずの十和が気付かず、必要以上に狼狽えていたことだ。
さらに言うなら、そもそも写真部の部長という役職自体に、十和は興味がなかったはずである。
その点を指摘しようとした隣太郎だったが、十和の様子がおかしいことに気付いて言葉を止める。
「……あの、十和先輩?」
しばらく唖然としていたかと思いきや、十和は急激に顔を紅潮させて両手で覆ってしまう。
そのまま勢いよく頭を振りながら、隣太郎が初めて聞くような叫び声を上げた。
「あ、あ……ああああああああああっ!!」
「え? ちょっと、十和先輩!? 今度はどうしたんですか!?」
尋常ではない十和の様子に、隣太郎は酷く狼狽えてしまう。
「やだ! 見ないで、隣太郎くん! は、恥ずかしい……!」
「ええ……? は、恥ずかしい?」
どうやら十和は、さっきまでの自分の姿を恥ずかしがっているらしいと、隣太郎は混乱しながらもどうにか理解した。
たしかに普段の彼女らしからぬ察しの悪さではあったが、隣太郎としてはここまで恥ずかしがるほどかと思わないでもない。
「あ、あんなに無様に泣いたりして……恥ずかしい……もうやだあ」
十和にとっては大いに恥じる醜態だったらしく、もはやキャラもおかしい。
だんだん「先輩、ちょっと可愛いな」と思えてきた隣太郎だった。
とはいえ、このまま彼女を混乱させていては、話もままならないだろう。
「十和先輩、大丈夫ですから! ああいう態度を見せてもらえると、先輩もやっぱり俺と同年代なんだなって、安心できるというか……」
「いや! そんないい声で励まさないで!!」
「急にどうした!?」
十和が落ち着いて話せるようになるまでは、どうやらまだまだ時間が掛かりそうだ。
『なーんだ、もう二人にバレちゃったの? せっかくビックリさせようと思って黙ってたのにー』
隣太郎が翠に確認の電話を入れると、あっさり問題は解決した。
「ああ、その……悪戯もほどほどにな、翠」
隣太郎が予想した通り、写真部の入部希望者というのは翠のことだった。
聞けば、翠が教師から部長の座を仄めかされたというのも事実らしい。
ちゃんとした写真部員が入るということで気を良くした教師陣が、この機に翠を部長に据えて部の活性化を図ろうとしているのだとか。
翠によると部長は薦められたものの、当人としては転入したばかりで部長になると悪目立ちしそうなので、受ける意思は全くないようだ。
「だそうですよ、十和先輩」
「いやあ……もうおうち帰る……」
隣太郎が翠から聞いた話を伝えると、十和はソファに寝そべって背を向けてしまった。
さっきまでは多少回復していたのだが、翠に確認を取って十和の早とちりだとはっきりしたことで、改めて恥ずかしさがこみ上げてきたようだ。
「そもそも先輩、なんであんなに嫌そうだったんです?」
「……んぅ?」
隣太郎が最初から思っていた疑問を問い掛けると、十和は妙な返事……らしき声を上げた。
普段の十和とのギャップに可愛さを覚えつつ、隣太郎は話を続ける。
「俺もそうですけど、先輩も幽霊部員ですよね? 前に俺を勧誘した時も、『部長の座を譲ってもいい』みたいなことを言ってませんでした?」
隣太郎の言う通り、十和は元々写真に興味はないし、部長にだってなりたくてなったわけでもない。
ただ学校側から頼まれて、そこまで面倒でもないから引き受けていただけのはずだ。
それなのに、どうして十和はあんなにも部長を辞めさせられるのを嫌がったのか。隣太郎にはそれが理解できなかった。
隣太郎の言葉に少し考え込んだ後、十和はソファから身を起こして彼の方に向き直した。
「それはもちろん、この写真部が私と隣太郎くんの思い出の部活だからよ」
語り口から、さっきまでと比べて十和がだいぶ落ち着いたことが窺える。
まだ少し顔が赤いのは、恥ずかしさが完全には引いていないのだろう。そう隣太郎は思っているが、実は全く別の理由なのかもしれない。
「俺と先輩の、思い出の部活?」
「ええ、そうよ」
言われて写真部での日々を思い返す隣太郎だが、割と碌な思い出がない。
そもそも幽霊部員なので大して寄り付かなかったし、部室に来ても大抵は十和にからかわれるか、十和が顧問から言い付けられた雑用を手伝っていたくらいだ。
「そんな大層な思い出はなかった気がするが……」
「そんなことないわよ? 隣太郎くんと出会って、お話しして、仲良く――なったのは、もうちょっと後だったかしらね。でもそう思うと、とっても素敵な思い出じゃない?」
十和のその言葉に、隣太郎は改めて写真部での日々を思い返す。
『貴方、帰宅部よね? 幽霊部員でいいから、籍だけ置かせてくれない?』
『俺ですか? まあ、部活に出なくていいなら構いませんが』
最初は本当に、ただ名前を貸すだけのつもりだった。
部長と名乗る先輩はたしかに美人だと思ったが、当時の隣太郎は色恋沙汰にあまり興味がなく、十和のことも大して意識はしていなかった。
『実は部室の整理をするよう、顧問の先生から言われてしまったの。申し訳ないのだけど、手伝ってくれる?』
『ええ、いいですよ。一応、俺も写真部員ですからね』
そのうち、籍を置くだけのはずが雑用を頼まれるようになった。
隣太郎は放課後に特定の用事があるわけではなかったので、暇な時に手を貸すくらいならと気軽に了承していた覚えがある。
『たまにはゆっくり、お話でもしない? 家からティーセットを持ってきたの』
『もう何の部活だか分かりませんね……。まあ、たまになら付き合いますよ』
いつからか特別な用事がなくても、部室に誘われるようになっていった。
隣太郎も最初の頃は付き合っていたが、だんだんと十和の言動がエスカレートしてきて、何となく距離を取るようになったはずだ。
「やっぱり碌でもない……けど、まあ悪くないか」
「でしょ? ふふ……」
苦笑しながら言う隣太郎に、十和は嬉しそうな笑顔を見せる。
たしかにこの部室で過ごした日々は大した思い出とは言い難いが、同じ時間を共有した二人にしか分からない、特別な何かがあった。
「隣太郎くんと二人きりじゃなくなるのは寂しいけど、翠ちゃんもいたら、きっともっと楽しくなるわよね」
「正確には部員はもっといるんですけどね」
「もう。隣太郎くんったら、情緒がないわね」
身も蓋もない隣太郎の言葉に、十和は不満げに答える。
それでもその表情は、言葉に反して笑顔のままだ。
二人はしばしの間、お互いの顔を見合う。
そして、やがてどちらともなく吹き出した。
「そういえば隣太郎くん。私への態度が、ずいぶん砕けてきたわね?」
「まあ、あんな姿を見せられると、身構えるのもアホらしいというか……」
「生意気になってもいいとは、言ってないわよ?」
やはり言葉の割には笑顔のまま、十和は少しだけ考える素振りを見せた。
「うーん……そろそろ私のこと、『十和』って呼べるんじゃないかしら?」
「どこからそうなったんですか」
タメ口と呼び捨てはかなり違うだろうと、隣太郎は突っ込みを入れる。
そもそも少し前に一度、隣太郎から呼び捨てにされていたのだが、動揺中だった十和は本気で気付いていなかったらしい。
「いいじゃない。ここはひとつ、男の子らしく。ね?」
そう言いながら少し十和の笑顔の質が変わったことに、隣太郎は気付いた。
悪戯を楽しむ子供のような、少しタチの悪い笑顔だ。
以前はこの笑顔が苦手だった隣太郎だが、今はそうでもないと感じた。
この笑顔もまた、目の前の先輩が持つ魅力のひとつなのだろう。
「ほらほら、隣太郎くん。呼んじゃいましょう? それとも私の方が先に呼び方を変えましょうか? 例えば……リンくん、なんてね?」
どうやらかなり調子に乗ってきたらしい十和に向けて、ふと思い立って隣太郎は手を伸ばした。
唐突な彼の仕草を見て、きょとんとした顔になった十和の頭に、隣太郎はそのまま手を載せる。
「コラ」
「きゃっ……隣太郎くん?」
急に叱られるように言われて驚いた十和だったが、隣太郎の手付きが想像以上に優しかったので不思議そうな顔になる。
そんな彼女の頭を、自分の顔を見られないように少しだけ押さえ付けながら、隣太郎は穏やかな声色で言った。
「あんまり調子に乗るんじゃないぞ――十和」
「……!」
十和に語り掛けた後、隣太郎はそっと彼女の頭から手を離した。
流石に恥ずかしかったらしく、すぐに十和から目を逸らしてしまう。
一方、彼に呼び捨てにされたことが本気で嬉しかった十和は、キラキラした瞳で隣太郎を見つめながら、勢いよく詰め寄る。
「もう一回! 隣太郎くん、もう一回呼んで!? 今度は録音するから!」
「いや、何で録音するんですか!? 二度と呼びませんから!」
いきなりの録音宣言に、隣太郎は思わず声を荒げる。
しかしその表情は、言葉ほどに嫌がっているようには見えない。
やはり写真部の思い出など、碌なものではないが……。
こうして二人の写真部に、また新しい思い出が増えたのだった。




