32.喜久川さんは写したい
例年になく濃厚な夏休みを終え、隣太郎は少し憂鬱な気分で新学期を迎えた。
夏休みボケというのもあるが、それはそこまで酷いものでもない。
今年はそこそこ出かける用事が入っていたこともあって、夏休み中も隣太郎は割と規則正しく過ごしていた。
では隣太郎が憂鬱な原因は何かといえば……。
「あー……おはよう、霜馬」
「……おう、トナリ」
夏休み中に「ハーレムクソ野郎」という不名誉な称号を押し付けてきた友人に会うのが、隣太郎にはとにかく憂鬱だったのだ。
「お前、アレか? 海の後も、綺麗な女子たちとヨロシクやってたのか?」
「いや、ヨロシクやってたという表現は、ちょっとアレだと思うが……」
「でも楽しんでたんだろ?」
「……まあ、楽しかったよ」
隣太郎の言葉を聞いて、霜馬は朝から恨みがましい目を向けてくる。
しかし隣太郎としては、亜緒たちと過ごした夏の思い出を「楽しめなかった」などと表現するわけにはいかなかった。
「女子四人だもんな、そりゃ楽しいだろうよ。モテモテ野郎は羨ましいぜ」
「いや……」
ここまで恨み言を言われる筋合いはないでのはと隣太郎は思うのだが、実は夏休み中に女子が一人増えているという事実があるので、結局は何も言えなかった。
仮に霜馬が同じような状況だったとして、隣太郎もイラっとしなかったかと問われれば即答はできない。というか多分、かなりムカついていただろう。
「それともアレか? モテモテのトナリさんのことだから、夏休みの間にもう一人くらい引っかけて――」
「リン兄! おっはよー!」
一秒と持たずにフラグ回収してしまう、霜馬であった。
いきなり元気な声とともに教室にやってきた翠に、隣太郎は動揺しながら声をかける。
「お、おい翠。朝からどうしたんだ?」
「聞いて聞いて! 私、亜緒と同じクラスになれたの! やー、超嬉しい!」
「そ、そうか。良かったな、翠」
嬉しそうな表情の翠を見ると心から良かったと思うが、隣太郎としてはすぐ傍にいる霜馬の反応が気になって仕方がない。
恐る恐る目を向けると、霜馬は唖然とした顔で隣太郎と翠を見ていた。
「トナリ、その子は……お前、まさか……」
「い、いやこれはだな」
「あ、リン兄の友達ですか? 初めまして、一年の喜久川 翠です! リン兄の幼馴染やってます!」
「あ、どうも。米峰 霜馬です」
つい普通に返してしまった霜馬だが、その内心は混乱と嫉妬でひどいことになっていた。
そもそも中学からの付き合いだというのに、隣太郎に幼馴染がいたなどとは聞いたことがない。
ということは、こんな可愛らしい幼馴染がいたというのに、隣太郎は今まで恋愛に興味がないような顔をしていたのかと、霜馬は邪推していた。
実際は引っ越しで翠がいなくなったので、話題に出ることがなかっただけなのだが。
「あ、翠ちゃん。おはよう」
「瀬里さん! おはようござまーす!」
霜馬が呆けていると、瀬里も話に加わってきた。
しかも隣太郎の幼馴染を名乗っていたはずの後輩と、何やら親しげな雰囲気である。
「……梔も喜久川ちゃんのこと知ってんのか?」
「え? うん。トナリくんたちと一緒に遊んだし。こないだは翠ちゃんと二人で出掛けたしね」
「瀬里、翠と二人で出かけたのか?」
初めて聞く話に、思わず隣太郎は声をかけた。
夏祭りで翠と瀬里たちの仲が良くなったのは知っていたが、まさか二人で出掛けるほどとは思っていなかった。
「あっ……あー、そうなの。二人で盛り上がっちゃった」
「楽しかったよねー! お喋りしながら、お菓子食べたり!」
二人で出かけたというのは、要するに夏祭りで企画していた隣太郎の自宅観測会という、狂気のイベントのことである。
美少女二人がお菓子を食べながら、和気藹々と望遠鏡やカメラを覗き込む姿はかなり異様だったが、幸い誰にも目撃されていなかった。
もし見られていたら、彼女たちがこうして二学期から無事に登校することもなかったかもしれない。
「そうなのか。何にせよ、仲がいいみたいで安心した」
「安心してんじゃねえぞ、コラ……!」
言われて隣太郎は、少しも安心できる状況ではなかったと思い出す。
こうして隣太郎の二学期最初の朝は、霜馬への釈明と彼の罵倒を甘んじて受ける時間となったのだった。
少し時間が経った昼休み、翠は瀬里と待ち合わせをしていた。
理由は他でもない。先日、隣太郎の自宅の観測スポットを教えた見返りとして、瀬里から隣太郎が昼休みに過ごしている場所を案内してもらうことになっていたのだ。
相変わらず、隣太郎のプライベートはズタズタである。
「第二書庫だっけ? そこで亜緒と一緒にいるの?」
「うん、そうだよ。毎日じゃないけど、週に二回くらいは行ってると思う」
「二人っきりとか、ズルいなー」
最近は隣太郎の隠し撮りが楽しくて仕方ない翠だが、元はといえば隣太郎はへの恋愛感情から来ているので、嫉妬心を覚えているのも事実だ。
「私もリン兄と一緒にお昼したい!」
「トナリくんなら、お願いしたら一緒に食べてくれるんじゃない?」
瀬里としては正論を言ったつもりだったのだが、何故か後輩から胡乱げな目を向けられてしまう。
「何となくだけど、私が誘ったら他の先輩たちも混ざってきそうな気がする」
「そ、それは分からないでしょ?」
言いながらも、「たしかに」と翠の読みに納得してしまう瀬里だった。
表立って隣太郎を誘うと、なんだかんだで他の女子も混ざる流れになるというのは、十分に考えられる。
「それより翠ちゃん。ここが第二書庫を見るのにベストな場所だよ」
言葉の通り、瀬里が案内したのは第二書庫――ではなく、第二書庫とは中庭を挟んで反対側にある空き教室だった。
隣太郎たちは第二書庫の窓際にあるテーブルで食事をしているので、ここからならいい感じに様子を見ることができる。
「たしかに視界はいいかなー。でも、ここだと声は全然聞こえないね」
翠の言うとおり、この教室は隣太郎たちがいる第二書庫の向かい側にあるので、どうやっても会話を聞くことはできない。
しかし指摘を受けた瀬里は、むしろ自慢げにほくそ笑んだ。
「ふっふっふ。聞こえないなら、聞こえるようにすればいいだけだよ」
「え? それって……」
「出番ですよ! 十和先輩!」
「はーい」
瀬里が声を上げると、十和が返事をしながら空き教室に入ってきた。
どうやら瀬里に呼ばれるまで、教室の前で待機していたらしい。
「先輩! よろしくお願いします!」
「可愛い妹たちのお願いなら、聞かないわけにはいかないわね」
「やー、なんか二人ともノリノリだねー」
妙なノリで会話を始めた先輩二人に、翠は呆れた声を上げる。
後輩から冷静なツッコミを入れられた瀬里は赤面するが、十和はいつも通りの楽しそうな笑顔である。
隣太郎から微妙に引かれながらもコミュニケーションを取り続けた精神力は、伊達ではなかった。
「夏休み明けで久々の盗聴だから、何だかドキドキするわね……」
持参したスピーカーに受信機をセットしながら、十和が呟く。
この場に伊摩がいたら、「それ罪悪感か、逮捕されそうでビビってるんじゃないの?」と突っ込みを入れていただろう。
「あれ? 十和先輩、今日は教室の盗聴してないんですか?」
「実はそうなのよ。夏休み明け最初の一回は、瀬里ちゃんたちと一緒にしようと思って」
まるで友情エピソードのような言い草だが、盗聴の話である。
瀬里にとっては自分の教室でもあるはずなのだが、確実に感覚が麻痺していた。
「そういえば今日って、伊摩さんは呼んでないの?」
翠にとって彼女たちは三人一緒のイメージが強かったのか、この場に伊摩がいないことに違和感を持ったようだ。
特に他意のない純粋な質問だったのだが、問われた瀬里と十和は顔を見合わせて、何とも言えない顔をした。
「伊摩ちゃんはねえ……」
「なんかいつも自分のこと棚に上げてるし、今日は呼ばなくてもいいかなって」
「あー……」
翠が納得したような声を出す。
言われてみれば、こういう話をする時に伊摩は自身の露出癖、というか隣太郎への写真の送り付けを、盗聴やストーキングよりもマシな行為として話すことが多い。
今回はまさしくそれらの行為を楽しむ集まりなので、いつも下に語られがちな瀬里たちは意趣返しとして伊摩を呼ばなかったらしい。
「伊摩さん、めっちゃ悔しがりそう」
「多分、単純に仲間外れにされたことで悔しがるわね」
「うーん……ちょっとした意地悪のつもりだったけど、可哀想だったかな……」
苦笑する瀬里と、割と本気で申し訳なさそうな顔をする十和。
なんだかんだで、根は仲良しな女性陣であった。
『トナリ先輩とこうやってここに来るのも、なんだか久しぶりですね』
『そうだな。夏休み前からだから、一か月半ぶりくらいか』
瀬里たちが和やかに会話していると、盗聴器から受信した音声がスピーカーから聴こえてくる。
「あら、ようやく隣太郎くんたちが来たわね」
「へえ、盗聴すると、こんな感じに聴こえるんだ。初めて聴いた」
「瀬里さん。普通は一生知らなくてもおかしくないと思うよ、それ」
三人が気の抜ける会話を続けている間も、スピーカーの声は止まない。
『その、今日はですね……トナリ先輩に、お弁当をお裾分けしたいと思いまして』
『いいのか? ストーカーにやる弁当はないって、前に言われた気がするが』
『そ、それはあれです……! 勤勉なストーカーさんには、時に労いも必要といいますか……』
隣太郎に手料理を食べてほしいという思いが先走り、もはや亜緒は自分で何を言っているのか分かっていないようだ。
「お! リン兄、めっちゃニヤけてる! 亜緒が見てないからって、油断し過ぎー」
はしゃいだ声を上げながら、翠は閉じたカーテンの隙間からカメラを覗かせ、シャッターを切る。
恥ずかしげに俯く亜緒を見て、表情を崩している隣太郎の姿が題材である。
隣太郎に「油断し過ぎ」と聞こえない野次を飛ばしているが、今の状況で亜緒以外に自分を見ていると考える方がおかしいだろう。
「やー、これいいですね! セリフが聴こえると、次にいい顔しそうなのが分かる!」
「うふふ、喜んでもらえて良かったわ」
はしゃぐ翠の背中を眺めながら、十和と瀬里は弁当を食べ始めていた。
あまり観測に熱中していると、食べる間もなく昼休みが終わりかねないのだ。
「やっぱり隣太郎くんの声は、最高のおかずだわ」
「十和先輩、言い方」
スピーカーから聴こえる声にうっとりする十和に、瀬里が突っ込みを入れる。
しかし残念ながら、十和は隣太郎の声だけでばっちりイケてしまうのだ。
もちろん食事の話である。
『わぁ! 今日はゼリーですか!? 手が込んでますね!』
『ああ、今日も暑いからな。クーラーボックスに入れてきたから冷たいぞ』
スピーカーの向こうでは、隣太郎たちがお約束の甘味タイムに入っていた。
心なしか、さっきまでよりも亜緒の声が弾んでいるように聴こえる。
「あら、これはそろそろ出るわね。アレが」
「アレ……? ああ、トナリくんのアレですか」
「んー? 先輩たち、なんのこと言ってるの?」
妙に持って回った言い方をする先輩二人に、首を傾げる翠。
そんな翠に、瀬里たちは笑顔を見せた。片方は苦笑いだったが。
「まあまあ、翠ちゃん。もうすぐシャッターチャンスが来るから、構えといた方がいいわよ」
「そうね。アレは多分、見る価値も聴く価値もあるわ」
「えー、なんだろ?」
意味は分からなかったが、翠は言われたままにカメラを構えることにした。
疑問と期待を胸にファインダーを覗いていると、その時はやってきた。
『甘いものは、美味しい。さあ、召し上がれ。亜緒』
隣太郎の言葉と共に、連続のシャッター音が空き教室に響き渡る。
「うっひゃー!? リン兄、めっちゃドヤ顔じゃん! やー、もう! リン兄のあんな顔、初めて見た!」
さらに隣太郎のレアな表情を見た、翠の歓喜の叫びも響き渡っていた。
あまりの晒され様に、瀬里も流石に隣太郎が気の毒になってくる。
心の中で隣太郎に詫びを入れつつ、それでもスピーカーの声に耳を傾ける瀬里に、十和が思い付いたように尋ねてきた。
「そういえば、瀬里ちゃんは写真を撮ったりはしないの? それかビデオとか」
「うーん、悪くはないと思いますけど。私としては、変に記録を取ったりするんじゃなくて、こうしてただ見守るのも趣があるかなって」
「そうなの……いろいろあるのね」
そんな趣があってたまるかと言われるべきセリフだが、残念ながらそれを言いそうな棚上げガールは本日不在だった。
『ごちそうさまでした! 今日も美味しかったです、トナリ先輩』
『ああ、お粗末様』
「あら? 向こうはお昼終わったみたいね」
ふと気付けば、隣太郎たちはデザートまで完食していた。
瀬里と十和が教室の時計を見ると、昼休みも残り少なくなっている。
「翠ちゃん、もう食べる時間なくなっちゃう――」
「ふぁい?」
「って、食べてるわね」
翠に注意を促そうとした十和だが、翠は片手間にサンドイッチを食べていたようだ。
「手慣れてるなあ……」
呆れ笑いを浮かべつつ、片手で食べられるパンは便利そうなので、自分も参考にしようと思う瀬里だった。
その日の放課後。翠は朝に引き続き、隣太郎の教室を訪れていた。
昼休みは隣太郎の盗撮をしつつ瀬里たちと楽しく過ごした彼女だったが、後になって落ち着いたら「亜緒ばっかりズルい!」と思い、隣太郎に会いに来たらしい。
今日は亜緒の図書委員としての仕事もないので、翠が顔を出すと隣太郎は普通に教室で帰宅の準備をしていた。
「リン兄、一緒に帰ろ!」
「す、翠? お前、また二年の教室に……」
予想外の事態に驚き、つい女子相手には自粛しているはずの「お前」という呼び方を使ってしまう隣太郎。
隣太郎にとっては女子に対して乱暴な呼び方という認識だが、翠にとっては昔から馴染みのある呼び方だ。
他の子には使っていないので、自分が隣太郎にとって特別なのだと思えて、彼になら呼ばれて嫌などころかむしろ好きなくらいだった。
「リン兄、亜緒と一緒にお昼食べてたみたいじゃん。私にも構って!」
「何で知ってるんだよ……」
自分の行動を知られていることに辟易する隣太郎だが、まさか幼馴染や友人たちに盗撮&盗聴をされていたとは思うまい。
女子の情報網は恐ろしいと、的外れな感想を持つのだった。たしかに女子というのは侮れない情報網を持つものだが、真に恐ろしいのは女子そのものである。
「まあまあ、いーじゃん! それより、一緒に帰ろってば!」
「それよりって……まあ、今日は予定もないし一緒に帰るのは構わないぞ」
強引な幼馴染に呆れる隣太郎だが、一緒に帰るのが嫌というわけでもない。
隣太郎が了承してやると、翠は大いに喜んだ。
「やったー! じゃあさ、せっかくだし何か食べてかない? デートっぽく!」
「デートじゃなくて、一緒に帰るだけだからな。何かって……ああ、そうだ」
翠の不適切な発言に呆れる隣太郎だったが、ふと思い出したように荷物を開いた。
それは昼休みに第二書庫に持ち込んでいた、クーラーボックスだ。
そこから隣太郎は、よく冷えていそうなゼリーをひとつ取り出す。
「リン兄、それって……」
「ああ、俺が作ったゼリーだ。実は最近、お菓子作りに凝っててな」
翠が驚いたのは隣太郎がゼリーを持ってきたことに対してではなく、自分に渡してきたことなのだが、隣太郎は当然そんなことは知らないので翠に向けて説明を続ける。
「みんなに作ってきたから昼休みにでも渡そうと思ったんだが、一年の教室に行ったら翠はとっくにいなくなっててな」
どうやら翠が昼休みが始まって早々に移動したせいで、捕まえられなかったらしい。
同じく空き教室に集まっていた瀬里と十和にも渡せず、昼休みは亜緒と伊摩にだけ渡して諦めたと、隣太郎は翠に語った。
「瀬里には、さっき帰る前に渡したからな。これは翠の分だ」
「……うん」
普段の翠ならもっと大袈裟に喜ぶのだろうが、この時の彼女は感極まっていて、逆に感情を表に出すどころではなかった。
隣太郎が、自分のためにお菓子を作って来てくれた。
もしかしたら亜緒のオマケかもしれないけど、それでも妹分である自分を蔑ろにしないで、こうして手作りのお菓子を渡してくれたのだ。
――やっぱりリン兄は、私のリン兄なんだ。
「ありがと、リン兄! すっごい嬉しい! あと、すっごい美味しい」
「って、もう食べてるのか。まあ、味わって食べてくれ」
空いた席を適当に使い、隣太郎が用意してくれた使い捨てスプーンで、早くも翠はゼリーを食べ始める。
満面の笑みで喜ぶ彼女を、隣太郎も笑顔で眺めていた。
「そういえば、あと十和先輩にも渡してなかったんだ。三年の教室に行くから、一緒に帰るなら付き合ってくれ」
思い出したように言った隣太郎の言葉に、翠は内心でずっこけた。
昼に瀬里と話していた通り、なかなか二人きりになるのは難しいようだ。
――でもまあ、いっか。
今日の翠はご機嫌だ。
他の先輩だってゼリーを貰ったのだから、十和だけ仲間外れは可哀想だろう。
それに先に帰ったという瀬里も、実はどこかで覗いているのかもしれない。
そう思い直し、ゼリーを食べ終わった翠は、きっと二人きりではない帰り道を隣太郎と歩き始めるのだった。




