第29羽 危機
男は、台の上の女を見ていた。
冷たく硬い、睡眠をとるには不都合で不適切な、長方形の台上に女は寝かされている。
男の名はザキエル、ザキエルを名前で呼ぶ者はいない。帝、あるいは帝様。役職名で呼ばれている。
帝とは、虹の下の最高権力機関である、朝廷の最高責任者だ。平たく言えば国王である。
女の名はバニラ、召喚した大名のひとりであり、ザキエルの命でアヤカシに連れてこさせた人物だ。
ザキエルは寝台のバニラを見ていた。浅く上下する胸、つややかな唇。引き締まったくびれ、波のある髪と、細工の美しい髪飾り。どこにも欠落はない。
作戦はあっけなく成功した。
あとはいつもと同じ。
奪うだけだ。
奪い、盗み、掠め取り、他人のものを己が物へとする。
経口摂取することでアヤカシや大名の能力を、自分のモノにすることが出来た。能力を盗られた者は、その能力を発現することが出来ない。
まさに頂点に立つ者の力だと、ザキエルは確信している。
アヤカシの麻酔霧で眠らされたバニラは、今も眠っている。盗むにはおそよ百グラム必要である。今なら容易い。
仮にバニラが起きて、変身したとしても十分に対処は出来る。故により容易いとしたほうが正確だろうか。
七十を過ぎたザキエルの肉体は不自然なほど逞しい。数々のアヤカシの腕や足。触手や毛髪を食べたからだ。
肉体の逞しさだけではない、アヤカシや大名。呼び出した者達がそうであるように様々な異能も身につけていた。
朝廷の人員はこの地下に近づかない。地下に降りていく帝を目撃してもなんとも思わない、それどころか宮内でアヤカシが人を食べるところを見ても悲鳴すらあげない。
不自然なことを不自然であると認識できなくされていた。
自身の姿を透明にして出かけることも頻繁にあった。
秘密を知ろうとする者を細切れにしたこともある。
アヤカシの “製造” “維持” “使用” は日常に等しい。
力を使い。国の為に暗躍した。
国は、高みにある者をより高くすることで繁栄する。愚かな者共には到底わからぬだろうがそれが真理である。愚民もアヤカシも大名も全ては己という究極の一を創造する為の供物にすぎない。
そのように考えるので、ザキエル本人は盗むとは表現しない。国の全ては元々己の所有物なのだ。献上ですらない、返納に近い。
誰も知らないこの行為を単に儀式と形容していた。
ザキエルにとって儀式は善行であった。
これからのバニラにすることは“変化”を得るための行為であり、それは国を護り、国を高める崇高な儀式であった。
「はぁ」
ザキエルは地下の寝台に寝かせたバニラを目の前にして、ため息をついた。
毎度のことはといえ、国の為とはいえ、人を食うという行為を好んではいない。
人食いという行為に、忌避感を覚えたのではない。
不味いのである。
肉も毛髪も皮膚も、どこをとっても美味いところがないのである。国の最高権力者であるザキエルの食事は大変贅を凝らしたものであり、人という最低の食材を前に食指が動こうとしないのである。
「血だな」
ため息なぞついて考えるフリをしなくても、最初から答えはあった。
しかしあまりにも気乗りしないので、バニラを前に熟考という名の現実逃避をしていた。
バニラを無傷で手に入れるように命令していたアヤカシは、バニラを置いた後、倉庫に自ら戻った。
だからこの部屋にはザキエルとバニラだけだ、誰も見ている者はいない。
「やれやれ」
再度のためいき。
常人には理解しがたいザキエルの思考を、文章にすればこのようなものだ。
気がすすまない。気晴らしに、コントロールしていないアヤカシを外に放って暴れる様子でも見物しようか、民が苦しみもだえるのをみると胸がスっとする。
我が子を置き去りにして逃げる親、残されアヤカシに生きたまま食われる子供の絶望と苦痛の顔。対して、さも苦痛そうに安堵の表情の親。あれは見ものだったなぁ。飢えたアヤカシに人ではなす術がない。大名であっても困難な相手だ。立ち向かうリスクが大きすぎる。
アヤカシは脅威なのだ。脅威でなくてはならない。だからアヤカシをものともしないゼンライガーには消えてもらう。
力は有効に活用させてもらう。
その為に、血を……。
●
――ししおどしは聞こえない。
中庭には、重いもので押しつぶされたかのような残骸がある。
部屋の中ではフクオカが倒れている。バニラの姿はない。
「おい、大丈夫か?」
外傷はなく、眠って呼吸をするフクオカを見て、ライガーは少し安心する。
「フクオカ、おいフクオカ」
上半身を抱き寄せるようにしてゆすってやると、フクオカは目を覚ました。
「どうした、何があった?」
「お兄様。……ああごめんなさい、アヤカシが来たの、……もういないのよね。バニラさんは?」
「見当たらぬ」
「そう、連れ去られたのね。アヤカシが霧のようなものを部屋に噴いて、バニラさんが倒れた。おそらく寝てしまったのね。私も直後同じように寝てしまったから」
バニラが連れ去られた。
女中もバニラが連れ去られるのを目撃して、部屋で倒れるフクオカを見たと話す。
「なるほどそれで俺を」
状況はわかった。やることは明白。行く場所も明白だった。ライガーはバニラを追うと宣言し、フクオカには残って帰りを待つように告げる。しかし、素直に言う事を聞くフクオカではなく、ライガーはしぶしぶ承諾する。
「仕方が無い、解ったいいだろう。しかし条件がある」
「なんですか、お兄様」
「ガーベラにお前の護衛を頼む。アヤカシには勝てないまでも最悪お前を逃がすことぐらいは出来るハズだ」
「莫迦兄ですか、いいですけど、最悪ってもしかして死ぬおつもりですか?」
「死ぬつもりはない。ゼンライガーは強いからな。しかしお荷物を抱えたまま闘える状況ではないかもしれぬ。敵の総本山なのだろう。俺も全力を出したい」
「そこまでしなくてもいいじゃありませんか、相手は朝廷、逆らった後々のことまで考えれば、手出ししないという選択もありますよ」
「フクオカ……お前本気で言ってるのか?」
ライガーは怒り、目の前が白くなった。賢いフクオカなら、可愛い妹分なら俺の気持ちを理解していないハズがない。そう思っていたのが裏切られたような心境。
信じられない。
こんなときに悪い冗談を。
冗談を言っている顔じゃない。
本気で、本気でバニラを見捨てるつもりか、お前だって仲良くしてたじゃないか。一緒に暮らして、旅をして苦楽を共にしたじゃないか、それを見捨てようというのか。
白い思考が黒いものでぐるぐるかき混ぜられる。
ライガーが怒りで一瞬、ほんの瞬きの間だけ、我を忘れた時、フクオカは必要な動作と呪文を済ませていた。
フクオカに与えられた変身は不完全で、それゆえに弱く、それゆえに道具を必要としなかった。唇をなぞるという動作と、短い「変身」という言葉だけ。
フクオカは静かに、秘かに、胸の奥で怒っていた。自らの身を大事にしないライガーに、そこまでさせるバニラに、こんな事態を引き起こした全てに怒っていた。
真紅に染まった、形のいい唇で告げる。
「ねぇ本当にバニラさんが大事?」
ライガーに正体不明の衝撃がはしる。
「何もかも忘れて里に戻ってもいいんじゃない? 誰も文句なんて言わないわよ。バニラさんに出会ってから短い時間だったじゃない。出会う前に戻るだけよ」
バニラが大事、そうだそのハズだ。間違いないハズだ。しかし引っかかる。そうじゃないような気がしてしまう。これがフクオカの力か、いやしかし本当にフクオカの力か? フクオカの力だけか? 俺が欲しかったのは剣を振るう力であってバニラそのものでは無かったのでは? このまま里に帰るのが一番安全で幸せなのでは? 案外バニラも朝廷で幸せに暮らしているのでは? そうだとも、なにも朝廷に連れて行かれたからといって危険とは限らないではないか、俺は今ままで何を心配……。
「違う。そうじゃない、そうじゃないんだよ。俺はバニラの背中に救われた。蔑まれ、怨まれ、罵られても前を向く、あの笑顔に救われたのだ。ここで背中を向けたら俺自身を裏切ることになる。フクオカ、お前の心配はありがたく受け取った。だが心配するな、さっきも言ったように変身した俺は強い。朝廷にどんなアヤカシがいても負けはしない。絶対にだ」




