眼鏡ですが、異世界に行ったらご主人様でした
見えていたのは、頭上から落下する三メートルほどの長さの鉄骨。
いっぱいまで前へ延ばされた、ご主人様の腕。
そして、きょとんとしてこちらを見ている、ご主人様の同級生。
すぐに凄まじい衝撃と、ふっ飛ばされたらしき浮遊感を感じて。
私は、初めて無感覚というものを感じたのでございます。
ふわふわとした風が髪に触れて、目を開きました。横倒しになっていた視界には、密集した草が揺れています。
上から見下ろすと、一メートルほど離れた場所に、草に埋もれてもう一人倒れているのが判りました。見覚えのある制服の、あれは。
「樫井様!」
慌てて身を起こして、膝立ちで近づきます。
「樫井様! しっかりなさってください、樫井様!」
大声で何度も呼ぶと、小さな呻き声を漏らして、ご主人様の同級生である樫井様はうっすらと目蓋を開かれます。
ほっとして僅かな笑みを浮かべた私を不思議そうに見上げて、彼女は名前を呼びました。
「鯖江くん……?」
呆気に取られた私をまじまじと見てから、樫井様はがばりと上体を起こされました。
「どうした、鯖江くん! 髪の毛が白くなってるぞ!」
その叫びに、私は慌てて自らの全身を確認します。
それで、ようやく現状を把握致しました。
私の外見は今、ご主人様とそっくりになってしまっていると。ただ、ご主人様とは髪の毛の色が変わってしまっていますが、そんなことは些細なことです。
精神が入れ替わってしまっていることに比べれば、と言いたいところですが、現実には、更に驚愕すべきことがあるのです。
この私、実は、ご主人様の眼鏡でございましたので。
はい、はい、大丈夫です、現状は充分把握致しました。
目の前には驚きと不安の色を瞳に宿した樫井様がいらっしゃいます。
ならば、私の取るべき対応は判りきっておりますとも。
ご主人様が起きておられる間は常につき従い、同じものを見、何を考えられたか全て存じ上げている私、へまはいたしません。
何故考えていることが判るのか、は、おそらく、眼球というものは脳に直結する器官であり、私はそれをサポートするモノであったからではなかろうかと。
いえ、理屈がおかしいと思われましても、私、しがない一枚の眼鏡でしかありませんので、それ以上はどうにも。
ともあれ、私は明るい笑みを浮かべて口を開きました。
「あれ、本当だ。でも、樫井さんも髪の色が変わってるよ」
「え? マジで?」
慌てて、樫井様は前髪を引っ張って髪の毛を視界に入れようとしています。ショートカットですので致し方ないとはいえ、痛くはないのかと少々はらはら致しますね。
「ホントだ……」
彼女の髪は、柔らかなクリーム色になっておりました。
ちなみに、白い、とおっしゃられましたが、私の髪は銀髪でございました。お間違えなきように。
「ところで、ここはどこで、ぼくたちはどうしてここにいたんだ?」
きょろ、と、周囲を眺めて、樫井様は当然の疑問を口にされます。
「わた……俺も、先刻そこで起きたばっかりなんだ」
大丈夫大丈夫、メタルフレームだった私、樹脂製や木製に比べてダントツでクールだと言われた私です、へまなどいたしませんとも。
「うーん……。下校途中だったはずなんだけど」
腕を組んで、そう呟かれました。
「覚えてるのは、工事現場の横を通ってた時に、上から鉄骨が落ちてきて」
「はぁ!? オオゴトじゃん!」
覚えていらっしゃらないのか、そもそもそれを認識されてなかったのか。
それにしても、樫井様、普段はもう少しおとなしい方だったと記憶しておりますが。
しかし、素の性格は違うのかもしれませんし、この不可解な事態に混乱されているのでしょう。できる眼鏡は指摘などしないのです。
「この場所に見覚えは?」
「全然」
「俺も」
互いに認識をすり合わせて、眉を寄せます。
「とにかく、家や学校の近くでない以上、すぐに迎えがくるとは期待できない。向こうの方に道のようなものがあったから、行ってみよう」
立ち上がり、ズボンから草を払う前に、片手を差し出します。
一瞬きょとんとして、樫井様は困ったように私の手を取られました。
このお方、数年前の事故で足を痛めてしまわれたのです。
それまでは活発で、ご主人様よりもよほど走るのも早かったほどなのですが。
杖を使えば歩くのには支障がないとはいえ、おいたわしいことです。
「鞄も杖もないね……」
周囲を見回しても、二人の荷物は何も見つかりません。
「そういえば、鯖江くんの眼鏡もないけど、大丈夫?」
「え、あ、うん。でもなんか、裸眼でもよく見えるから平気」
不思議ではありますが、これは私が眼鏡であるからでしょうか。
首を傾げながら彼女に手を貸して歩き出します。しかし、数歩進んだところで、樫井様は立ち止まってしまわれました。
「どうしたの?」
「いや……なんか」
片脚で立って、もう一方の脚をゆらゆら揺らしているかと思うと、樫井様はぱっと手を離し、いきなり走り始めたのです。
「え!? ちょっと」
慌てて後を追いますが、追いつけません。
ご主人様が元々インドア派で、本ばかり読んでいる方だったとしても、あれは常識的な速さではありません。
あっという間に遥か遠くに行ってしまわれた樫井様は、くるりとUターンすると、こちらへ戻ってこられました。近づくにつれて、笑い声が大きく響いてきます。
「はは、凄いぞ鯖江くん! 全く痛みも違和感もない!」
「……うん、凄いね」
不思議ではありますが、そもそも不思議ではないことなど何もなかったのです。
私はその後も走りたがる樫井様を諌めながら、目的の道路へと辿り着きました。
「舗装してないな」
土がむき出しになった一本道が、見渡す限りの草原を貫いています。
いえ。
「こっちの先に山があって、その近くに街……っぽいのが見える」
「え? マジ?」
樫井様は目の上に庇をつくり、懸命に見通そうとしていましたが、やがて諦めて手を下ろしました。
「じゃあ、とりあえずそこに行こうか。街なら警察もあるだろうし、うちに連絡してもらえる」
頷いて、私たちは道の上を進み始めました。
私が目にした街の姿が、見慣れたものとはかけ離れていることは言い出せないまま。
「なー、おぶってやるから走ってこーぜ」
「やだよ」
「じゃあ、ぼくだけ先行するから、ゆっくり来いよ。迎えに来て貰うから」
「何度も言うけど、知らない場所で単独行動はしない方がいい」
「そんなこと言って、何も起きてないじゃんか」
唇を尖らせる少女に、溜め息をつきます。
よほど走りたいのでしょうが、ここは少し慎んで貰わなくてはなりません。
「たまたま何もないだけだろ。一人になったら、手に負えない事態が起きるかもしれない」
「でも……」
「そもそも、俺たちがここにいる時点で、もう何かが起きてるんだから」
流石に反論できずに、彼女は黙りこみました。
一時間ほどは、黙って歩き続けたでしょうか。
私は、視界に入ったものに気づいて、足を止めました。
「どうした? 疲れたのか?」
「何かが来る。右側」
問いかけに、低く答えます。
きょろきょろと見回して、彼女は眉を寄せました。
「何もいねーじゃん」
彼女には見えないのでしょう。
私が、ご主人様の身体を得た時から、私の視力は格段に上がりました。
それは、見える距離だけではありません。
何やら半透明の、直径三センチばかりの球体が二つ、私の意のままに虚空を動き、その周囲の様子を見せてくるのです。そう、さながら、眼球のように。
私はそのうちの一つを常に上空に浮かべて周囲の様子を観察していたのですが……。
まるで海のような草原の中、波を切って近づいてくる何かがいたのです。
「樫井さん。俺が合図したら、思い切り走って」
「は?」
不審そうな声が上がります。
ですが、こちらが気づいたと知ったのか、近づいてくるものの速度が上がります。ぐずぐずはできません。
私には、ご主人様のお身体を護り通す責任があると自負しております。
ですがそれ以上に、ご主人様のお心を護らねばなりません!
「行って!」
叫んで、軽い身体を突き飛ばします。不意を衝かれた樫井様は、数歩よろめきました。
私は身体を捻り、草原から飛びかかってきたものを食い止めようとしたのですが。
それは予想よりも遥かに大きく、そして勢いよく襲いかかってきて、私は一瞬で道に組み敷かれておりました。
「な……」
巨大な顎が目の前に迫ってくるのを、運良く両手で押し止めることができました。腕を咥えこまれでもしていたら、即座に噛みちぎられていたでしょう。
「何だよ、こいつ!?」
樫井様が驚愕の叫びを上げられます。
「名前、は、コロコッタ! 雄! 五歳! 狼に似た体躯で、旅人を襲うもの! 特徴は、口腔内に生えてるのが歯ではなくて骨で……うわ、本当でした気持ち悪い」
「君、何を言ってんの!?」
混乱した叫びを上げられました。
何と言われても、訊いたのは貴女なのですが。
この襲ってきた獣の姿を直接目にした途端、それに関する情報が一気に見えてきたのです。
流石の私も少しびっくりです。
とは言え、質問に答えている場合ではありませんでしたね。
「いや、いいから逃げて!」
ぐぐ、と、私の喉笛を狙うコロコッタをぎりぎり防ぎながら、声を張り上げます。
樫井さんは、くるりと方向を変えました。コロコッタの、背後へと。
「この野郎……! 鯖江くんを離せ!」
そして、怒声を上げたかと思うと。
その、すらりとした細い足で、勢いよく獣の股間を蹴り上げたのです。
びくん、と、その巨躯を震わせたコロコッタは、一瞬で白目をむきました。だらだらと流れていた涎は白い泡に変わり、ずるり、と力の抜けた体がのしかかってきます。
「うわ、ちょっ」
慌てて逃げ出そうと身体をずらしますが、間に合わずに下半身を挟まれてしまいました。
「ふぅ。大丈夫かい、鯖江くん」
爽やかに汗を拭う素振りで、樫井さんがこちらへ回りこみます。
「えげつないことを……」
私が眼鏡でなかったら、見ていたこっちまで失神しかねない威力でした。
ともあれ、下半身だけなら抜け出すのは苦ではありません。脚を引っ張り出して、私は大きく呼吸をしました。
「俺は、君に逃げろって言ったよね?」
「悪いが、鯖江くんにこれを食い止める力があるとは思えないな。それに比べて、ぼくにはこの脚力がある」
確かに、人間離れしたキック力でしたが。
言葉を返せなくなった私は、涎でべたべたする掌を、獣の毛皮にこすりつけました。……あまり、綺麗になった気はしません。
「……しかし、趣味が悪いと思ってたが……。これは惚れるのもまあ、判るか」
樫井様が何やら呟かれたようなので、顔を上げます。私、生憎眼鏡なもので、聴力は人並みなのです。
「ああ、それ、死んだのかい?」
問いかけられて、首を振ります。
「いや。気絶してるだけだ。目が覚めて追われる前に逃げよう」
小走りで道を進み続けて、ようやく樫井様にも街の様子が見えてきたようでした。
「あれ……?」
道の先は、三メートルほどの土塀で遮られていました。その手前には丸太で組まれた防御柵のようなものがあります。
道は、ちょうど土塀に作られた大きな木の扉の間に続いていました。
「……テーマパーク?」
「お客が来なさそうだね」
呟きに思わず返すと、睨みつけられてしまいました。
幾ら巨大な獣を一撃で伸してしまうとはいえ、か弱い女学生です。少々配慮に欠けましたか。
私は、彼女の手を柔らかく握りました。
「行こうか」
「……うん」
そうして、私たちは、街へと近づいていったのです。
◆ ◇ ◆ ◇
消毒液の匂いのする廊下を進み、談話室へと入っていく。
所在なさげに、一人の少女がソファに腰かけていた。
「樫井さん?」
声をかけると、ぱっとこちらを振り向く。
「鯖江くん! もう、大丈夫なの?」
「うん。ちょっと頭から血が出てただけだから。大袈裟なんだよ」
ぼんやりとした視界の中でも、彼女が表情を緩めたのが判った。
「頭を打ったんだから、ちゃんと診てもらわないと駄目よ」
「俺より、樫井さんの方が」
ソファの横に立てかけてある松葉杖を見る。
「あたしは軽く脚を捻っただけだもの。どのみち、歩くのには杖がいるしね」
「その冗談、どう返せばいいの」
呆れた風を装って返す。俺たちは、小さく笑いあった。
「ありがとう、鯖江くん。君が突き飛ばしてくれなかったら、あたし、鉄骨が直撃してたって」
「無事でよかったよ」
「お互いね。まるで、杖と眼鏡が身代わりになってくれたみたい」
ひしゃげてレンズが割れてしまった銀縁眼鏡と、真っ二つに折れたクリーム色の杖を思い出す。
「お父さんが、病院の費用の他に、眼鏡の代金も出したいって。新しいの買ったら、領収書取っておいてね」
「悪いよ」
「鯖江くんは生命の恩人だもの」
微かに視線を逸してそう言った樫井さんの顔色は、残念ながら裸眼の俺にははっきりとは判らなかったのだった。