桃色の彼
――あ、今日もいる。
私は鮮やかな桃色の髪の毛が、今日も満員電車の車内で見え隠れしている事に、なぜか安堵している。一昨日昨日と見なかったけれど、今日はいてくれた。別に知り合いというわけでもない、ただ電車の中でよく見かける桃色に染めた髪の主。
数日前やときおりの例外を除けば、週に6回。
毎日ともいえる程頻繁に見かけるその髪色は、アンチ染め髪の私とはいえど妙な親近感を抱き始めるほどだった。
『今日は大学何時までなの?』
微かなスマホのバイブ音を感じれば、母からのメッセージ。西の空に日が沈んでいく様子を車窓からの眺めをそっと見てから、家の帰国時間を簡単に打ち込んで返信した。数分も経たずにわかった、という文字だけの返信通知が表示されたのを確認してから私は目を閉じる。左右前後に揺れながら進む車両、こっちへあっちへユーラユラ。大学からの帰り道、いつも電車の中でうたた寝してしまう私は、ウツラウツラ。
夢と現実の狭間をさまよいつつ、あの日の事を思い出していた。
「だからいやになっちゃうんだよねー」
「ふーん……」
「あんた聞いてないでしょ」
「聞いてる、けど。たぶん」
それは初めて彼が現れた日だ。偶然、同じ電車に居合わせた中学時代の友人と他愛もない会話をする私の目の前に来た彼の髪は――正直、悪目立ちしていた。その短髪の色は桃色。ちょうど春の、桜が少し咲く前のことだったから、私はその桃色を見て改めて、春の訪れを実感したんだっけ。
「でさ、中学の頃さー」
「うん」
「あの子たちつきあってたじゃん?」
「うん」
「今度結婚するらしいよ」
「うん」
「びっくりだよね、ってかどんだけ長い付き合いよ」
「うん」
「……あんた。話聞いてないでしょ」
「うん」
「……」
友人は話を聞かない私に膨れっ面だったが、私の目線の先に彼がいることに気がつくと、にやりと笑った。
「べつに」
別に何もないから――恋バナと噂をを生き甲斐にしている彼女の笑みに嫌な予感がして、先手を打とうとした瞬間、電車が急ブレーキをかけて停車した。
予期せぬ慣性力に逆らえず、私は車内前方につんのめる。あら、と何食わぬ顔で近くの鉄棒に捕まった友人の横で、私は支えのないまま、満員電車の中で前方の人に頭突きを食らわせてしまうことになったのだ。
「いっ……たぁ」
全力で前に立っていた人にぶつかった私が、でこをさすりながら目線をあげると、そこには遠くに見えていたはずの桃色の髪の毛。ごめんなさい、とつぶやいた小さな私の声を聞き取った彼は、ただうなずき、数秒後こう返した。
「仕方がない」
彼の口からもれたのはその一言だけで、その後手に持っているスマホに視線を移した彼を、私はしばらく見つめていたような気がする。
「で、どうなのよ」
「何が」
「桃色の人」
「……誤解を解いておくけど、私はあの人の髪の毛の色が鮮やかで驚いていただけだから」
「ふーん?そうなんだ」
その後何度も電車内で会うようになったあの日の友人は、今も私に近況を尋ねる。彼との近況、そんなこと言ったって私には何の接点もないっていうのに。
「ただ、珍しいなぁって思ってたんだもん」
「でも、まぁ……本当目立つよね、あの人」
彼女の言葉には私も賛成で、頷こうとしたところ、再びそれは起こった。
キキーーーーッ
急ブレーキ。
「あれ」
「あら」
つんのめる先には、なぜか遠くにいたはずの、桃色の髪の毛。見事に彼のおでこに……
でことでこでゴッチンコ、する。
「痛っ」
さすがに、この反応を示さない方がおかしい。でこをさする桃色髪の彼、心なしか目が少し潤んでいる気がした。
「ご、ごめんなさいっ」
「まぁ仕方ないから、いいよ。……3度目はないといいね」
この言葉を理解するのに要した時間は数秒。
しかし、予期せぬ言葉に、私はふさわしい返答を見つけることはできなかった。
「え?」
覚えられていた?
私は慌てて頭を何度も下げ、友人の元に戻るのだった。友人には、顔が真っ赤だと揶揄われたが、そこは笑顔で受け流しておいた。
偶然だ偶然、2度あることは3度もない。
「2度あることは、3度ある、だよね」
友人のしたり顔に、私はそんなはずはないと否定して、降車駅へ到着した彼女を見送った。
それから2週間。外の日差しも厳しくなり、立っている車内には冷房がつけられているようで肌寒い。
最近の電車は窓自体にUVをガードする効果があるようで、古い車両につけられているブラインドはない。UVはガードできていても、視覚的にはまぶしいのに。
「……ん?」
そういえば今日も、桃色の髪が見当たらない。
最近は彼が現れる頻度も減っていたため、もしかすると電車に乗る時間帯が変わってしまったのか。
『おはー、今日は桃色彼氏いる?』
朝からやたらと高いテンションの友人の期待には、応えられなかった。
――と残念に思っていた私の気分は、帰路の電車の中で桃色の髪を見つけた瞬間、一気に舞い上がった。そこに母親からのメッセージ。返信もしたため、後は最寄り駅に電車が到着するのを待つばかりだ。
「ふ…ぁ」
安堵からか一瞬のうちに睡魔に襲われた私は、視界にその桃色をおさめながら、少しずつ夢の世界に誘われていった。
【次は終点――駅】
「……えっ!?」
次に目を覚ました私は、電車の中にいたことも忘れ、素っ頓狂な声をあげてしまった。
静かな車内には全く似合わない、あほ丸出しの言葉。
私の最寄り駅は、終点駅ではない。つまりほぼ間違いなく私は寝過ごしてしまっている。私の事情など梅雨知らず、私の声で不機嫌そうに顔をあげた数名の乗客に心の中で謝りつつ頭を下げる。
ぺこぺこ、頭を下げていたところで、自分の視界に桃色が映った。
桃色の人、私よりいつも先に電車を降りるのに。
「っ!」
彼の顔が勢いよく上がった瞬間目が合い、息をするのをしばらく忘れてしまった。
「ふぅ……」
呼吸を取り戻した私が観察するに――桃色の彼は、私と目が合ったことに驚いているというより、私と同じように終点であるという事実に驚いているようだった。私は彼がどこの駅で降りるのかを知っている。朝は乗り込む姿を見る余裕もない満員御礼状態だが、帰り道は比較的余裕があるからだ。でも彼は私がどこから乗り、どこで降りるかは知らないはず。
彼の眉があからさまに下がり、困り顔。初めて感情を全面に出したような表情を見た私は、思わずスマホでそっとその姿を隠し撮りしていた。便利にも、このスマホは今の最新版よりも数世代前のもので、カメラのシャッター音は壊れて鳴らなくなっていた。
人が雪崩のように外へ押し出されていき、代わりに折り返し運転するために座席争奪戦を繰り広げる人で車内が一時ざわめいた。桃色の彼は状況が把握できていないようだが、私はこの折り返し運転する電車が【彼の最寄り駅に停車しない】特急電車に変わることを知っていた。
言うか。
そのままにするか。
罪悪感と羞恥心がせめぎあう中、桃色の彼はそのまま寝なおす体勢に入ってしまう。
あぁ、もう。
仕方ない!
「あ、あの!」
乗車する1時間の間、さきほどの素っ頓狂な「え」の声以外発しなかった私の声は乾燥していた。いつもよりかすれた声は思いのほか音量が大きく、折り返しの発車を待つ人々からの視線が痛い。
「え?」
目の前の――桃色の髪の持ち主は顔をあげ、困惑しているが、声をかけてしまった以上、事情を説明すればいいだけの話と私はとうとう割り切ることにした。
「いつも降りる駅、この電車特急になるのでとまりませんよ」
今度は音量の調節を間違えず、彼に聞こえるくらいの小声に落とした。彼は言葉を理解するのに数秒を要したが、すぐに「ありがとう」と軽く微笑み、立ち上がる。
「3度目はなかったけど、逆に助か……りました。ありがとう」
ホームに降りた私と桃色の彼は、次の急行列車を待つためその場にとどまることになった。私も寝過ごしてしまい、急行列車に乗らなければ最寄り駅に着かないことを説明すれば、お互い疲れてるね、と笑いあうだけだった。
「毎朝電車に乗ると、結構同じ顔触れなんだよね」
敬語があまり得意でないという彼は、そう言って、「あなたのことも一応顔だけは知ってた」と告げる。それは私のセリフでもある。彼の髪色を考慮すれば、なおさら印象深いのは彼のほうだろう。
「バイトの帰りで。昨日も寝てなかったからもう意識がなくって」
「徹夜ですか?」
「いや、まぁ……親が酔いつぶれたとかで、回収しにいったら思いのほか面倒に巻き込まれて」
「大変です、ね」
そんな風に雑談をしているうちに、特急列車は発車し、折り返しで急行列車となる電車がホームに入ってきた。そのとき私のスマホが揺れる。
「も、もしもし?」
隣の彼に頭を下げ、通話ボタンを押せば父親だった。今日は定時に帰宅し、母親から私の帰宅時間が教えられていたという。帰宅予定時間を15分以上過ぎていれば、さすがに電車が止まったかと心配になったようだ。
「寝過ごして終点まで行っちゃたんだ。……うん、うん。え?お母さんが?わかった」
電話を切ると、私を待ってくれていたらしい彼は「入ろうか」と言い、私は促されるままに車内へと向かった。
そんな、私にとっては衝撃的だった出来事があってすぐ。
梅雨の季節だからか、体調を崩して学校をしばらくお休みした。
「で、それから何かあったわけ?」
「なんにも」
「はぁ!?」
変わらぬ日常は、時々鉢合わせる友人の百面相によって少しだけ面白く演出される。
梅雨も明けてからりとした晴天、外の暑さを遮る扉のわきで、冷房にあたっていた私に、唾をも飛ばしてきそうな勢いの彼女が迫った。
「だってあの愛しの桃色彼s……」
「それは言わないって約束でしょ!?」
「あ。そうだったねぇ~そうだったそうだった、ひひひひひ」
下品な彼女の笑い声とその表情にチョップをかます。
とはいえ――自覚は、ある。正直に認めようではないか。
「でも、本当に愛しの~……になっちゃうとは思わなかったけどねぇ」
「完全に一方通行ですけどねぇ~」
話している間に、ふと彼が乗り込んでくるであろう駅に電車が到着した。緊張が、ひとりでに私の背筋を伸ばしていく。そういえば、私が休んでいる間に、電車に乗る人は少なからず減っているようだった。
「あれ?」
友人も、もちろんそれよりも早く私も、その日の異変に気が付いた。
「今日はいないわけ、桃色」
「……そう、みたいだね」
桃色の彼はいなかった。
「長い長いこじらせ病から復帰したらこれとは~あんたも災難だねぇ」
「うるさいなぁ」
桃色はいない。
なんとなく、もう会えないのかもしれない、そう思った。
桃色の髪は、春を連想させる色。
表情は――桃色の髪に印象が持ってかれてはいたけれど、優しそうなたれ目。
髪の毛の色のわりに、礼儀正しく、席も妊婦さんやお年寄りに譲る人。
イヤホンは音が漏れないようにしていたし、ぶつかった時だって私がふらついていたのに、それを責めることはなかった人。
「桃色の髪の人って案外礼儀正しい好青年だったよねぇ」
「……まぁね」
「あんたみたいな、ザ凡人みたいな顔の人には合わないだろうけど」
「うるさいな」
「桃色の髪、明日は見られるといいね」
「うん」
でもその翌日も、翌々日も、桃色の髪は見られなかった。
――――――
「おはー!」
夏も夏、暑さのピークを迎えた今、友人は私にプールの誘いを持ってきた。
「無料開放だってさ!」
「人が多そうだから遠慮しとく」
「えぇ~行こうよ~!」
ぐらぐらと肩を揺さぶられ、軽い脳震盪が起きそうだ。これ以上揺さぶられては困ると、友人から離れようと立ち位置を変え――――
キィィィィィィィィ……ゴチン
「あっ!」
「いっ!!」
桃色の髪は、「青い髪」になっていた。
「……ご、ごめんなさい」
「3度目……あったね、久し、ぶり?」
「青く、なりましたね」
「うん、青くな……りました」
桃色の彼は、青色の彼に変わっていた。
お読みいただきありがとうございます。
完全に続ける気満々ですが連載作品にして放置になるのを恐れて短編にさせてもらいました。
後悔は多分して、ない。2015年からずっと下書きに入っていたので、思い切ってとあげました。
名前すらない登場人物、どうしよう。
このような作品でしたが、ここまでお読みいただけてありがたく思います。本当の意味で久々に書いたので(※今年に入って執筆した作品は全て過去作品や下書きに入っていたものでしたので)拙い文章だったかと思いますが、感謝です。ありがとうございました。
またどこかで皆さまと出会えますように。
Someone's Egg