上 僕と君の帰り道
「なんだか恋と死って似てない?」
君はとっておきの秘密を僕にこっそり教えるかのように僕に近づき、声を震わせた。
聞き慣れたソプラノの声によって放たれたその言葉が一字一字耳から侵入し、脳へと棲みつき、そして未だ居座っている。
二人並んで帰ったあの日からもう何年経つのだろうか。少なくとも「長い間」という言葉でくくれるほどにはなってしまった。
君の矛盾した態度。語った言葉の数々。そして最後のやり取り。
君との思い出は僕の頭の中で他の有象無象と分別されて、大事にアルバムなんかで閉じられて、色褪せるなんてことは死ぬまではまずないだろう。
だってそれがあの時の君の問いに対しての答えだから。
だってそれが僕にとっての君への
――『愛』だから
*
茜色に染まった透き通った冬の空を見向きもしないで僕たちは帰り道を歩いていた。
スクールバッグを肩に掛け、お嬢様のように凜とした姿をしている隣の女学生。そんな彼女とはなんだかんだの腐れ縁でその付き合いは幼稚園から始まり今に至るまで、大体十年そこらといったところだ。仲が特別良いという程ではないが如何せん家が近いのでこうして二人で帰ることも多々ある。
僕と君――普段は彼女のことをそう呼んでいるのでこれで行こうと思う、の関係を簡単に表すと迷惑をかけ、かけられ、かけられ、かけられる。そんな感じだ。君はそのくせ無駄に外面がいいからいい子だねとかしっかり者だねだとか近所の人たちに言われているがとんでもない。少なくとも君はしっかり者ではない。
と、君は歩道に転がっている小石を見つけ、革靴で軽く蹴飛ばして唐突に僕に尋ねた。
「なんだか恋と死って似てない?」
また始まった……そう、彼女はちょっと訳の分からない、もとい独創的な人なのだ。たぶん将来は詩人にでもなるつもりなのだろう。意味不明なことを急に言い出すことが本当に多い。なんでそれなのに友達づきあいができるか全く謎なのだが……それはまた別の話だ。
さて、そんな常識から数キロ外れて歩くのが得意な君だが、今日はいつもより一層意味が分からない。恋と死が似てるだって?
どう思う? と興味津々といった感じで僕の顔を覗き込む君にダメ元でそう思い立った理由を聞いてみる。
「どこが似てるの?恋と愛なら分かるけど」
「だって両方訪れるのは一瞬じゃない。継続した恋、継続した死って聞いたことある?」
ほら、理解不能。みんなごめん、凡人の僕では分からなかったよ……相変わらずの君の言動に諦観しながらもとりあえず何とか分かるところを拾っていく。これがまた大変だ。
「継続した死はともかく恋って継続するものだと思うよ。一般的なお付き合いって恋が長く続いてそこから愛に変わるものじゃない?」
そう応えた後、なんだかこんな話をしているのが恥ずかしくなって口元をマフラーで隠す。君はそんなことも気にせずに続ける。完全に自分の世界に入っちゃったなこれは。でも、実はこうやって君の話を聞くのは嫌いじゃなかったりする。まあ、そうでもなければこうやって毎回真面目に取り合うわけないけど。
「ううん。恋はやっぱり一瞬だよ。そこから妥協と馴れ合いの果てに愛があるんだよ。だって恋が継続するなら世界はもう少し優しくなれるはずだもん。」
「君の言う愛はそういうと汚いものに聞こえるね」
「だから恋と愛は対義語だよ。」
君はうつむいて小石と戯れながら、なぜか得意げに言った。Q.E.D.証明終了ってところなんだろう。たぶん僕が数学者だったら軽く怒るレベルの論理の飛躍を見せてくれたが、それが彼女が言うと正しいように思えてくるから不思議だ。
恋と愛か……あんまり深く考えたことなかったけどなんでこの二つは別の言葉なんだろう。もし僕が誰かにその違いを説明してと言われてもなんとなく大体一緒な気がするとしか言えない。だけど君は自信満々で二つは正反対のものだって言った。僕にはどっちが正しいかなんて分かるはずないし、これからも分からないまま生きていくんだろうと思う。
一つだけ確信を持って言えるのは、その答えは辞書とかネットには答えは書いていないはずだということだ。きっとそういう問題はもっとプライベートなもので、人それぞれが心の中に仕舞い込んでいるものなんだと思う。
そして君は軽くスキップをして僕の数歩前に立つとくるっと振り返る。
風に舞ったかのように君の黒髪が散らばり、空の色に染まった。
「じゃあ、分かりやすいように例を挙げて説明してみましょう。じゃあ例えば私と君」
君は私と言って自分の胸に指をさし、それから君と言って僕に一指し指を向けた。
「私がもし君に恋に落ちたとします。そして、なんやかんやあって付き合うことになったとします。その時の私の気持ちは果たして最初の頃と同じ気持ちでしょうか」
「少しは変わるんじゃないかな。例えば……」
僕がなんとなく思った考えを表す言葉を探していると、君は僕を待たず話し出した。
「そう、例えば君が私と付き合っているのに誰か別の女の子と帰ったとします」
「僕はそんな浮気性じゃないけどね」
「例えばの話だってば。すると私はどう思うのでしょうか。……きっと私は何で私の君をあんな奴が取ってるのと思うはずだよね」
なんとなく彼女の言いたいことが分かった気がする。つまり彼女の中の「恋」という言葉の意味は常に一つだけの限定的な意味しか伴ってはいけないわけで、そこにまかり間違ってもほかの気持ちは混じってはいけない。だから恋は一瞬だということなんだろう。そんなもの本当にあるのかな。
「それは恋じゃなくてただの独占欲だってこと?」
「支配欲でもいいよ。なんなら自分勝手でもいいや。ほかにも例はあるよね。楽しく二人で帰っているときに何とも言えない幸福感を感じたとしよう。それは一体何と呼ぶべきかな」
君はそう言ってさっきと同じように僕を覗き込んできた。しかしその艶やかな瞳に映されているのは僕じゃなくて、もっと遠いものな気がした。能面のような無表情。きっといつもの君の意味不明な言動は君にとって全部正しいことなんだ、と素直にそう思えた。
僕は少しだけ言葉を選んで、君に遮られない程度の間を開けて答えた。君は僕の後ろにあるさっきの小石のところに戻り、また蹴り始めていた。
「愛、かな」
「うーん、ちょっと違うかな。答えは妥協だね。満足したってことは今の自分を認めたってことだから」
「さっきなんか似ていること言ってたよね。なんだっけ」
「愛は妥協となれ合いの果てにあるって話?そう、そういったことを繰り返してお互いが馴れ合って、許しあって愛なんていう偶像が作り上げられていくんだよ」
そう吐き捨てながら強く蹴った小石は僕の横を通り過ぎ、歩道から逸れて車道の真ん中ぐらいで止まった。振り返って見た君は、いつものおちゃらけたような感じの君じゃなくて、時々見せる何かを猛烈に憎んでいるような君だった。
君の吐き出す息が白く染まる。それがやけに似合っていてなんだかおかしかった。
思えば君がそういう一面を見せだしたのはいつからだったのだろう。僕にはどうにもおかしなことなのだが、最初あった時から変わらず同じ君であったような気がした。いつもは常識はずれな言動を宝物を二人でこっそりあけるような感じで話す君。そして忘れたころにちらりと見せる雪女のように冷徹な君。僕の君に対するこの評価は思い出せる限りだと変わっていない。
「じゃあ、今度は質問です」
「なんでしょうか」
再びおどけた調子に戻った君と交わした会話。そこで少し空いた空白。君が言葉に詰まるなんて珍しい。何か大事なことなのだろうか。もしそうならば、なんとなくきちんと答えてあげたいと思った。
君が意を決したように口を開く。
「……君は私に恋していますか?」
――ああ、そういうことか。本当に君はいつだって非常識で逆説的で矛盾している。
君に対する応えは分かっている。僕の中にある答えもわかっている。ならばどっちを選ぶべきか、それもわかっているはずだ。
これはいつもと同じ帰り道。これからも続いていく日々の一つでしかない。
だから、僕の気持ちはきっと、
「いいや。だって恋は一瞬だからね」
「ふふっ、そういうと思った」
僕がそう言うと君は楽しそうに笑った。それが今まで見たことのない君であったことに僕は驚いた。なにか変なことを言っただろうか。
君は隣で日の沈みかかった空を見上げた。そして、聞こえたのは足音にもかき消されそうな小さな声。
「じゃあ私の恋はどこにあるんだろう」
たぶん独り言とも言えないようなものだったのだろう。でも、僕の耳に君の声は届いていた。だから、聞こえないふりをした。
君と同じ方向の空を軽く見上げ、そこからは一言も話さず帰った。
君の笑ってる姿がどうにも泣いているように見えたのは僕の気のせいだろうか。