〔彼-hi〕② 夏が始まる
全てが夢であったならと願い、目を閉じた。そうしていれば自宅の自分の部屋のベッドの上か、あるいは学校の教室の机に突っ伏しているかのどちらかの現実に舞い戻れると思っていた。
しかし今こそが現実だった。昨日まで一年ほど通っていた高校の上空、何もない空中で膝を抱えいるこの現状こそがリアルなのだ。
目を閉じたところで眠ることはできないし、眠れないことに疲労さえ覚えない。肉体を失ったのに全身は自在に動き、思考さえできる。ただ、各感覚器官は曖昧になっている。自分の肌に触れても温もりを感じないのに、死んでも尚着たままの学校の制服をつまみあげると綿特有のさらりと乾いた肌触りが指先に返ってくる。
夏だというのにやけに長く思えた夜を越え、古城ミチヒデは死んだ直後と同じ高校の渡り廊下上空にいた。動けなかったのだ。空中を歩く勇気もなかったし、歩いたところでどこに向かうべきかも分からなかった。当てもなかった。ただずっと、渡り廊下の様子を眺めていた。
昨日ミチヒデの肉体――遺体を前に、先生や生徒が途方に暮れ咽び泣いていると、通報を受けて駆けつけた救急隊員が彼の死亡を再確認した。一足遅れて到着した警察が現場保存のために動き出した。あっという間に渡り廊下は封鎖され、立ち入りが制限された。俗に言う、実況見分が開始されたのだ。
しばらくして警察関係者が出揃ったころには、渡り廊下のミチヒデの遺体はブルーシートで作られたテントの中に隠れてしまった。事故か事件か。それを明らかにするために刑事は遺体の第一発見者である葦原や来宮から仔細を伺い、安井教諭や養護教諭からも証言を取っていた。鑑識もあらゆる手を尽くして状況を整理し、それを刑事らに伝えていた。
もうとっくに下校時間であるというのに、多くの生徒が教室の窓からテントに注目していた。そこに不謹慎などという観念はないのだろう。携帯電話やスマートフォンでこの状況を動画や画像に収め、しかもネット上に投稿する者までいた。ミチヒデがそんな野次馬達を腹立たしく思っていると、グラウンドにいた運動部の生徒が悪態をついた。どうやら顧問の先生から今日の練習は中止だと言い渡されたらしい。
誰やねん、死んだ奴。うざいわぁ。
それを近くで聞いていたテニス部員が怒り、ミチヒデの代わりに責めたててくれたのだが、あわや殴りあいの喧嘩に発展しそうになるところだったので何とも心苦しかった。
やきもきするばかりで、空中で何もできないまま時が経った。呆然としていると、渡り廊下に見慣れた男女が現れた。両親だった。ブルーシートの前で母は頽れてしまい、父はそんな彼女の肩に腕を回すと、抱え起こすようにしてシートの中に入った。
悲鳴が、真夏の空を貫いた。
彼らに何度も名前を呼ばれるたびに、ミチヒデは全身に走る痛みに苦しんだ。それはやがて激しい怒りへと変わり、彼を死に追いやったもう一人の自分への恨みへと変貌した。
そして一夜明けた今、ミチヒデは立ち上がり、獣のように吠えた。言葉にならない怒号を天に向かって放った。その身体はやけに重く、熱く感ぜられた。まるで自分が自分でいられなくなるような感覚さえあった。それでも叫ぶしかなかった。声にするしかなかった。
どうしてオレが、オレだけがという悲しみを胸に。
「やっかましいわっ!」
スッパーンと軽快な音がした。ミチヒデは後頭部に受けた衝撃で前のめりに倒れ、あまりの激痛に患部を押さえた。
目を白黒させながら振り返ると、そこには少女の姿があった。バスガイドらしきコスプレをした、同年代くらいの女の子だ。自分と同じように何もない空中に立っていた。と、いうことはつまり――。
「はじめまして、死人さん。魅惑の天界へご招ちゃいっ」
噛んだ。ミチヒデの前に手旗を掲げて堂々と格好良く名乗りを上げようとしていたが、肝心なところで豪快に噛んでしまった。
唖然とするミチヒデが喉を震わせる寸前、少女は赤らんだ顔を手旗で隠しつつ、「テイク2」と再戦を申し入れた。
「は?」
「いや、もっかい“どつく”から、さっきみたく恨めしそうに振り返って」
「もう一回って、はぁ?」
飲み込みの悪い彼に苛立ったのか、少女は素早く彼の背後に回りこみ、腰に携えていた長さ八〇センチメートルほどのハリセンを再び彼の後頭部に殴りつけた。幅五センチメートル、蛇腹状に折られた二重の厚紙を張り合わせて作られたそれは、“殴るため”に作ったという発明者の意図を十二分に全うしていた。
またもや空中の足場に額をこすりつけたミチヒデは、「何すんだよ!」と振り向きながら声を荒げた。そんな彼の視界に彼女の所属を記しているらしい手旗が現れた。
「はじめまして、死人さん。魅惑の天界へご招待、天界しょうげーシェンターでひゅ♪」
「…………」
「テイ――」
「テイク3はないからな」
彼らの、短い夏が始まった。




