〔夢-mu〕⑤ アナタが最期にできること
それは確かに温もりだと思った。滲むように広がる、人肌の温もりだった。そんなものは死んでから今日まで、久しく感じた覚えがなかった。
我に返ると、傾いた身体を少年が後ろから抱えてくれていた。その横顔はとても凛々しく、男らしいとさえ思えた。彼は、口を開いた。
「ハナ。あと少しでいい、力を貸してくれ。来宮が危ない……!」
興醒めだったが、覚めて良かったのかもしれない。彼には先に、果たすべき恋があるのだから。
ドッペルゲンガーによる記憶の集中砲火に圧倒され、意識を持っていかれていたようだった。神野ハナは落としていた帽子を被り直し、ハリセンを片手に駆け出した。
少年――古城ミチヒデは一足先にあの重力の井戸に引きずり込まれるような感覚から抜け出し、蟲霊に対して啖呵を切ったらしい。
下らないと、一蹴したようだ。
輪廻転生、その魅力に少しでも揺らいでしまった自分をハナは秘かに恥じていた。永らく浮世離れしていた心が回帰しはじめていることで、これまでならばそれこそ鼻で笑ってしまうほどの話を鵜呑みにしてしまっていた。
今生きている人に目を向けなければ。虚ろな自分など捨て置いて、彼らの生を守らなければ。死せずして、生を知るに及ばず――生こそが価値あるものの全て。これこそが死んだ自分達に託された言葉の真意なのだから。
「奴は何て?」
「オレは抗えないって。大切なものを失えば苦しみが解るって、クソッ!!」
得心がいった。ドッペルゲンガーはミチヒデの記憶を覗いている。彼にとって何が最も大切なのか、重要な心の支えなのかを知悉している。異物はそれを奪うことで、彼を霊落させようとしているのだ。
つまり家族、親友、いやきっと来宮ユウミを殺し、その魂を喰らうことで、輪廻転生計画に無理矢理加担させようとしているのだ。蟲霊の一部となった彼女を救うには、その方法しかないのだから。獄界へ連れて行かれるよりもよっぽどマシに違いない。
二人は宙を駆け抜けた。目指したのはミチヒデの遺体を乗せて走り出した霊柩車の目的地――火葬場だ。来宮は清泉館のバスに乗って、その霊柩車に続いている。
「ハナ、どうすればいい! アイツを救うにはどうすれば!」
「ドッペルゲンガーも霊やった。それやったら私がやったように魂の波動で対処できるはずや。でも、あんなデカブツを黙らせる自信まではないで」
「オレは魄を喰われただけだし、大怪我を負ったこともない。転んで膝擦り剥いたり、テニスの練習中に顔面にボールを食らったりしたくらいだ。こんなんじゃ……」
弱気になっているが致し方ないことだ。魂は記憶だ。それを波に乗せる。自身が経験した感覚を相手に伝えることしかできない。
しかしそれは、基礎の基礎。応用は利く。
「アンタはこの三日、色んなもんを魂で受け取ってきたはずや。それを全部思い出しぃ」
「そうは言っても――」
「考えるんや、喧嘩は考えなしでは勝てへんで。敵を知り、己を知らばや。相手の軍勢は一万を下らん、対してこっちは二人。絶望的やけど、諦めるわけにはいかんやろ!」
「余計に不安になるような情報入れんなよ!」
「事実から目を背けたらアカン! せやから連中は霊落して、しょうもない夢を持ってもうたんや!」
ミチヒデは足の回転を速めた。思考もそれについていくような気がした。何か手があるはずだ。あの巨大な霊の塊に匹敵するための、何かが。
ドッペルゲンガーはもとの人型――磯部イサムの姿に戻っていた。あの巨体では動きが鈍るし、何より目立ってしまう。賛同者の皆の意思を統率するにも、この人型のほうが何かと都合がいい。怒りに任せて思考を鈍らせてはいよいよ計画が頓挫してしまいかねない。
イサム達は火葬場の前に立っている。エントランスのガラス扉の向こうに来宮ユウミの姿があった。
仙人がそうしたように、誰かや何かに化けている間も多くの獲物に目を向け、優秀なものには唾をつけておくことが最も効率が良い。古城ミチヒデと来宮ユウミ、彼ら二人はそんな獲物だった。いや、そこらの獲物よりもよほど美味そうな魂魄の強さを若い身体に秘めていた。
強い波動を放つ魂。それに充分耐えうる優れた魄。この二つを備えている者は中々いない。経験では数千万人に一人、数十年に一人という割合だろう。それが二人、しかも互いを意識し合う関係にあった。
喰わねばならなかった。彼らが成長し、最も魂が高ぶり、最もその波動を魄が受ける時期にスケジュールを合わせる必要があった。耐久力のある魄は美味だ、強い波動を受けた魄はさらに美味だ。早く食べたかった。来宮ユウミは古城ミチヒデよりも美味いと感じられる。だから黒ネコに真似ながらも様子を見に行ってしまうほどだった。
彼女が悲しみに暮れるほど魂が熱を帯びているのが判ったときには嬉しくて堪らなかった。これが葬式を前にすればどうなるかと期待に拍車がかかっていた。
しかしそれを、古城ミチヒデに邪魔された。
「あのまま天界へ連れられるでも、霊落するでもしておけばよかったものを」
「そんな情けない真似してられるかよ!」
先程のようにミチヒデは彼の行く手を阻んだ。ガラス扉を背に立ち、怒りに震える瞳を仇敵に突き刺していた。
「私が喰らってきた者達はほとんど霊落し、獄界へ連れて行かれたよ」
「侮辱するな、彼らはお前の被害者だ。確かに心が弱かったのかもしれない、だけどお前がいなければそうならない可能性があった。お前がその芽を摘んだ」
「可能性? そんなものを語り出したらキリがないぞ」
「だけどそのお蔭で、オレはお前に一矢報いることができた。お前はオレが賭けた可能性に負けたんだ」
イサム達の額に青筋が浮き立ったのが分かった。
何かが来る。彼らが攻撃に転じようとしていることを察するや、ミチヒデは意識を凝らした。途端、彼らは膝をつき、左の首筋を押さえて尻餅をついた。口角に血の泡を溜めると、激痛に喘いで仰向けに倒れた。
どういうことだと彼らは目を白黒させている。ミチヒデは上手くいったという具合に拳を握った。ヒヨコから受けた記憶の波を間接的に彼らへ流すことに成功したのだ。
「小癪な真似をしよってなぁっ!!」
立ち上がる彼らにもう一度釘を刺した。しかしつぶさに痛みへの耐性ができたのか、あるいは内包する無数の魂で痛みを分散させたのかは分からないが、初手ほどの効果は見られなかった。
ミチヒデは唇を噛んで次の手を考えた。真っ先に思いついたのはアンナとハテナが受けた交通事故による記憶だ。しかしあれはハナによって寸前で止められてしまった。だったらと苦し紛れに思いついたものを彼らにぶつけた。
彼らは一歩踏み出した直後、その場で躓いて片膝をついた。彼らの脳裏には、木目の床に整列する机やら椅子やらの足が映っていた。
それは死ぬ寸前の教室での一幕だった。視界がガクンと落ちて、あわや机の角に額をぶつけかける感覚にはヒヤリとしたものだった。しかしこんなものは決定打にもならない。情けない話だが、肉体的にほとんど痛い想いをしてこなかった彼には、死物としての戦闘スキルが皆無なのだ。
「頼む、引いてくれ!」とミチヒデは懇願した。
「このまま誰の命も奪わないと誓ってくれるなら見逃してやる、だからもう止めてくれ。来宮には人生があるんだ、アイツには生きていてほしいんだ!」
ふっ。彼らは嗤った。嗤笑が空間を捻じ曲げてしまうほど揺らし、それが顕界に地響きを齎した。
「そうだなぁ、人生は尊いものだよなぁ! なればこそっ、人がそれを奪い合うのも世の常、摂理というもの! 我らは奪われたものを取り返しているにすぎんよ!!」
突風に身が刻まれそうだった。両腕でそれを防いでいる隙に、イサム達が横をすり抜けていくのが分かった。
ミチヒデは振り返った。一瞬にして再び顕界へ出現したイサムはその濃密な幽体でもってガラス扉を押し破った。散乱するガラスの光に紛れて、俯く来宮の姿を見つけた。
ラケットを大事そうに抱える彼女は、厚い鉄扉の奥へと消えていったミチヒデの棺に涙しているようだった。イサム達はそんないたいけな彼女のみを狙い定めているようだった。多くの参列者がいる中、彼女のみを。
ガラスが割れる音が耳朶に触れたか、一同の目がガラスのほうへ向けられた。彼らの目には何が映っただろうか。年端もいかない少年の姿が見えただろうか。その右腕が人を指先で捻り潰せるほど巨大になった異形を、顔が複数に分裂し、足がいくつも生えた人間ならざる者の姿を捉えただろうか。
きっと来宮には見えたのだろう。一息に青褪める彼女は腰を抜かすも、愛する者の形見を守らんとしっかりと抱え、化物に背を向けた。
「届いてえええええっ!!」
ハナはこうなることを予測して火葬場の中で待機していた。彼女は一か八か、〈水鏡の行〉を行なったのだ。三〇〇万だ何だのと、そんな事務手続きなどどうだってよかった。
死界の水を通じて波動を顕界へ届けるその妙技は、一〇年やそこらの死後歴では扱えない。事実、彼女が顕界と次元を繋げることができたのは小指がようやく通るくらいに小さい穴だった。
彼女は叫んだ。死の記憶を声に乗せ、力の限り叫んだ。
イサムらの動きが止まった。彼ら一つ一つの魂が、頭を切り取られる記憶に襲われたのだ。全身を駆けずり回る激痛にイサムらは絶叫した。その場で立ち尽くし、周囲に血を撒き散らした。地震となって顕界を恐怖させた。
姿勢を保てなくなった人々は来宮のようにその場に座り込んだ。ミチヒデの母は息子の様子が気になって鉄扉に触れていた。スタッフが危険ですからと彼女を引き剥がしている。
「ミチヒデ君……!」
来宮の声に反応したのはイサム達だった。自我を強引に引き寄せ、指先を来宮の頭上に振り翳した。
間に合わない。間に合ったところで何をどうできる。ミチヒデは両者の間に割って入ろうと足を動かしたが、どうしても決定打に欠けていた。
また波動を使うか。いや無理だ。すでに顕界へ逃げているイサム達に波動を送るには、ハナのように水鏡が必要だ。水鏡を介さずに空間を越えられるフェルトペンを使っても、落書き以外の用途はないに等しい。
じゃあどうすれば。どうすれば彼女を救える。自分を救ってくれた彼女に恩を返せる。愛する彼女の全てを、命を守ってやれる。
ミチヒデは他の道を考えられなかった。その思い至った、たった一つの方法だけが、彼女を救う唯一の手立てだと直感した。
臍を、固めた。
コレが、オレが最期にできること。アイツのためにできること。
「ミッちゃん、まさか……!?」
次元の歪みを感じ、ハナは咄嗟に身を引いた。しかし思いのほか小さな揺らぎの後、彼女は彼の選んだ道に胸の痛みを抑え切れなかった。
『――――オレは泣き寝入りして後悔なんてしたくない』
彼は言っていた。ヒヨコの挑発に乗りつつも、霊にはならないし、獄界にも行かない、エゴを捨てて復讐を果たすのだと。
それがどうだ。全て破ろうとしている。
彼にはそれしかなかったのだ。愛する者を守るためには、何かを犠牲にするしかなったのだ。
ミチヒデは霊落した。濃度の高い幽体となった彼は来宮の腕を取り、火葬場の外へと連れ出した。
「ハナ、そこは任せたぞ!」
「アホ、アンタ、アンタは!!」
ハナの罵倒を背に彼は行ってしまった。彼女は視界がぼやけるほどの疲労感に襲われながらも今一度水鏡を発動させた。イサム達をここから追い出すために、自身の最も凄惨な記憶を事細かに伝えた。
額に刃物のような爪を立てられた感覚。肌を突き破り、細胞の一つ一つを破壊し、痛覚ばかり刺激しながら、肉を裂かれていく生々しい感覚を。
魂は疲れない。しかし何かしらの限界はあるらしかった。水鏡が割れてその場に音を立てて落ちると、集中を切らした彼女はうつ伏せに倒れてしまった。イサム達が苦悶の表情を浮かべてミチヒデ達を追いかけていく。ハナはしばらく休むことにした。
「み、ミチヒデ、古城君!?」
「来宮、ゴメンな」
昼間の路地だったが、人通りの少ない場所のようだった。ミチヒデは閑散とした公園まで逃げ延びるとようやく足を止め、彼女の手を放さぬまま言った。
「死んじゃった」
「……ゆ、夢なんかなぁ、古城君にまた会えてる、私ぃ」
涙を拭う彼女の手を強く握ってやった。
「オレもそう思いたい。でも、事実だ。オレは死んだ、霊になった」
お前を守りたかったんだ。
そう告げられた来宮が顔を上げた途端、暗雲が立ち込めた。嵐が吹き荒れ、地鳴りと落雷と共に巨大なイサム達が現れた。
膝を笑わせ、生唾を飲み下す彼女を背にしてミチヒデは蟲霊と対峙した。彼の手にはラケットが握られている。
「ドッペルゲンガー。アドバンテージはお前にあるのかもしれないけどな、オレはまだマッチポイントを諦めたわけじゃないんだぜっ!」
「抜かせよ、小童」
雷鳴のような声が豪雨となって降ってきた。
「輪廻転生だぞ。何故それを拒む。我らに従え、さすればその娘と人生を共にできる」
「その来宮を殺してオレを手篭めにしようと企んだ奴をどう信じろって言うんだ。そもそも、誰かの命を犠牲にしてまで生き返りたいなんて思わないんだよ」
「古城君、何の話? 生き返れるって、本当?」
来宮はミチヒデの腕を掴んで問うた。温もりの返らないその肌は、遺体のそれとは全く異なり、温度そのものがないようだった。そこにある、しかしそこにないのである。
「来宮、オレは死んだ。アイツ、ドッペルゲンガーに殺された。だけど、それで充分なんだ。最期にお前を守れたらそれだけでいい。何も望まない」
彼女の手からそっと抜け出すと、ミチヒデは左手を差し出した。
「……ようやくその気になったか。それでいい、共に夢を叶えよう」
「言ってんだろ。誰がお前みたいな腐れ外道と手なんか繋ぐか。オレの手は、来宮を守るためにしかないんだよ!」
意識を凝らした。御重永アサコがそうしたように、この左手に死物を引き寄せるよう集中した。彼の波動に応じたか、今し方灰となったばかりの幽体が彼の手の中で二つの球を形作った。黄緑の蛍光色、手に馴染むフェルト生地。軽く、固い、たったの三日でも懐かしい感触……。
感慨に耽っている場合ではなかった。ミチヒデは蟲霊に対して左半身を向けると、右足を一歩引いた。手元にテニスボールを一つ残してポケットに仕舞い、地面にバウンドさせては力強く弾むそれをキャッチした。それを三回繰り返すのは彼のルーティーン。右手のラケットは手の平で左回転させ、コンチネンタル――ラケットを地面に対して垂直になるようにして握手をするように握る――でグリップを握り、尚且つグリップの先端に小指がかかるくらい長く持った。
ボールを持った左手の指を揃え、ボールを垂直に上げる。ボールが重力に抗えず最高点に達する前に両膝を折り、ラケットを肩まで持ち上げる。そしてボールが頂点に達するや、膝をバネにして少し左に飛んで腰をそちらへ捻り、ボールが高度を下げたその一瞬に狙いを済ましてインパクト――ラケットを外側から内側へと向けるようにフォロースルーを行なう。ガットに直撃したボールは回転を得て、真っ直ぐ蟲霊の足の一本に捻じ込まれた。
とても小さなボールだ、蚊に刺されたような感覚さえも皆無。無駄な足掻きだと失笑したのも束の間、ギャアと足下で声がすると、イサムの鼻柱に妙な感覚が突き刺さった。
唖然とするイサムの目を覚まさせるように、ミチヒデはセカンドサーブに移った。だが的はデカい。フォルトなんて考えられない。セカンドもフラットサーブで打ち込んだ。
この黒く巨大な塊は無数の魂で構築されている。どこかに誰かがいて、その誰かが痛みを覚えると、幽体が連結しているために“全身全霊”に痛みが広がってしまうのだ。全てが魂、あるいは全てが痛覚のようなものだ。
早速第三球目のルーティーンを開始する彼に舌打ちしたイサムは、全ての魂を自分の形に押し込めた。少年の姿になると、すぐさまミチヒデに巨大な手を伸ばした。
ミチヒデはボールもラケットも手放し、立ち竦む来宮を抱え飛んだ。
「痛かっただろ、オレの記憶も混ぜてやったからな」
ボレーの練習中、顔面にボールを受けたことがあった。その激痛もさることながら、小一時間鼻血が止まらなかったことには死すら予感した。それも今ではいい思い出、いい記憶、いい生涯の一ページだ。
ミチヒデは来宮を背にして肩膝をつくと、両手にラケットとボールを引き寄せ、今度は練習の球出しの容量で二球続けてフォアハンドのストロークを放った。
イサムらは初球を回避し、二球目を腕で弾いた。誰かが悲鳴を上げたが一歩踏み出し、彼の腹に拳を捻じ込んだ。弧を描いて吹き飛んでいく彼に嗤ったが、何やら蛇腹状の厚紙に殴られたような感覚に奇襲されて自分も同じように横薙ぎにされていた。思わず舌を噛んだ記憶をフラッシュバックしてしまった。イタズラをして母にビンタを食らった際に、噛んでしまった記憶が。
苦い過去から目を背けてミチヒデを睨んだ。彼は、泣いていた。
「何だ、その面はぁ?」
「同情しようってんじゃない。だけどお前は、可哀想だ」
「な……」
「死んだからじゃない。あんな仙人に惑わされてしまったことがだ」
「やめろ」
「お前、もう気付いてるんだろ。お前のお母さんは獄界なんかにいない。あの空襲の後、お前を探して生き続けて、ちゃんと天寿を全うした。今は天界で暮ら――」
「やめろおおおっ!!」
後の祭りだった。顕界で生きる母を見つけたとき、もう何もかもがどうでもよくなっていた。その頃にはすっかり大所帯になって、生を求める彼らの願いを叶えるために東奔西走する毎日だった。
自分を唆した仙人も所詮は受け売り、皆の意識を纏め上げるのに躍起になっていた。
皆必死だった。死にながら、必死だった。もう一度生きたくて生きたくて、必死だった。
イサムはミチヒデを一瞥し、来宮にも視線を転じた。周囲にも無数の魂がある。
計画は頓挫したが、最初からやり直せばいい。刻は長いし、今日まで腹に溜め込んだ魄が失われたわけでもない。
「お前のせいだぞ、古城ミチヒデ。お前は大量殺人を誘発させたんだ」
「……まさか、やめろっ!!」
イサムは両手を広げ、再三に及んで巨大化しようとした。無差別に魂を喰らい、モンタージュ写真のパーツ集めを再開しようとしていた。
ミチヒデは来宮を背に、ラケットの先を刀のように向けた。
「来宮、絶対に離れるなよ! お前だけは絶対に生かしてみせるから!」
「古城君……!!」
ミチヒデは足下から込み上げる黒い水に呻いた。それは踝から脛、膝まで水位を上げていった。周囲は全くの闇に包まれたが、イサムにそうされたような激痛は感じられなかった。気付けばイサムや来宮の姿もなくなって、声すら聞こえなくなっていた。
息が詰まる。苦しい。臭い。気持ちが悪い。頭が痺れ、腹の底が冷えるような感覚に身体の震えが止められなかった。中腰になって地面らしい場所に手をついた。水が波紋を描いているのが判った。
カンと音が鳴った。余韻を残し、一定の間を置いて、また一つ打ち鳴らされた。
高い笛の音まで聞こえてきて、水を掻き分けてそれが近づいてくるのが判った。
船。四、五人ほどしか乗せられないような木製の小舟だ。それが一艘ではなく、何十も、自分達の両脇を通り越し、いつの間にか姿を見せたイサムを包囲するように舳先を突き合わせていた。しかし小舟には何も乗ってはいなかった。
「も、もしやっ! 寄るな、寄るんじゃなあああいっ!!」
イサムの慌てようは尋常ではなかった。何をそこまで怯えているというのだろうか。彼はこの舟を知っているのだろうか。違うと解ったのは、一足遅れて流れてきた小舟から見覚えのある女性が降りてきてからだった。
「よくやった。お前は男だよ、古城ミチヒデ」
「ヒヨコさん……」
日吉ヒヨコはミチヒデの姿を見て、固く目蓋を閉じた。ミチヒデは取り繕うように、「自分で選んだんです」
「来宮を守りたかった」
「あぁ、そうか……」
彼女はそう咀嚼するように告げると、「お前の時間稼ぎのお蔭で、全てに片がついた。獄界の使者の、お出ましだ」
イサムの身体がビクンと跳ね上がった。死人らしく顔面蒼白の彼は直立したまま動けなかった。しかし血走った目だけはギョロギョロと忙しなく泳ぎ続け、何も乗っていないと思われた小舟それぞれから一斉に白い何かが立ち上がるや恐怖を湛えた。
その異様からは全身の毛が逆立つのを感じた。死装束を頭から被り、竹で編んだらしい仮面で容姿を隠すその存在からは、血肉が腐ったような、いわゆる死臭が漂っていた。これ以上近付こうものなら、きっと彼らの記憶に当てられて意識を保っていられないと思えるほどの気迫だ。あの強気な日吉ヒヨコが戦列から離れていることが全てを物語っている。
獄界の使者の一人がしゃがれた声で言った。他の者が鎧やら着物やらを纏っているのに対し、彼だけは泥やら体液やら返り血やらで薄汚れたふんどし一丁で、人一倍みすぼらしい格好をしていた。そして人一倍おどろおどろしい過去を背負っていることがミチヒデにも解った。
コレが獄界の使者。罪人を裁く、冥府の番人。
「磯部イサムぅ。並びにぃ、六七四〇四名のぉ、罪深き魂に告ぐうぅ。何ぞぉ、釈明はあるかえぇぃ?」
ふふふ、ぐははと他の死装束が揺れている。人をコケにした態度に業腹だったイサムは叫んだ。
「何故だ! 何故邪魔をする!? 輪廻転生、復活だぞ! 貴様らもその白々しく血生臭い着物を脱ぎ捨て、現世でやり直せるのだぞ! 今一度生き直したい、そう思うだろうっ、思わないのかぁっ!?」
使者達はまた肩を揺らした。口々に、臭い臭い、臭う臭うと陰険な態度で耳打ち合った。釈明を問うた使者がイサムに顔を寄せ、どうやらニオイを嗅ぐような仕草を見せた。
「んんぅっ、こりゃ臭いぃ。罪とはぁ、何とぉおぞましい腐臭を放つものかよぉぁ」
「貴様ぁ、許さんぞ!! 八つ裂きにし――!?」
一瞬だった。使者の全てが一息に彼との間合いを縮め、肉薄するや、それよりも早く抜いていたらしい刀やら槍やらで小さな身体を見るも無残に串刺しにしていた。
イサムは目を剥き出しにして、大量の血を吐いた。彼らの記憶が一斉に流れ込み、彼を形作る幽体をそうなるよう刺激したのだ。イサムは痙攣し、声を上げられないようだった。
カンと音が鳴った。流麗な笛の音が空間を裂き、闇が剥がれ落ちていった。
最中、ミチヒデはイサムと目がかち合った。それは嗤っているようだった。その意味を解ってしまった途端、視界が塞がれた。ヒヨコが割って入っていた。次に彼女が退いたときには、使者や小舟、黒い水諸共、イサムの姿は消えていた。
「しぇんぱっ、しぇんぱ~~~~~~いっ!!」
情けない声を張り上げながら、少女が両手を広げて走ってきた。彼女は地面を蹴り上げると、日吉ヒヨコの胸に飛び込んだ。
ハナの奴、投げ飛ばされるぞ。ミチヒデの心配を裏切るように、ヒヨコはハナを両手で受け止め、強く抱き締めて放さなかった。
「よかった……」
それはとてもか細く、震えていた。自分だけに聞こえたに違いないその声に不器用な優しさを感じたハナは涙を一粒だけ零してしまった。
抱き合う彼女らにミチヒデが笑みを浮かべていると、おいと鋭い声が突き刺さった。甲冑姿の獄界の使者がたった一人、仮面の奥からギラギラとした眼光を忍ばせていた。
「貴様は何だ」
「え……」
「霊か、否か」
ヒヨコの胸から顔を起こしたハナは悲壮な表情を浮かべた。今更思い出したらしい。ミチヒデは霊になったのだ。つまり彼は天界には昇れない。
イサムは待っているぞという意味で嗤っていたのだ。霊になったお前も、等しく獄界に堕ちる運命なのだからと。
「オレは、霊だ。獄界に連れて行ってくれ」
「アカンよ!」
ハナは使者にせがむように言った。
「この子、アホやからちょっと間違うただけなんです。いやホンマにドジっ子でしてね、ちょーっと惚れとる女の子がおったからホイホイ後ついてったらいつの間にか霊落なんかしちゃいまして、それで、それで、えーと――」
「ハナ、ありがとう」
ミチヒデは憑き物が落ちたような柔和な笑みを浮かべていた。ハナは首を横に振った。
「そんなこと言わんとってやぁ。アカンよ、そんな霊が清々しい顔してたら」
「お前で良かった。お前がオレに声をかけてくれたから、大切なものを守ることができたんだ。これからもみんなのためにガイドを続けてくれ、ありがとう」
ハナの横を通り過ぎ、ミチヒデは使者の前まで歩み出た。
「妙だな」
「ん?」
「臭わん」
「何が」
「日吉ヒヨコ、コイツは何だ。何故顕界に降りられた」
「アンタ様に分からないことが私に分かりますか」
使者は腕を組んで一考しているようだった。目玉はジッとミチヒデから一度も離さなかったが、時間が経過するたびに瞳孔が開いているようだった。
「貴様、我らに近しいのやもしれんな」
「お、え、オレが、獄界の使者と……!?」
「我らもまた、心底から生と決別しておる。故に獄界を監督できておる」
「オレに、その素養があるって……?」
「近しいと言った。古城ミチヒデ、いずれにせよ貴様は霊ではないようだ。貴様からは罪のニオイがしない。そんな者を獄界へ連れていくわけにはいかん」
「ま、待てよ。霊になった奴は残さず獄界へ連行されるのがルールって聞いたぞ、こんなのあるか。アリなのか?」
「罪とは未練だ。しかし貴様は死を受け入れ、罰を受け入れている」
「死せずして、生を知るに及ばず。まさか、そういうことか?」
助け舟を出したヒヨコに一同は注目した。なるほどと言ったのは、ミチヒデは初対面の井出ランゾウだ。
「貴公は生と死をよく理解しておるようですな。どこぞの誰かの教訓を重々胸に秘め、全てを受け入れた上で心を律し、霊落した。純粋に生物を守るためのそれは負の波動を生まず、使者殿が仰るニオイをも生まなかった……」
「そ、そんなご都合主義的な……」
狼狽えるミチヒデに、昨夜会った黒装束の女がその格好に似つかわしくない軽い口調で言を継いだ。
「いいじゃないッスか。真偽はどうあれ、輪廻転生に関する事例でここまでのケースはこれまでなかったんッス。海千山千の情報屋たる主でさえも知らなかった方策ッスよ、ボウヤみたいな海の物とも山の物ともつかないヘンテコな死物が出てきても何らおかしいことなんてないッス」
「そうだ、ミチヒデ。お前は思ったか、死後にこんな世界があると。私らには知らないことが世界にはまだまだあるんだ」
俯く彼の頭に衝撃が走った。光が散ってぼやけた視界で顔を上げると、「ええやん、それで」とハナがハリセンを片手に言った。彼女の屈託のない笑顔を見ていると、悩んでいることが馬鹿らしくなってきた。
「日吉ヒヨコ、主共にしかと伝えよ。貴様らに受けた仕打ちは決して忘れん。だが、弁明の一つくらいは聞いてやる。宴の用意でもして待っていろとな」
「まーいいけどよ、とりあえずシャワーくらい浴びて清めて来いよ。それが最低限のドレスコードだ」
「ふん」
瞬きのうちに使者はその姿を眩ましてしまった。武士や忍も天界で待っていると言い残して去っていった。
ミチヒデは公園で座り込む来宮を見た。突然彼の姿が消えてしまって戸惑っているようだ。そんな彼女を見つけ、葦原達が駆け寄ってきた。彼女から事情を聞く彼らの様子に指先がピクリと震えた。
背中を押されて振り返ると、ハナがうなずいていた。ヒヨコはそっぽ向いて青空を眺めていた。
ミチヒデは意識を凝らした。
それは人の目にはどう映っただろうか。輝く無数の粒子が寄り集まり、人の姿を形作ったように見えただろうか。もしかするとおぼろげな光の帯に見えたかもしれないし、声だけを聞いたかもしれない。
しかし、来宮には確かに見え、彼らにはそれが誰だか解った。
亡くしたばかりの親友――古城ミチヒデだと。
「みんな」
「古城君……」
「ミチ」
「ミッちゃん!」
友に呼ばれ、「ありがとう」とミチヒデは頭を下げた。
「見送ってくれて、嬉しかった」
「葦原が声かけてくれてん」
「田山君がね、私らも呼んでくれてんで」
口々に彼らは告げる。胸にじわりと広がる温もりに、魂が震えているのを自覚した。
ミチヒデは立ち上がれない来宮に手を差し伸べた。
「来宮、伝えたいことがあるんだ」
「え、は、はい」
彼女がふらふらと覚束ない足取りで直立すると、ミチヒデは顔を真っ赤にして伝えた。
「好きだ、来宮ユウミさん。愛してる!」
スイッチを入れ、回路に電流が走ったようだった。全身が一息に痺れ、鼓動が聞こえてしまうくらい高鳴っていた。彼とお揃い、真っ赤な顔になっているのが解ったから余計に顔を俯けてしまった。
しかし何度も願ったことだと思えば、自然と顔を上げ、揺らいで止まらない瞳を彼のそれと交わらせた。
「私も、私も古城君が、ミチヒデ君が大好きです! 愛してます!」
ハナは嫉妬してしまった。
それはミチヒデを取られてしまったからなのか、単純にリア充爆発しろと思ったのかは分からない。愛を真っ直ぐに伝え合えるその存在が羨ましかったのかもしれない。
あっと彼女は微笑を浮かべた。自分にも人らしい未練があったことを深く悟ったのだ。
私もこんな風に恋がしたかったんや。
「もっと早くに伝えればよかった」
「そうやで、高校の合格発表のときとか」
「手を繋げるタイミングもあったよな」
「あったあった、でも恥ずかしかった」
「そう、恥ずかしかったんだ。高校デビューすればそんなものも振り払えると思ってた」
「私も思うてた。でもできなかった。ホンマに好きやったから、怖かった」
ミチヒデは彼女の手から愛情と不安が綯い交ぜになった感情を受け取った。
「来宮、生きてくれ。オレの後なんて絶対に追わないでくれ」
「ミチヒデ君、私……」
「生きている今が全てなんだ。しっかりと生きて、恋をして、幸せになって、その命が果てるまで前を向いて歩き続けてくれ。そうしてくれなかったら、オレはお前に二度と会わないからな」
首を振る来宮を強く抱き締めた。驚いた彼女だったが、ミチヒデの何の温度も感じない虚しい背中に腕を回した。
「辛いことがあってもお前なら大丈夫だ。お前にはみんながいる、支えてくれる」
言葉が出なかった。彼の身体が離れると、咄嗟に手を伸ばした。
最期。これが今生の別れというなら、恥じらいを捨てて大胆になるべきだ。それなら問題ない、内向的な私でも、一度だけ大胆になったことがあるんだ。
ミチヒデは顔を両手で包まれた。背伸びした彼女の顔が近付き、唇からとても熱い愛を送られた。
親友達が祝福する中、二人はしばらく抱き合った。
「私の初めてあげたのはアナタだけやから」
「ありがとう、凄く嬉しいよ」
最近の若い奴はとヒヨコは頭を掻いた。
羨ましいと思ったのは内緒だ。




