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ドッペル!  作者: 吹岡龍
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〔夢-mu〕④ ドッペルール

「私はね、ドッペルールと名付けたよ!」


 唐突に何かを決定したらしい昼前時アカネに、「ほう、良いですな」と会長・太郎は赤子の容姿に良く似合うあどけない笑みを零した。

 昔から何か馬が合う、それこそ魂らしく波長が合うらしい彼らに振り回されてきた社長・次郎は、バンバンと机を叩いて注意を引いた。


「どったの、次郎ちゃん。オッパイほちーの?」

「分からんのです! そのドッペ、ドッペルールなるものが!」

「えー、どこがどこが? イロちゃんの説明が悪かった? それとも語尾の“ッス”がウザかったッスか?」


 無理もないとアカネは腕を組んだ。時が移ろうたびに変わりゆく日本語に適応するため、イロも一生懸命彼女なりに言葉遣いを変えてきたのだ。しかし何をどう間違ったのか、現在の顕界では語尾に何かをつけるのが“ふぁっしょなぶる”なのだと言って、“ッス”という、“です”、“ます”の省略語をつけるようにしてしまった。腕や背中に“でざいん”を施し、耳や鼻、目元、唇から舌、(へそ)、果ては陰部に至るまで穴を開けて装飾する“えきせんとりっく”だとか、“あうとろー”だとか、“や○ざ”だとか、そんな名で呼ばれる人々の口調を真似たというが、あまりアカネの趣味ではなかった。

 ちょっと、っていうか、かなりクドイ。


「それもそうですが、魄を喰らう、その原理が分からんのです」

草西(あかね)様、もう一度お話ししていただけませんか」

「しょーがないなぁ。ま、今日は大きな決断してくれたしね、サービスだよ」


 草西は一つ息をつくと、周囲の光景を歪め、社長室に焼け野原を投影した。

 それはイロがドッペルゲンガーから盗んだ記憶の全容だった。


「ドッペルゲンガー。異物と思われたその正体は、実は蟲霊(むしれい)化した集団霊だった。ここまではオッケーかな?」


 火の手が上がる煙たい宙に、短い手足で立つ次郎はうなずいた。


「その首謀霊は、今から数えて七〇年前の八月、あの忌まわしい戦争が多大な犠牲と引き換えに終局を迎える寸前、東京で空襲に見舞われた一〇歳の少年。名前は、磯邊(いそべ)イサム君」

「あの時代は勇敢な名前が流行りましたな」


 宙を這って太郎が口を挟んだ。

 草西は暗澹(あんたん)とした空を眺めた。煙やら雲やらを搔っ切って、編隊が轟々(ごうごう)と音を立てて空を()けていた。


「イサム君はアメリカの戦闘機B-29が投下した焼夷弾(しょういだん)で住んでいた家、町諸共消し炭にされたの。自身も炎に身を包み、焼き爛れた身体を引き摺って、近くの川へ(のが)れた。でもすでに他の人もそこで息絶え、真っ赤な三途の川の様相を呈していた。愕然とするだけの時間もなかった彼は、一滴の水も喉に通せず死物となった」


 戦時中、アメリカは研究を重ねていた。合衆国内の人気のない土地で日本家屋に見立てた木造家屋の集落を造り、それを一発の焼夷弾でいかに効率良く大規模に渡って焼き払えるか実験を繰り返してきた。そうして誕生したM69焼夷弾は奏功し、日本の都心のみならず重要拠点をいくつも火の海に変えることができた。

 卵が先か、鶏が先か。戦争が先か、兵器が先か。将来は兵隊になってお国に身を捧げると息巻いていたイサム少年は、そんな夢らしくない夢も、夢らしい夢さえも抱けずに息絶えてしまった。誰のせいだろう、誰かのせいだろうか。何が彼を殺したのだろうか。

 そんな自問自答が、国内のみならず、世界中で今に至るまで延々湧いては消えていく。


「いつの時代も戦は困りものです。天顕疆界で狼狽(うろた)える彼ら一人ひとりを説得するのは難儀だったと古株のガイドはよく話しております。イサム少年はそんな忙しさにかまけて見逃してしまった死物の一片、というわけですな」

「それだけならこの会社一つで改善の目処が立つよ。でも、事態はそう容易いものじゃない。イサム君は、霊に魅入られちゃった」


 景色は川のほとりに移った。自分の亡骸を足下に、イサム少年は立ち尽くしていた。

 エエ目をしとるでな。そんな言葉を彼にかけたのは、坊主頭に長い髭を生やし、みすぼらしい襤褸(ぼろ)切れ同然の着物に皮と骨だけの身体を隠した老人だった。彼は自らを“荒野の仙人”と(うそぶ)いた。長い棒を担ぎ、儂には他の者にはない力があるなどとのたまうから、余計に胡散臭かった。ただ、重く垂れ下がった目蓋から覗く瞳の(くら)さにはただならぬ気配が宿っていた。


「ふざけたことを。大方、そやつもただの死物、霊だろうに」


 吐き捨てる次郎に、「そのとおり。正しくは、先代のドッペルゲンガーだよ」と草西が継いだ。

 仙人はイサム少年に話をもちかけた。生き返る術があると言ったのだ。

 少年は純真だった。空襲で見失ったお(かあ)を捜さなくてはならない。自分は一人っ子だから、お国のために出兵した父の代わりに母と家を守らなくてはならない。そう言って仙人にその術を教えてくれと(すが)りついた。

 仙人は涙した。おいおいと泣き、次に口を開いたせいで、少年を魔道へ走らせた。


『嘆かわしや。お(まん)のお母は地獄へ堕ちたぞ』


 仙人は目一杯少年に顔を近づけて舌を動かした。

 お母はお前を生かすために散々悪事に手を染めてきた阿婆擦(あばず)れだ。金品を盗み、食い物を盗み、色を使って男を寝取っては金を無心し、搾れなくなるや殺しちまうような稀代の悪党だ。

 少年は霊のことを知った。霊となれば地獄へ堕ちることを聞かされた。しかし死物や天顕疆界については何一つ聞かされなかった。

 絶望する彼に仙人は(ささや)いた。


『何も知らんかったからお前も閻魔様に睨まれんかったのだ』


 さてどうする。ここには天国はない。あるのは罪人を(ほふ)る地獄のみ。罪無き我らは意識あるまで彷徨(さまよ)うだけじゃ。儂はこれまで云百年と過ごしてきたがの、そろそろそれも終いにしたい。生き返りたいのじゃ。


『仙人様、仙人様。どうしたら生き返られるのでございましょう。後生でございます、どうかオイラを生き返らせてくださいませ。愚かな母に代わって、仏様に罪を償わなくてはならんのです』


 仙人が笑いを堪えていることは、草西達には一目瞭然だった。しかし過去の記憶。イサム少年を諭すことも、ましてや声をかけて会話を成立させることなどできるわけがない。


『今の儂らは魂じゃ。魂は不滅、どうあっても失うことなどない。そんな我らに必要なのは朽ちてしまう肉体じゃ。肉体には魄というものがある。それこそが命じゃ。蘇りたくば、それを喰わねばならん。しかしそれを喰うには骨が折れる』


 心底苦心しているといった顔を浮かべ、『獲物と同じ姿かたちにならねばならん』と彼は口にした。


『それは一朝一夕でなるものではない。儂も大層苦労した。しかしお前が儂と一つとなってくれれば、唾をつけてある獲物のいくつかを喰らうことができようぞ』

『一つになる?』

『儂が。お前を。喰らうのだ』


 大きく口を開く仙人、いや化物のそれだった。しかしイサム少年は一息に霊落するや、より大きく口を開いて仙人をあっという間に飲み込んでしまった。

 咀嚼(そしゃく)する彼の目は母に続いて裏切られたことへの悲しみで濡れていたものの、もはや純真さの欠片も残っていなかった。


「人間を例にしてみるとね、人間の固有振動数はおよそ八ヘルツ。一秒間に八回の振動を受けると、人は最も身体に大きな揺れを感じて気分が悪くなってしまうんだよ」

「何の話です」

「ドッペルールだよ。人も動物もそれぞれ固有の振動数を持っているんだ。でもね、全く同じ振動数を獲得するのは難しいことなんだよね。生物はまさしく生きているし、個体差があるからね。八ヘルツを与えて、はい共振しましたーってことにはならいんだよね」


 疑問符を浮かべる次郎に、草西はドッペルゲンガーへの道を歩み始めたイサム少年に注目させた。


「その難しいことをやって生き返ろうっていうのがドッペルの目的なのよ。そのために多くの魂が必要なの」


「ますます分かりませんな」と眉間を揉む彼を脇から抱え、高い高いと上下させた。太郎はそれを羨ましそうに眺めていた。彼女は次郎の手足を抓んで動かした。


「人体は色んな波動を奏でてる。脳、手足、喉や脈、心臓だってまさにそう。人体のほとんどが水分だから余計に。ドッペルはその複雑な波動コードを沢山の魂で解析して、同調することで魄への接触を図ったんだよ。魄は個々人の肉体にしか癒着しないからね」

「そのためには、多くの魂をモンタージュ写真のように切り貼りして、獲物と同じ容姿になる必要があったと」


 太郎の合いの手にうなずいて、草西は次郎を足下に下ろした。

「魄に触れるなぞ、そんなことができるのですか」と彼は問うた。


「実際にできちゃってるから、こうして問題になってるし、死人が出てるんだよ」

「うぐっ」

「知ってのとおり、一つの魂に魄は一つ。魂が鍵だとすればその形状はそれぞれ違って、魄が錠だとすればその鍵穴の形状も内包している魂の形以外は受け付けない。その鍵だとか錠だとかの輪郭を形作るのが、波動なんだよ」


 生物が死ぬ。それは魂のエネルギーに耐えかねた、あるいは肉体の崩壊によって魄が滅び、魂が肉体から離れてしまうからだ。鍵と錠の形容を継承するならば、錠に鍵を挿し、何度も何度も開け閉めを繰り返したとき、鍵よりも脆い錠の鍵穴が磨滅(まめつ)してしまうようなものだ。


「容姿を形作って肉体の複雑な振動を――記憶や意識、性質をも組み合わせることで魂の波動を同調させる。そうして獲物の魂と同じ合鍵を使って、魄の鍵穴に挿し込むの」


 魄を食べるんだよと、草西は全くもって年甲斐もなく太郎の小さな手を咥えこんだ。あんと甘い声を漏らす太郎も中々の気持ち悪さだった。


「でもコレをするには少し時間が必要なの。複雑な波動コードを取得して完全にシンクロするには、一歳なら一日、一七歳なら一七日もかかっちゃうの」

「も、なのですか」

「バッカだなぁ、次郎ちゃんはー! だから紙オムツから卒業できないんだよー!」

「人を浪人生みたいに言わないでくれませんか?」


 オムツ浪人の次郎ちゃんにも分かりやすく教えてあげるねと彼女は枕にした。


「太郎ちゃんが言ってくれたモンタージュ写真を作るのに、ドッペルは沢山の魂を貪るように食べ尽くしたの。それはもう、東京ドーム一個に収容できる人数くらいは軽くね」


 草西は戦争のたびに、顕界の死者に対して死界の死物の数が合致しない点に着目していた。異物対策委員会でドッペルの話を伺ったときも、蟲霊化した霊の仕業の可能性を危惧していた。


「私の勘が正しければ、ドッペルールには霊同士の意思の疎通、目的の合致が不可欠だと思うのね。だから仙人はイサム少年に輪廻転生について熱弁し、その道しかないと視野を狭めさせたはずなの。どんな悪道を行っても揺るがない、一枚岩になる必要があるから」


 辻褄(つじつま)は合うかと次郎は短い腕を組んだ。


「きっと、皆一緒にオテテつないで輪廻転生のゴールテープを切るつもりなんだろうね。そのためには魂のエネルギー総量より大幅、何百何千倍もの耐久力を持つ魄が必要だった。魄は命、魄さえ破れなければ生物は死なない。生き返ってもすぐに破れるような魄ならいらないし、どうせなら長く、不死を得られたくらいじゃないと意味がないからね」

「なるたけ耐久力のある魄を獲物にし、それが老齢で八〇歳であれば、喰らうのに八〇日も要すると」

「全く一緒になるんだから、顕界で実体化するだけの幽体濃度も必要になるよね。色んな神経使って、全くミスを許されないの、きっと口は利けないよね。ボロが出るとマズいもんね」


 私なんかダメだなぁと草西はせせら笑った。

 武闘派の日吉ヒヨコが拳や足から生まれてきたに違いないように、饒舌(じょうぜつ)家の彼女は口先から生まれてきたに違いないと次郎は深く同意した。


「とても長い道のりだよ。年間に十数人食べられたらイイ方だろうけど、寄り合い所帯の全員を満足させるには大黒柱のイサムちゃんもきっと苦労の毎日だったと思うよ」

「不穏当な発言ですな」

「こりゃ失敬」

「しかし、やはり分かりませんな。何故、魄を喰らうことで輪廻転生、生き返ることができるのか。甚だ疑問でなりません」

「私にも分かんないよ。再び魄の中に魂を戻したとして、そこに肉体はないわけだからね。とてもじゃないけどそれは生き返ったとは言わないよね――って思ったんだけど、私気付いちゃったんだよね」

「ん?」

「全ての準備が万端整ったら、顕界の生物を霊らしく憑依して殺して、抜け殻に新しい魄と魂を入れちゃえばいいんじゃないのって」


 絶句ものの発言だった。そんなことが実現可能なのかは別として、彼女の発想力に反吐が出そうだった。ドッペルゲンガーよりも、あっけらかんとこんな恐ろしい話を口にする彼女のほうがよっぽど異物染みていた。

 でもでもそれだと肉体と魄の関係から無理なのかな。癒着するにも肉体に合う魄は一つのはずだし。そんな考察を続けていたが、まるで異物が目の前で人生乗っ取り計画の算段をしているようにしか見えなかった。

 イサムを首謀とした新生ドッペルゲンガーが最初の犠牲者を喰らい、涙を流しているところで、空間は復元し、社長室の中に彼女らを戻した。


「解りました。不服ではありますが、獄界に助力を求めることも、まぁ、くっ」


 尚も悔しげな彼に、草西は言葉を固くした。


「太郎、次郎、そして獄界、これは貴様らの過失だ。つまらん意地の張り合いが、最も注意を払うべき天顕疆界の闇に蓋をしてしまったのだ」


 彼女から放たれる重苦しい波動に気圧され、彼らは顔を上げられなかった。ちらと目だけを向けると、彼女の様子が変わっていた。見覚えがあった。もう何十年、何百年ぶりだろうか。狩衣(かりぎぬ)と呼ばれる平安時代の公家の衣装を身にまとい、立烏帽子(たちえぼし)をかぶる彼女を見るのは。それは白拍子(しらびょうし)でもなければ男のみが着る物であるというのに。

 昼前時草西(ちゅうぜんじのあかね)。天界に定められた一〇〇〇年の理を超越する女の一人。忍のイロを含め、たったの二人。天界の中枢機関も目を瞑る、法外の存在。

 天界の、土台――。


「そう、私は一〇〇〇年見てきた。これは近年稀に見る危急、少々(から)め手を使わせてもろうたが悪く思うな」

「日吉ヒヨコ、でございますか」


 太郎の問いに、草西はそっと口角を上げ、部屋の入り口で失神したままの人事部長に目を向けた。


「私はほとんど察していた。だが確証を得られなかった。輪廻転生が存在するのか否か、魄を喰らう術が実在するのか否か。イロがいなければ全容は分からなかった。あの子には辛い役目を負わせてしまった」


 ひと月前の六月半ば。異物対策委員会でドッペルゲンガーについての話を聞いてすぐ、草西はイロに当該異物に関する調査を命じた。一方、自身は資料を漁り、ドッペルゲンガーを見たという者達に会うため、世界各地の天界へ足を運んだ。

 天顕疆界を奔走したイロが日吉ヒヨコの担当区域にドッペルゲンガーがいることを知ったのは、今から一〇日ほど前のことだった。その頃にはドッペルゲンガーはすでに古城ミチヒデの姿となり、彼から一定の距離を保って尾行していた。

 当然イロは古城ミチヒデが殺される現場にも居合わせていた。そして彼が激しい怒りを持っていることもすぐに感じ取った。しかも都合よく、神野ハナと出逢ってくれた。

 イロの報告を受ける前、草西はハナの病気を改善させたい依頼人ヒヨコに“魄を喰らう異物”というかたちでドッペルゲンガーの情報を与えた。ヒヨコの性格、言動、過去、ハナに対しての特別な感情を鑑み、今後の行動を予測していた。異物と伝えることで、余計にハナを殺した“紅い影”と重ねやすくしたのである。

 天界に戻ったイロの報告を受け、早速彼女を獄界へ送った。魄、つまり命を喰らうその行為から、草西は輪廻転生に当たりをつけていた。蘇りを願う異物か霊か分からぬものの存在、それが実行された暁には顕界におけるポールシフト――地軸の逆転現象のように、まさしく天地がひっくり返る事態となってしまうという内容の書状だった。

 獄界の使者はそれを一笑にふしてしまったが、それも草西は計算のうちだった。彼女の真の狙いは、輪廻転生を阻止することだけではなかった。

 彼女はイロに獄界へ赴かせる間、井出ランゾウに別の仕事を任せた。人事部に日吉ヒヨコの不正をリークさせたのである。ランゾウの顔は人事部に割れていたが、彼女の普段の態度、味覚破壊の飲食の押しつけによるイドハラを背景にすることで、彼女への反抗心から人事部に情報提供するという経緯を明確にさせた。横暴で身勝手極まりない女二人に、正義感の強い武士が愛想を尽かせたという筋書きだった。

 その間、天顕疆界から帰ってきた日吉ヒヨコは草西に助力を求めてきた。思惑どおり、彼女は神野ハナをドッペルゲンガー討伐へ向かわせたようだった。ここで前情報がほとんどない古城ミチヒデがどれだけの活躍を見せるかにかかっていたが、後のイロの報告により彼がドッペルゲンガーを発見しても深追いせず、ハナの手を引いて離脱したことには正直胸を撫で下ろした。いざの際はイロに任せていたが、それでも安心せざるを得なかった。

 そうこうしているとランゾウの言い分を真に受けた人事部はヒヨコの拘束に乗り出した。しかし彼女は手練手管を駆使してそれを振り払い、この社長室へ殴り込んだ。

 彼女が嘆願する一方、帰還したイロからドッペルゲンガーの正体を知ると、天界送迎センター本社ビルへ直行した。


「この話が漏れれば天界から魂は消え、皆が挙って天顕疆界で第二第三のドッペルゲンガーになっておっただろう。生者を殺め、輪廻転生を求める。獄界の使者が霊を捕らえて|葬るも、獄界に輪廻転生の方法が広がるや何かしらのアクションがあるに違いない。そうなれば顕界も死界も、まさしく地獄絵図だ」


 赤子達は口を噤んで彼女の話に聞き入った。


「天界と獄界、こうして死界を二分するシステムに欠陥があったと思わざるを得ない。〈一〇〇〇年の理〉、この法が定着していることがせめてもの救いだ」

「あの法は、我ら死物の最大にして最期の良心ですからな」

「そもそもの始まりは天界の誕生だ。天顕疆界というリスクの高い空間から逃げ延びた魂のユートピアとしてココは創られたが、当時の死物は自分達が無意識に放ち続ける波動がいかに危険な代物かを理解していなかった」

「天界の死物の総量が一定量を越えることで起こるとされる〈天顕崩壊説〉ですか」


 嘘か誠か。それは古くからの語り草となっており、真実正しい理論であるかは定かではない。しかし草西や天界の中枢で〈一〇〇〇年の理〉を重んじ〈昇滅祭〉を主導する者達はその理論を信仰し、死物達に広く啓蒙(けいもう)している。


「どれだけ気にかけても内に留めきることができないのが波動だ。一つの魂当たりでは微弱であるその漏れた波動も、多くの魂が寄り集まれば莫大なエネルギーを有する」

「人々の真意が否応なく魂に入っては抜け、それはいつしか邪な感情を生む……」

「“善良な魂”。そんなものは所詮、死物から未練を取り上げるための方便。我々はただ、生前に悪事を犯さなかっただけの“巨大な罪悪の搾りカス”でしかない」

「虚しい話ですな」

「それが死であり、死界という虚空の真実だ」


 死せずして、生を知るに及ばず。

 古より永く語り継がれるその言葉の真意が、二人の赤子に圧しかかった。


「忘れかけていた過去、未練に足を掬われた者達が続出すると、負の波動は至天門や〈贔屓の海〉を通じて天顕疆界や獄界へ届けられる。そればかりか顕界へも届いてしまうことだろう。一〇〇億を越える魂の波動だ、それらが総じて霊落すればその力は計り知れん。一方で、天界で霊落した者達は至天門を潜って天顕疆界……いや、顕界へ降りる。その顕界では天界より発した正体不明の波動によって死者が続出。生きとし生けるものがその命を失い、天顕疆界が魂で溢れてしまう。顕界の生態系が破壊されると地球は死の星となり、二度と生命が誕生することがなくなる」

「そ、そんな話も信じがたいものですな」

「お前の乳母に同じ言葉を吐けるのか、次郎」


 二の句を奪われた次郎は押し黙って目を伏せた。

 彼に知恵を与えた乳母は、天界や顕界、世界の全てのために甘んじて〈昇滅〉を受け入れた。摂理という循環の歯車として、その役割を担ったのである。


「罪深い死物、霊らを投獄し、光も届かぬ場所で負の波動を四六時中浴びながら管理し続ける獄界の使者。彼らが天顕疆界へ出向くことで振り撒く負の波動が、あらゆる死物や生物にまで悪影響を与えている事実は揺るがん。お前達の主張も理解の余地がある」


 会長も口をへの字にして動かなくなった。


「しかしそれを下地に、貴様らは天顕疆界を私物化し、霊への根本的な対処を疎かにした。新たな死物の送迎にばかり気を取られ、霊や異物には近寄るべからずと社員に教えるのみ。しかもあまりに凶悪な霊は、あたかも獄界の使者を出張サービスのように呼びつけて対処させる。自ら進んで汚れ仕事を請け負っている者への礼儀も配慮すらもないとは笑止千万、恥を知れ」

「面目次第もございません……」


 草西は赤子達を抱え、次郎の机に座らせた。二人の顔を見比べ、眉を寄せた。


「太郎、次郎。私も多くの罪を背負っている身だ、お前達を戒飭(かいちょく)できる立場でもない。ヒヨコや人事部長、ハナや彼女と共にいる子供にも悪いことをした。こうして目的のためならば手段を選ばん我々は、きっとドッペルゲンガーと同じ穴の(むじな)なのだろう」


 しかしと言葉を区切って彼女は告げた。それは格好に似つかわしくない、とても優しく温かみのある母性に満ち溢れた笑みを浮かべていた。


「私が愛するお前達ならば、まだ立ち直れる。新たな明日を見出せる。二人手を取り合って、獄界とも真摯に向き合い、救済の手を差し出し続けられるはずだ」


 期待しておるぞ。

 相好(そうごう)を崩す彼女に後光が射しているようだった。もしも神がいて、人の形をとったならば、このような顔で微笑むのだろうと二人は思った。

 太郎ははたと気付き、「あの子に、お決めになられたのですね」と問うた。

 次郎もようやく追いつき、つぶらな瞳を泳がせた。


「私も疲れた。御役御免というやつだ。末裔(まつえい)の到着を待っているとあと何年かかるか分かったものではないしな。しかし、その前に彼女には試験がある」


 ただしそれは別の話だ。

 昼前時草西は窓に顔を寄せ、〈お偲び様〉を眺めた。その双眸には、気が遠くなるほどの過去、記憶が走馬灯のように駆け巡っているようだった。

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