表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドッペル!  作者: 吹岡龍
30/34

〔夢-mu〕③ ただ一つの夢

 七月二〇日。

 朝のニュース番組が今日は記念すべき日だと伝えていた。一九六九年、アメリカ合衆国が開発した有人宇宙飛行用ロケット――アポロ11号が、世界で有史以来初めてとなる月面への着陸を果たしたのである。

 それは人々の夢だった。


『That's one small step for man, one giant leap for mankind』


 アポロ11号の船長、ニール・アームストロングによる、月面着地時の有名な言である。

 彼は言葉を間違った。直訳すると、〈これは人類にとって小さな一歩だが、人類にとって偉大な飛躍である〉となり、少々可笑しな一文(センテンス)になるのだ。“man”につけるべき不定冠詞の“a”を省略してしまったのである。〈一人の人間にとって小さな一歩だが〉とするべきだったのだ。

 彼はこの過ちを後の人々の寛容さに期待したが、このニュース特集を担当しているキャスターは間違っていないのではと切り出した。

 たったの一歩、何気ない一歩だが、これこそが大きな飛躍の一歩なのだという意味では、何も誤謬(ごびょう)ではないのではと。確かにとコメンテーターが相槌を打つと、紹介したキャスターは我が意を得たりと顔を綻ばせた。

 そんな彼にメインキャスターが待ったをかけた。日本時間では明日の未明だよね、明日でよかったのではと水を差したのだ。イイじゃないですかと担当が苦笑を浮かべるとスタジオに笑いが起きてオチがつき、次のコーナーに移った。

 途端、テレビの電源が切れた。次いで部屋の電気が消され、ドアに鍵がかけられた。

 ホールへ向かう足取りは決して軽くない。できれば皆、その場で立ち止まり、故人がいた日々に想いを()せていたかった。

 しかし遺体は時間と共に腐敗していく。火葬を基本としている日本では、長期保存を目的とする死体防腐処理(エンバーミング)などは行なわれることがほとんどない。彼が亡くなってから三日、なるべく早く、滞りなくスケジュールを進め、彼を弔う必要があった。そこに、遺された者達のエゴは介在するべきではない。

 神道の葬式は神葬祭と呼ばれる。この日は一一時から葬儀――葬場祭が始まる。通夜祭と異なって昼からなのは、火葬場の稼働時間などの事情がある。午後に葬儀を行なう場合もあるが、それは火葬を済ませた後となっている。

 ホールに入ると昨夜と違っている点があった。席の数が大きく減らされ、今揃っている人数分しか用意されていなかった。とても小ぢんまりとしていて、通夜祭よりも静かで厳かな雰囲気が漂っていた。

 昨夜と同じ席に着くと、昨夜と同じく清められた身体にねずみ色の衣冠を纏った神職が、(うやうや)しい笛と太鼓の音に導かれるように、参列者のみが集う斎場(ホール)にその清廉な姿を現した。

 彼が横を通り過ぎる最中、故人の親戚の一人である年配の女性が会釈をしつつ、「お暑い中ご苦労様でございます」と手を合わせて呟くように言った。

 神道は死を穢れたものと考えている。故に、神社では葬儀を行なわない。清泉館のような施設に神職が赴いて、執り行なうのである。

 今日は一段と暑い。ニュースでは猛暑日だと言っていた。

 あの日もそうだったと、来宮ユウミは膝の上で重ねた指を見つめて思った。渡り廊下で倒れる彼の姿が網膜に焼きついて離れなかった。

 祭壇の前まで歩を進めた神職は、遺族や親族に対して一礼した。そして葬場祭では珍しい友人らの出席に目を丸くしたのも束の間、同じように一礼して上げると、目を細めていた。それに気付いた来宮らは慌ててもう一度頭を下げた。

 この式の進行を務める女性スタッフによるアナウンスが響いた。今から、“修祓(しゅばつ)の儀”なるものをはじめるという。それは昨夜と同じ儀式だった。平安時代から続く祓詞(はらえことば)を祭壇に向かって読み上げるのだ。神道ではあらゆるシーンではじめにこれが行なわれ、昨夜も真っ先に行なわれた。


掛介麻久母畏伎(かけまくもかしこき) 伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ) 筑紫乃日向乃(つくしのひむかの) 橘小戸乃阿波岐原爾たちばなのをどのあはぎはらに 御禊祓閉給比志時爾みそぎはらへたまひしときに |生里坐世留祓戸乃大神等なりませるはらへどのおほかみたち 諸乃禍事罪穢もろもろのまがことつみけがれ 有良牟乎婆(あらむをば) 祓閉給比清米給閉登はらへたまひきよめたまへと 白須事乎聞食世登まをすことをきこしめせと 恐美恐美母白須かしこみかしこみもまをす


 祭壇前に座した神職が独特の抑揚で読み上げる。


〈畏れ多くも、死者が住まう黄泉の国を訪れた伊邪那岐大神が身を穢したために、億原(あはぎはら)という浜辺で身を清め、その際に多くの神々を生んだように、我々の犯した罪や心身の穢れの一切を清めお払いくださいという願いをお聞き届けください〉


 神への敬意と願いの一文である。神職の想いに応じて神が舞い降りたとするや、アナウンスが一同に起立を促した。参列者は頭を下げ、神職が振るう大幣(おおぬさ)――この神職が使うのは(さかき)の枝ではなく白木(しらき)の棒に、麻苧(あさお)ではなく紙垂(しで)をつけたもの――で祓い清められた。

 次に、“祭主一拝(さいしゅいっぱい)”として神職に従って祭壇に礼をする。

 昨日はこの後、“遷霊(せんれい)の儀”と呼ばれる、未だ棺の傍にいるとされる御霊に霊璽(れいじ)へと移っていただく儀式が行なわれた。霊璽とは白木で作られた故人の()(しろ)となる物で、仏教でいうところの位牌(いはい)に相当する。その際にも、祝詞(のりと)――遷霊祭詞(せんれいさいし)が奏上されたが、それは故人のために神社本庁から発行された原文を神職が改変している場合がある。だが、故人の御霊を丁重に霊璽へとお送りするという意味は変わらない。

 本日は遷霊の儀を省略し、昨日も行なわれた“献饌(けんせん)の儀”が続いた。神霊にお供えをするのである。

 榊の枝葉に紙垂をつけた玉串(たまぐし)を神前に捧げる“玉串奉奠(たまぐしほうてん)の儀”が、喪主である古城ミチヒデの父より順に行なわれた。これは仏教の焼香にあたり、玉串に自らの心を乗せ、神に捧げるという意味が込められている。喪主、遺族、親族、そして来宮らが続き、神職や遺族に一礼すると、玉串を両手で受け取る。

 右手に向いている枝の根元を右手で身体の方に回し、枝を持つを手を左手に変え、右手は左手の代わりに葉の先端を持つ。最後に手前にある左手を前に、右手を身体へ引き寄せるようにして葉を時計回りに半回転させる。枝が祭壇に向くので、それを玉串案に供える。遺影のミチヒデを仰ぎ見て、深く二礼すると、しのび手という音を立てない拍手を二回打ち、再び一礼する。三歩下がり、神職と遺族に一礼し、席に戻る。

 通夜祭の準備中、葦原タクはこの作法をスマートフォンで調べ、皆に教えていた。誰も恥をかかぬようにしたのだ。自分達が躓けば、ちゃんと天に昇れないと言って。

 献饌の儀にて供えた物を片付ける“撤饌(てっせん)の儀”が終わると、再び祭主一拝を行ない、神職は退場していった。

 彼の背中がドアの向こうに消えるや、アナウンスが喪主に弔電奉読(ちょうでんほうどく)を促した。席を立った男は、祭壇横に用意されたマイクの前に立つと一礼してから想いを紡いだ。その手には紙の類は用意されていなかった。




 父の声が左から聞こえる。感情を押し留めているのが厚い壁越しにひしひしと伝わる。忍耐強い彼らしいと息子は思い、その魂でしかと受け止めていた。


『強い息子でした。誇り高い息子でした。優しい息子でした。賢い息子でした。私には惜しい息子でした。生きて、私が果てるまでその姿を見届けたい、自慢の息子でした』


 慙愧(ざんき)に耐えないのはお互い様なのかもしれない。古城ミチヒデはそれを少しでも払拭するためか、ゆっくりと清泉館の通路を渡る。ホールの入り口扉前に少女が一人、閉じられたホール内を見透かしているようにジッと佇んでいる。彼女は彼が通う高校の夏服を着ている。

「おい」と、ミチヒデは彼女に声をかけた。


『まだ一七で、人生はこれからだった。後悔して止まない。これが嘘であったなら、夢であったなら、私は全ての愛情を、私財を投げ打って、彼の未来を照らしてあげたい』


 ミチヒデに目を向けた少女は少し驚いた顔をすると、耳もとの長い髪を小指でかき上げ、小首をかしげた。その姿、仕草は、まさしく来宮ユウミ。


『それが、私には、私達夫婦にはできない。親より早く死ぬ以上の親不孝はないと言いますが、あの子のために何一つできなかった私は何だろうか。妻の悲しみを晴らしてやることのできない私は、一体……』


 一度目蓋を閉じ、改めて現実を直視した。

 どうしたん、古城君。そんな優しげな言葉が聞こえてきそうな微笑を浮かべていた。それがとても、堪らなく、不愉快で、憎々しかった。


「ドッペルゲンガーってのは、殺した相手の葬式にまで顔を出してくれるような殊勝な奴なのか」


 左に傾いていた首を右に移し、来宮ユウミ――もとい、彼女に化けたドッペルゲンガーは顔だけでなく身体を彼に正対させた。

 何とか言ったらどうだと訊くが、異物は閉じた口の端を上げるばかりだった。まだそれは歪んでいなかった。事情を知らなければ、それだけで心を奪われそうな、可憐な笑みにしか見えなかった。


『皆様、本日はお忙しい中、ご列席いただきまして誠にありがとうございます。ミチヒデもきっと喜んでいることでしょう。とりわけ彼が幸せ者だと思うのは、こうして彼のためにお集まりいただいたばかりか、葬儀の手伝いまで買って出ていただいた彼の友人の皆さんの細やかなお心遣いです。みんな、ありがとうね……』


 ミチヒデは胸を抑えた。通夜祭が終わったときから知っていた。葦原や来宮達が、自分のために多くのことをしてくれていたことを。父の言葉に涙してくれているその心を。

 彼らは親友だ。疑いなど一つもない。オレは、彼らともっと一緒にいたかった。


「なぁ、ドッペルゲンガー。オレの気持ちが解るか。解るはずないだろうな。父さんが代弁してくれたオレの気持ちが、父さんさえも知らないオレの痛み、苦しみ、憎しみが、お前なんかにっ!!」


 真実の涙を流せない。締めつけられるほど苦しいはずの胸が何も感じない。違和感だけがそこにある。肉体的な意味合い――物理的な事象だけが消失、取り除かれ、隔離された、虚ろな感覚。

 そうさせられてしまった。こんな、化物に。

 ミチヒデは一歩足を引いた。ドッペルゲンガーが手を伸ばしていたからだ。来宮がそうするような、同情した眼差しで。


「いい加減、来宮の真似事は止めろ!! アイツの人生まで奪おうとするな!!」


 彼女にまで、こんな感覚を味わわせてなるものか。死せずして、生を知るに及ばず――生こそが、この世の全てなのだから。無意味な死物になんてさせてたまるか。

 ズボンのポケットから一本のフェルトペンを取り出したミチヒデは、矢庭にキャップを外して異物の顔面に筆先を向けた。ドッペルゲンガーまでの距離は四メートルほど離れている。その間合いを保ちつつ、憎き怪物の左のこめかみから右アゴにかけてペンを走らせるように振り下ろした。


「ドッペルゲンガー。オレはお前のことをほとんど何も知らない。だが、一つの可能性に賭けた。お前は変身しなくちゃ生物を殺せない、違うか!?」


 顔に何かが触れた。ムカデのように細長い何かが這っていったような不愉快な感覚があった。ドッペルゲンガーは窓に目を向けた。強い光の反射を受けて、自分の姿がおぼろげに映っている。

 そう、映っている。来宮ユウミの容姿がそこに。煌く赤い、一筋の細い線が引かれた、マヌケな容姿がそこに。

 頭の先から爪の先までぶるりと震え上がった。顔が見る間に青褪めていくのを自覚できた。瞠目して閉じることのできない瞳を、ゆっくりとぎこちなく、油を注し忘れて久しいからくり人形のような動きで少年に向けた。


「このペンのインクは次元を超えて顕界に届く。しかも不良品だ。そのインクは何をどうしたって消えない。これでお前はどこからどう見ても来宮の偽者だ……!!」


 まさしくそのとおりだった。来宮の仮面はガタガタと音を立てて崩れていった。顔面のいたるところにシワが寄り、老い、醜くなっていった。「こ」と言葉を発し、ミチヒデが眉をひそめると、やおら頭を擡げ、何かに気付いたような顔をした。

 右の人差し指を立て、インクを消し去るようになぞった。無意味なことをとミチヒデが高みの見物でいると、なぞったそばからインクが消えてしまった。

 ふふと異物は(わら)った。人を食ったような顔と言うが、コイツの場合は比喩にならないとミチヒデは極限にまで達していると思われた嫌悪感の上限を引き上げた。


「声まで似せやがって!!」


 ミチヒデはさらに加筆した。彼の意思に応じて、顔だけでなく全身に幾重もの線が引かれた。異物はそれを両腕で防ぐが、ミチヒデが思えば腕を擦り抜けて顔まで届いた。

 歯を噛んで何かを決意したらしいドッペルゲンガーは、来宮から全く別の容姿に成り代わった。ミチヒデだった。しかし本物は容赦なく、むしろ来宮よりも抵抗がないといった様子で間髪を容れずに落書きを続行した。変身する度にインクで穢された肌はたちどころに綺麗になるが、すかさず落書きされてしまった。

 そしてついに、どこをどのように変えても、誰に何に変身しても、どこかにインクが残ってしまうほどになってしまった。


「イイザマだなぁ、おい。モノマネ芸人も廃業じゃないか?」


 嘲笑ってやった。あの日の仕返しだ。

 悔しがればいい。そんな気分でドッペルゲンガーを見下した。瞬間、周囲の景色が歪み、稲妻のような閃光が一帯に(ほとばし)った。ガラスに映っていた化物の姿がなくなっている。幽体の濃度を下げ、人には見えないようになったのか。いや、この感覚は――。


小童(こわっぱ)がぁっ!!」


 一息に距離を縮められたミチヒデは、首根っこを掴まれ、その場に叩き落されてしまった。衝撃が波となって当たり一面に広がると、水面に投影された景色に一石を投じたように波紋を描き、気付けば真昼の中空で(はりつけ)にされていた。ドッペルゲンガーは、顕界から天顕疆界へワープしてきたらしい。


「貴様は万死に値するぞっ、古城ミチヒデ!!」

「いの、ちは、一回限りだ、バカヤロウ……」


 蹴り上げられ、一段高い場所で倒れ伏せるミチヒデに、ドッペルゲンガーはミチヒデでも誰でもない、見ず知らずの顔と声で怒鳴った。


「七〇年、いや、古より続く我らの大願が、貴様のせいで潰えたのだぞ!! この償い、如何にして果たそうと言うのか!?」

「何言ってんのか分からないけどな、そんなもんよりオレへの謝罪が先だろうよ!!」

「黙れぇっ、小童ああああああぁっ!!」


 黒い波動がミチヒデを呑み込んだ。漆黒の闇の中にあって、星も月も浮かんでいないというのにミチヒデ一人だけが浮き立っていた。

 腹に何かが当たった。見ると真っ赤に染まり、ぽっかりと空いた穴から血が止め処なく噴き出していた。痛みから逃れようとする身体が前のめりにさせる。

 激痛の最中、首を斬られた。暗闇の中で銀色の何かが閃いたように見えた。

 首の皮一枚で繋がる、文字通りの状況で首を押さえて蹲る彼の(すね)に何本もの傷がついた。見ると、四つも五つも並んだ三角の木材の上に正座させられ、しかも何枚もの巨大な石を膝の上に載せられていた。手足は縛られて動かず、上に向かって激痛を叫ぶしかなかった。

 その口を布で塞がれた。一向に自由の利かない身体は台の上に仰向きに寝かされていた。耳元で何かが聞こえるが聞き取れない。辛うじて、吐けという言葉が脳裏に過った。直後、顔に大量の水がかけられた。水は布を伝い、ほとんどが口の中に入っていった。ホースから水を直接飲まされているような感覚に、ミチヒデは溺死の感覚を味わわされた。

 ハッとして目が覚めると、辺り一面が火の海だった。家屋のことごとくが崩れ、いたるところで火柱が上がっている。この光景は知っている。次に起こることも、先日見た記憶がある。手足が焦げ、全身が爛れていくのだ。サイレンと悲鳴が鼓膜を苛む。先程嫌というほど浴びせられた水がほしかった。

 川に、飛び込まなくては――……。


「あの黒装束の入れ知恵ではなかったようだが、やはり仲間だったか。しかも妙な娘を連れておるな。どこにいる」


 ドッペルゲンガーはミチヒデに自らの記憶を与えると同時に、彼の記憶を垣間見ていたようだ。先日、自分を襲撃してきた者の姿を彼から見ることはできたが、彼自身は全くの初対面であったことは読み取れた。どちらかと言えばここ数日少年と連れ立っている黄色い衣装の少女のほうが情報を持っていそうだった。

 この如何わしい衣装は確か、〈魂引屋(たまひきや)〉の案内係。

 視線を上下左右に向けた。何かが左目を覆った。次いで右目も塞がった。何事かと顔を拭うと、手が血で濡れていた。それが自分の血だと認識するや、途方もない痛みが頭部を支配した。額が真一文字に割れるのが解った。大量の血液が噴き出し、しまいには頭部がすっぽりと切り取られ、脳を取り出されてしまった。

 永年どの記憶でも味わった(ためし)のない痛みに、意識まで磨り潰され、散り散りに引き剥がされてしまいそうだった。


「ここや、モンスターストーカー」


 朦朧とする意識に抗って、声がしたほうを見た。記憶で見た少女が、自身も赤い血潮と青褪めた顔でありながらも、気に食わない笑みを湛えて現れた。


「みゃ惑のつぇんきゃいにご招ちゃー、あーもうまた噛んでもた! とにかくガイドや、よろしくどうも!」




 白い棺が彩られていく。

 祭壇に供えられた色とりどりの供花(くげ)がミチヒデの遺体を華やかにしていた。

 そのたびに男は眉をひそめ、女はハンカチで目元を拭った。嗚咽と涙は絶えることがなかった。

 葦原は微笑を湛え、茎を切り取られた菊の花を手に親友の肩に触れた。


「俺はもう、ダブルスには出えへん。シングル一本でやってく。お前以外のペアはおらんからな。俺が死んだら、またラリーしような」


 菊を彼の右肩に添えると、祭壇に立てかけられたラケットに目を向けた。


「燃えないから、ダメなんですよね」

「可哀想だけど、持って逝かせてあげられない。でも、ボールだけなら……」


 ミチヒデの父はラケットの傍に置いていたテニスボールが入った新品の缶を開封し、ボールを二つ葦原に手渡した。

 手に馴染む、黄緑の発光色のボール。彼はしばらくそれを見つめ、かつてのことを思い出していた。

 ほとんどの中学校がソフトテニス部しかない中、葦原は親の勧めで中学時代からテニススクールに通い、硬式テニス一筋でやってきた。プロになりたい、そんな大層な夢がなかったからか、その才能を見込んでいたコーチらの説得も虚しく、テニススクールでも強豪高でもなく、学力に見合った公立高校に進み、そこでテニスを続ける道を選んだ。

 ノンタッチ・サービスエース。新人達による自己紹介の際、葦原は正直に言いすぎた。スクール上がりであることを公言してしまったことが 運の尽き。お調子者の三年生に親善試合だなんだと勝負を仕掛けられるや、ハンデと称して譲られたサーブ権を素直に頂き、格好をつけてフルパワーのフラットサーブを相手コートに打ち込んでしまった。

 それは宣戦布告、下克上、そんな不穏な主張に取られても仕方がなかった。これがマネージャーの樋野アスミが彼に一目ぼれするきっかけになったが、最後まで続けた1セットマッチをストレートで完膚なきまでにねじ伏せてしまったことで先輩と後輩の間で、巨大な軋轢を生んでしまった。

 風雲急を告げるテニス部の雰囲気に耐え切れず、入部早々に新人が一人、また一人と退部していった。その責任が葦原にある、アイツこそが辞めるべきだと囁かれる中、彼を擁護したのがミチヒデだった。

 ミチヒデは葦原をよく見ていた。礼儀が良く、優しさを持ち、物事には真摯に向き合うその姿勢を客観的に評価していた。コートの整備からボールの手入れ、ラケットに触れて間もない同級生へのケア、決して他人を(けな)さない人格、どれをとっても彼を批難する材料がないことをよく知っていた。

 あのときはちょっと(りき)んだだけ、よくあることだろ。

 同級生らを説得し、むしろ彼がいることでテニス部の将来が明るいことを伝えたのだ。それを知ったとき、葦原はペアを組むなら彼しかいないと思った。彼と一緒に同じコートに立てれば、どれだけ楽しくゲームができるだろうかと。

 他の学生の例に漏れない軟式テニス上がりのミチヒデに、硬式テニスのいろはから教えてやった。一緒にテニスショップに出向き、手頃で良いラケットを選んでやった。缶入りのテニスボールを新鮮な目で眺めているのは面白かった。サーブはめきめき上達し、全国出場経験のある顧問の先生に彼が褒められたとき、自分よりも上手くなる可能性を感じて少し嫉妬してしまった。同時に、今年の夏のトーナメントは去年よりもずっと高いところまで目指せるのではないかと楽しみで仕方なかった。

 馬鹿話もした。趣味も語り合った。アスミとの馴れ初め、来宮との関係、思春期らしい悶々とした話題で盛り上がったことも数え切れない。

 楽しかった。楽しくない日がなかった。

 葦原は視線を転じた。そんな親友が心から愛した女性にボールの一つを譲り渡した。


「え、コレは、私は……」

「好きな物をさ、好きな人からプレゼントされるって、幸せなことやと思わへん?」

「そ、それって……」


 失言だったかと葦原はばつが悪そうな顔をして、いいからいいからと彼女の背中を押した。親友が眠る棺にボールを手向け、後はお若い二人に任せてといった風に離れていった。

 ――これが、最期。

 この後、彼は火葬場まで運ばれ、灰となるまで燃やされてしまう。彼の姿を見られる、網膜に焼きつけ、記憶に刻みつける最期の機会。

 ――ここまで。この刻まで。

 来宮は胸に当てていたテニスボールをおずおずと彼の左肩に置いた。次いで、より一層震える手で花を手向けた。顔に触れた。指先から奔るひんやりと強張った感触にいよいよ耐え切れず、気持ちが漏れ出してしまった。

 意識が介在しない抜け殻に対してのみ感情を露にし、大胆になってしまっている自分を罵っていた。どうして彼が生きているうちに想いを伝えなかったのか。どうして正直になれなかったのか。自分の仮面を剥ぎ取るための高校デビューなんて、一つもできていなかったじゃないか。

 腕時計に目をやったスタッフが部下に指示して、籠に入った大量の供花を持ってこさせた。彼を彩るよう遺族らに勧める間も、来宮はミチヒデの冷たい頬に手を添えたままその場から離れなかった。

 胸が痛い。手で押さえても消えてくれない。

 嗚咽が漏れる。本音を隠しきれない。

 彼の顔を残し、棺の中が供花の海となり、来宮は声を震わせた。


「嫌や。嫌やあぁっ」


 子供のわがままのようだった。彼女は現実を否定する言葉を並べた。彼の名前を呼び続けた。

 親類縁者が冷めた目を向けていた。両親よりも強く、まるで悲劇のヒロインさながらの思い上がった態度で悲しむ様子に不快感を露にしていた。

 胸が掻き毟られるような想いをひた隠し、彼女の、彼女らの友人達は、そんな連中の一人ひとりの前に立ち、深々と頭を下げた。


「お気持ちはお察しします。ですが許してください。ただ、何も思わず、目を伏せてください。お願いします」


 親戚らの目は両親に向けられた。両親は彼らに一瞥もやらず、来宮の背中に優しげな眼差しを注いでいた。ミチヒデも喜ぶことだと、受け入れていたのだ。

 感情に歯止めが利かない。自分も同じ棺に入って灰になりたい。

 しかし現実があった。それは許されぬことだった。

 来宮は堪え、踏み止まって、彼から手を離した。彼の感触と熱が滑り落ちていった。彼の両親に一礼し、「お時間をいただき、ありがとうございました」


「こちらこそありがとう。アナタがいて、ミチヒデも幸せだったと思うよ」


 来宮は首を横に振ったが、そうであったならと欲をかいた自分を恥じた。

 両親による最期の別れが済むと、棺に蓋が取りつけられ、釘を打たれて窓さえも開かぬようにされた。

 出棺にあたり喪主からスタッフに礼を述べると、棺は男手によって霊柩車(れいきゅうしゃ)へと運ばれた。




 深いお辞儀に送り出されて霊柩車が走り出していく。それを遺族らが乗る清泉館のバスが追いかけていく。

 足下を流れ行く二台の車に注意を払う余裕がミチヒデとハナにはなかった。彼らは両側から仇敵ドッペルゲンガーを挟み込むように対峙していた。

 未練がましく容姿を変え続け、どこかに落書きがない姿がないか探しているドッペルゲンガーを、ハナはジッと注視していた。額の血を拭い、傷口が露と消えると、「アンタ、ホンマに異物か?」と疑問を呈した。

 どういう意味だとミチヒデが問う間も与えず、「私らに似た波動を感じる」


「お、オレ達と、コイツが似てる? 何馬鹿言ってんだ、ふざけ――」

「アンタの感情論に興味ないわ、黙っとき」


 真剣な瞳に押しやられ、蓋をされて吐き出せない不快感に苛立ちを隠せなかった。

 ドッペルゲンガーと同じ、どういう意味だ。気持ちが悪い、有り得ない。ハナの奴め、波動のせいで気が触れてんじゃないだろうな。

 ミチヒデの心配をよそに、ハナは淡々と告げた。


「私を殺した異物からは感情らしいもんを感じんかった。でもアンタからは明確な意思を感じる。理路整然としながらも雑多で、それこそ感情的な、人間臭い意思や」

「つまり何だ。まさかお前、コイツが死物だなんて言うんじゃないだろうな」

「正確には霊や。せやろ、ドッペルゲンガー。いや――」


 ハナの言葉を遮って、「ドッペルゲンガー。悪くない名前だが、女の言うとおり、それは私ではない」と一つではない、とても多くの声で一つの言葉を、一つの口で紡いだ。

「だったら何だって――」と、ミチヒデはようやく解に辿り着いた。気付いてしまった。

 初めて逢ったとき、殺された直後、化物だと思った。信じて疑わなかった。日吉ヒヨコにドッペルゲンガーではないかと言われたとき、まさにそうだと確信を持った。“同じ容姿の人間を見たら死ぬ”、その都市伝説にピッタリ当てはまっていたからだ。

 それが可能性を摘んでいたのかもしれない。一方ではじめから解っていたのかもしれない。どこか目を背けていたのかもしれない。“いただきます”、“ごちそうさま”、そんなことを口にするのは人間しかいないのに、人間の言葉を話す異物もいるだとか、どこか人らしくない表情言動に惑わされて、自分は化物に殺されたのだと、特別な何かに殺されたのだと、そうでもなければ自分が死ぬわけないと、根も葉もないのに結論づけていたのかもしれない。

 もっと早く気付くべきだった。複数の魂が寄り集まった存在がいることに。


「蟲霊……?」


 ミチヒデが解を出した。

 途端、ドッペルゲンガーの首から無数の顔が現れ、手足も四肢の付け根を介さずあらゆる場所から枝のように生え、身体も大きく膨れ上がった。それは顕界で実体を持っていたとすれば清泉館に巨大な影を落とし、学校さえも踏み潰せるだろうという想像を実現できるだけの巨体となった。全長は、一〇〇メートルは下らないはずだ。

 ミチヒデは腰を抜かしてしまった。ハナも立ち竦んで動けないようだった。

 微動だにできず、声一つ上げられない彼らに波動がぶつけられた。


「古城ミチヒデ。そして少女。我らの一部となれ。さすれば夢が叶う」


 天から降りかかっているというのに、その声は地獄から沸き立っているようなおどろおどろしさを内包していた。ミチヒデは、「夢……?」と鸚鵡(おうむ)返しをしてしまった。


「小童、何故我らを憎む、何故我らを恨む」

「い、言うにことかいて……!!」

「その感情は何だ。生への未練・執着、そして私を苦しめたいと思う殺意と復讐心だ。何故自分だけがと運命を呪う、苦悩の発露だ」


 ミチヒデは膝を立たせ、巨体の一部から突き出す顔に狙い済まして激昂した。


「そうだ! お前が、お前らが全てを奪った! オレから、大切な、全てを!! それを分かってやってるお前らは何だ、何が目的だ!!」

「我らもそうだ。全てを何かに奪われた。他者、都合、不運、現世に滞留するあらゆるものに手を引かれ、死地へと連れ出された。誰一人、自ら死など望んでいない。自害した者も、叶うならばより良き生を全うしたかった。それを許さない抗えぬ事情が、彼らに絡みついていた」

「それがオレを殺したことと何の関係がある! お前らが死んだことと、オレが殺されなきゃいけない理由に、何が!?」


 二重に出歩く者(ドッペルゲンガー)とは名ばかりとなった巨大な怪物は、間を置いてから言った。


「蘇生。復活。輪廻転生(りんねてんしょう)。我らが掲げる夢はただ一つ、あの世からこの世へ蘇るという、これ以上ない切なる願いだけだ」


 ありえへん。生き返るなんて、そんなもん。

 ハナがそんなセリフを呟いているが、ミチヒデの頭には入ってこなかった。


「小童共、貴様らに私の記憶を見せてやろう」


 次元が歪み、二人は記憶の坩堝に視界を奪われてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ