〔彼-hi〕① 神野ハナ
夜が明け、新しい今日を生きていく。それを羨ましく思わなくなって久しい。
生あることが何よりの幸福だと云われている。それでも神野ハナは今の自分に不満はなかった。生き甲斐――死人の身であるからそんなものはないのだが、彼女には死して尚できる仕事があったので、それが彼女にとっての幸福となりえていた。
白いブラウスに黄色のベスト。黒いマーメイドスカート。頭にはフェルト生地の小さな帽子をかぶり、首には黄色と緑で彩られたスカーフを巻いている。その姿はまさしくバスガイドのそれだ。白手袋をはめた手に持っている手旗を、指揮棒よろしくリズミカルに振っては、ご機嫌に鼻歌を唄っている。
享年一六歳のこの少女、朝日を浴びる頬の血色はとてもよく、大きな瞳は光を正直に取り込んだかのように輝いている。はたから見れば些かも死人とは思えず、生気に満ち溢れている。さも当然のように、宙を歩いてさえいなければ。
ハナは閑静な住宅街の上空を歩き、足もとに目をやった。多くの家々から人々が出ていく姿が見受けられた。出勤、登校、お出かけ……。あぁ、あのスーツケースは旅行かな。忙しない彼らに微笑むと、彼らよりもほど近い場所から天に向かって告げた。
「さぁて、今日もお仕事頑張らんとっ」
住宅街上空からまっすぐ歩いて一〇分ほど。アスファルトですっかり埋め立てられた丘陵地帯に建つ大学病院の上空に辿り着いた。階段を下りるようにして高度を下げた彼女は、いかにもお化けらしくコンクリート壁をすり抜けて、生きている誰にも感知されないまま院内への侵入を果たした。
しばらく院内を散策していたお化け少女はスタッフルームを訪れた。例によって閉まっていたドアをすり抜けてみると、興味深い話を聞けた。
「知ってる? 昨日、クーラー病でステった子がおるらしいで」
ステった。ステる、とは“sterben”――死亡を意味するドイツ語の略である。ハナは死んでからその言葉を知った。死人の先輩から教わったのだ。
「そこのヤマ高やろ。法医学教室の友達が言うとったわ。でも正確な結果は今日の昼くらいに出るはずやで」
「え、新聞には載っとるよ」
若い医師が同僚に、昨日の夕刊の小さな新聞記事を見せた。
ハナも一緒になってのぞいてみると、記事の見出しには確かに〈少年の死因はクーラー病か〉と記され、〈冷房で冷えた教室から出て、真夏の外気に触れたところ、しばらくして失神したと考えられる〉と説明している。しかし記者の主観ばかりで確たる情報源は一つとしてない三流記事だ。しかも署名記事でさえない“飛ばし”、大手新聞社にあるまじきあまりに無責任な内容である。
「話では法医学教室の教授の教え子が今はその高校の養護教諭やっとるみたいでな、軽く検死したらその可能性があるんじゃないかって話をしてたらしいで。多分記者がそれを聞きかじったんちゃうかな」
クーラー病とは、自律神経不良による症例の俗称で、正式な病名ではない。言わば、贅沢な現代社会が生んだ、他愛ない症状の一だ。冷房が効きすぎた室内と、高気温の場所とを行き来することで、体温を調節する自律神経――交感神経と副交感神経が混乱し、ホルモンバランスを狂わせる。すなわち体の具合が悪くなり、眩暈や嘔吐に襲われて倦怠感を抱くという不調を引き起こす。
しかし、「てか、クーラー病で死ぬって、有り得んくない?」まさにそのとおりである。
「まぁな。逆はあるけど」
「長時間暑いところにおって、いきなりプールに飛び込むとか、冷えきった喫茶店に入るとかな。体温が低下すると血圧が上がるから、温度差が大きいとそれだけで心臓発作とか心筋梗塞を引き起こす」
「汗を大量にかいてるから、体温低下の手助けしてダブルパンチ食らうんよな」
ハナもよく知っていることだった。夏場のプールや海、川、喫茶店やスーパーマーケットで亡くなった当事者に話を訊くと、皆が皆一様に、急に心臓が痛くなって、気がつけば死んでいたと答えるのだ。
ハナは机の上に腰かけて、彼らの話に耳を傾けた。
そうとも知らず、若い医師は彼女のそばの椅子に座って続けた。
「目立った外傷はなし、持病もなしって話や。長時間冷気に触れてたから血流が鈍ってて、いきなり真夏日の外気に晒されたから心臓が驚いて心停止って感じかな」
「全く釈然とせんけどなぁ」
おかしなこともあるもんやと、ハナはスタッフルームの壁をすり抜け、再び外に出た。またぞろ空中を歩き、階段を上るようにして高度を上げた。
病院から真南、二六四ヘクタールの敷地面積を有する大きな府立公園を隔てた先に、学校が二校見える。右曲がりの長い坂道の中腹に建てられた市立中学校と府立高等学校だ。昨日の昼に亡くなったという件の少年の死亡現場は後者のようだ。
ハナはそっと目を閉じた。心に圧しかかるものを感じ、一つ息をついた。
「そんじゃあ今朝のお仕事お一人目、行っちゃいますか」




