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ドッペル!  作者: 吹岡龍
24/34

〔溢-itsu〕② 焦眉の急

 左の二の腕につけられた、〈人〉と記された腕章。それを見た死物は通りを開ける。今や天界で絶大な権力を有する天界送迎センターの人事部である。

 天界ただ一つの伏魔殿、人々からはそう呼ばれている。社が定めた規律は勿論、天界の法を何より重んじ、反した者は必ず査問や裁判にかけ、悪意ありと判断されればすぐさま獄界送りとする、天界の司法機関よりもよっぽど行動力と決断力に長けている、一会社の部署である。

 彼らの矛先となるのは社に属する者がほとんどだが、民草が法を犯し、司法が動かないとなれば越権行為もなんのその、即時に手を下す場合があるので天界の死物にとっては恐怖の対象として悪名を轟かせている。

 しかし天に認められた善人というプライドがある死物らは彼らを強く批難せず、必要な浄化装置として彼らの行ないを黙認している始末だ。それを知ってか知らずか、はたまた己の行ないによほどの信念を持ち合わせているのかは不明だが、人事部は悪びれることなど一切ない。今日も戦時下の憲兵隊よろしくの威風堂々たる態度――白い巨塔の院長総回診さながらに大勢で往来のど真ん中を闊歩(かっぽ)するのだった。

 先頭を切り、自分達のために道の端に留まる善良な市民からただ一人のサブジェクトを涼やかな目で探す男の腕章は赤色をしている。それは日本で初めて暦が使われた推古天皇一一年――西暦六〇四年に制定された冠位十二階になぞらえて用いられた、色別による階級制度だ。彼が身につける濃い赤色は人事部長を示す。

 冠位十二階に従えば、彼の上には濃淡の青、さらに上には濃淡の紫が存在することになるが、それはそれぞれ常務、副社長、社長、会長を指している。この上位四名が腕章など持ち合わせていないことから分かるように、この階級制度は人事部の自己満足(ナルシシズム)によるところが大きい。つまり、どれだけ目上を敬おうとも、彼らはやはり自尊心が強いのだ。

 人事部長の真後ろには濃い黄色の腕章をつけた二人の男女がおり、そのさらに後ろには白が一人、残り六人が濃淡の黒をつけている。

 黄色の女がちらと上を見た。昼の輝きを齎すのっぺりとした空に、薄い黄色の腕章をつけた男の姿が小さくあった。彼は女に通信代わりの波動を送ると、受けた女は人事部長の耳に口を寄せ、「あの角を曲がってくるようです」


「はんっ。令状を」


 ハッと答える黒の部下が一名、大切に持っていたA4紙を上司に手渡した。

 普段は穏やかで、小鳥のさえずりが心地よいはずの閑静な住宅街に不穏な空気が垂れ込んでいた。あと一〇歩ほどで突き当たり、右手に曲がるとサブジェクト――要監視対象社員と行き当たる。

 サブジェクトは会長の肝いりで入社していることを逆手に、今日まで様々な傍若無人の振る舞いを繰り返してきた。被害を受けた者は数知れず、以前には人事部の部下が木刀で暴行を受ける事案まで発生したが、やはり会長の鶴の一声で有耶無耶にされてしまった。

 何故あのような者が天界にいるのか甚だ疑問でならなかった。ガイドとしては優秀で、霊落までのタイムリミットとされている六〇時間ルールを物ともしない長時間の天顕疆界滞在記録を有しているらしいが、そんなものが何だというのだろう。優秀なガイドは他にいくらでもいるし、滞在記録など社員の数を思えばいくらでも穴埋めできる。毎年の公募も競争率一〇〇倍など当たり前で、あのような小娘一人に執着する理由などあるはずがないというのに。

 愚痴をたれても仕方がないか。人事部長はもう一度鼻先で短く笑い、今日こそはサブジェクトに引導を渡してやろうと心に決めた。こちらにはもはや会長も擁護ができないほどの嫌疑――いやいや、疑いなどけしからん、決定的な証拠・証人・証言が揃っているのだ。会長には二〇年ぶりに曇りきった目を覚ましてもらうとしよう。

 一同はいよいよ角を曲がった。右目を向け、ややあってサブジェクトと視線を交じらせた。正対し、たらりと下がった前髪を払い、「日吉ヒヨコだな」と問うた。

 気色の悪い、温室育ちで庶民の心など意に介さないマザコン坊ちゃん特有の厭らしい声だとヒヨコは思い、いつものしかめっ面を一割増しにした。


「凄まじい偏見で罵られたような気がするな」

「悪口なんて一々気にしていたら耳が腐るだけだぞ」

「はんっ、いい減らず口だ。だが、それも今日で耳にできないと思うと、多少の寂しさで魂に穴が空いてしまいそうだ」


 ヒヨコはへの字の口の勾配を二割増しにして、彼らの横を通り抜けようとした。慌てた部長――きっと世間一般的には甘ったるい容姿のイケメンである彼は、髪を振り乱して彼女の行く手を塞いだ。コバンザメか金魚の糞かという部下達が彼の後に続いた。


「どっちかってーと、RPGのパーティだな」

「何の話だ、日吉ヒヨコ」

「テメーと話してる暇はねぇって言ってんだ。勇者気取ってんなら無言でいろよ」

「何処に行くつもりかな、日吉ヒヨコ」

「昼休憩が終わったんでな、仕事に戻るんだよ。これでも仕事をサボったことは数えるほどしかない」


 彼女は破顔一笑するが、それがとてつもない恐ろしさを秘めていることは言うまでもない。自分が悪だということを自覚しているらしい。部長はますます彼女を生理的に受けつけられなかった。


「これでもと言ったからには無遅刻無欠席の勤労者だと答えるべきだ。いやしかし、自分をよく客観視できているじゃないか、日吉ヒヨコ」

「あのさぁ」

「何だ、日吉ヒヨ――」

「さっきから誰に断ってフルネーム連呼してんだ、お前。名乗りもしねぇで偉そうだな。死ぬまで友達いなかっただろ」


 ヒヨコは眉を波打たせ、得意の暴言を吐き捨てた。

 こうした輩の対応に不慣れな濃い黄色の腕章の男が、「貴様っ、部長に何て口を!」と上司の後ろから巨体を揺り動かして躍り出た。

 すると不良社員は嬉々とした様子で彼の肩を気安く叩いた。


「お、何だよテメー、コイツのお友達か? よかったな、そのダッサイ赤布つけてても、死んだら友達できたんだな。つーか何、テメーら。揃いも揃ってカラフルな布、腕に巻いてさ。アレか、今から秘密基地でも作りに行くのか? どこにあんだよ教えろよ、木っ端微塵に潰しに行ってやっからよぉ」


 ひゃっはっはっはっ!

 まるで悪魔のように人を扱き下ろした彼女は高らかな笑い声を上げた。善意や誠実をモットーとして疑わない彼らの目には、彼女の背中から黒い蝙蝠(こうもり)の翼、尻からは(もり)のような返しのある尾が生えているように見えた。挑発された部長には彼女が腰に差した木刀が大きなピッチフォークにさえ見えてしまっていた。


「おいおい泣くなよ、ホントのこと言われたからってさぁ。せっかくの苦労知らずのキレーなマヌケ面が台無しじゃねぇか」


 これでもかという一点集中砲火の憂き目に遭った人事部長は、その端麗な容姿をグチャグチャに歪ませ、目に涙を浮かべた。しかしポロリと零さずに懸命に堪え、鼻を啜るだけに留めるその仕草が何とも幼くて、彼女のサディスティックな感情に火を灯すばかりか薪をくべてしまった。

 次は何と罵ってやろうか、そんなことを考えていると、一枚の紙切れで視界を塞がれてしまった。何やら小難しい文言を並べられたその文書の右下には、その強制執行を認めるという天界司法のお偉方の判が押されている。それなのにどうして司法機関ではなく送迎センターの一部署ごときが偉そうにつきつけているのか、一体全体ワケが分からなかった。

「ひっ、ひっ!」と嗚咽でまともに喋れない上司に代わり、黄色の女が代読した。


「日吉ヒヨコ、アナタには天界法違反、並びに職務規定違反の疑いがかけられています、ご同行願います」


 ヒヨコは上機嫌に上がっていた眉を下ろし、その場で立ち尽くした。

 何も答えず押し黙るサブジェクトに、今度は人事部長が攻勢に転じた。


「おやおや、さっきまでの威勢はどうしたんだ、日吉ヒヨコ? さしもの貴様もこうして面と向かって正規の手続きを経た令状を差し出されれば屈服するのか、日吉ヒヨコ?」


 人事部長の言葉に部下達が失笑した。牙を抜かれた様子のヒヨコをダサいと嘲り、「てか何だよヒヨコって、DQN全開すぎんだろ」と彼女の逆鱗に触れるような罵詈雑言さえ吐き捨てた。これで栄誉ある天界人と胸を張るのだから性質が悪いことこの上ない。


「日吉ヒヨコ、査問会に出廷した暁には、今日の貴様の暴言も議題に挙げさせてもらう。社で搾り取った後はすぐに裁判だ、覚悟しておくことだな」


 ほくそ笑む部下達に目もくれず、ヒヨコは真っ直ぐな目を部長に向けた。「お前、ガキだな」と口角を上げるので、部長は眉を顰めた。


「何だと? 死後歴は貴様の享年の倍以上も長い、いい加減その野蛮な口を慎め」

「いいやガキだね。いるんだよ、どんだけ長く天界にいても、モラトリアムから抜け出せずに甘ったれた本質を変えられない奴ってのがさ」


 ヒヨコは一歩踏み出した。ただし地面ではなく、空中の足場を踏み締め、階段を上がった。「逃がさんぞ!」と部長のみならず部下全員が彼女の前後左右、上下さえも包囲した。

 彼らは警棒を構え、彼女の動向を窺った。少しでも妙な素振り――例えば逃亡、あるいは腰に差した木刀に触れでもすれば、即座に拘束する気だ。

 動くな、大人しくしろ。口々に警告されたヒヨコは、「(やかま)しいよ」と耳に小指を突っ込んで嘆息を漏らした。


「ワガママは愛しいママか保育士にでも言っとけよ。私は仕事があるんだ、退()け」

「貴様に与えられる仕事なんてもうないぞ」

「お前、相当バカだろ」

「なに?」

「仕事は与えられてやるもんじゃない。自分で見つけてくるもんだ。お前、やっぱりバカなガキだ」


 戦前か戦後の生まれかは知らないが、若いうちに死に、社会に揉まれることなくこんなぬるま湯に放り込まれ、誰のお叱りも受けないから自分のやっていることは正当であると信じて疑っていないのだろう。それなりの賢さがあったから今の地位を手にしているが、自分が言えば逆らう者はいないと思い込んでいる横柄な態度は目に余る。まるで昔の、生前の自分を見ているようだとヒヨコは思った。自分も、殺されなければこれに気付かなかったのかもしれないと思うと、笑みが零れてしまうほど情けなく感じた。

 何を笑っていると青筋を立てる余裕のない彼らにヒヨコはまた一つ息をつき、肩を大きくすくめた。


「ついてこい、面白いものを見せてやる。私を裁くのはそれからでも遅くないはずだ。ついでに人の従え方ってやつも教えてやるよ」




 本日も心よりの笑顔で丁寧にご案内させていただきます。天界送迎センター、本社受付係です。

 そんな理想も理想、真実その仕事を愛しているか楽しんでいるかでないと出てこないような接客理念を地で貫いているような女性が二人、そうインプットされたロボットか名優か詐欺師のように完全無欠完璧な接客スマイルで、本社エントランスの受付フロアの椅子に腰かけている。

 彼女らは天界一の美女と称されるほどの双子だ。社に関わりのない男性達が引っ切りなしに話しかけてくるほどのモテっぷりで、非公式ではあるがファンクラブがいくつも存在している。生前に元アイドル、元モデル、元芸能人だった連中など足下にも及ばない人気を博しているのである。

 鼻息の荒い男共の話にうふふとお上品な笑みを返す。それだけで男達は眩暈を覚え、恋の泥濘(ぬかるみ)からさらに抜け出せなくなってしまう。少しでも触れようものならダメですよとお叱りを受けるが、それもまた心地よいのだ。

 しかし双子は彼らの話が面白かったわけではない。こうして囲まれ、甘い言葉や褒め言葉を投げかけられるこの環境に快感を覚えているに過ぎないのだ。

 可愛い。綺麗だ。美しい。アメイジング。今度俺とデートしてくれ。いや私が美味しいディナーにご招待しましょう。いやいや俺が面白いものを紹介してやる。映画はお好きですか。付き合っている男はいるの。もう、とりあえず結婚してください。

 死んでも尚、本能をさらけ出す男共の背中からは思わず鼻をつまんでしまうほどの臭気が漂っていた。彼らの中には奥さんや子供を持つ者もいるだろうに。いや死んで離婚した者達は少なくないのだから一概にそうは言えないか。しかしまぁ、見ていてイイ気分がしないのは女性なら当然の反応だった。ましてや女の園の形容が的を射ている――スタッフの九割ほどが女性である――この会社なら、尚更だ。

 今日もブリブリしやがって。遠くから受付一帯に白い目を向ける彼女らは落ち込んだ気分を上げる算段を話し合った。甘い物、美味しい物を食べに行こう、週末旅行にでも行こうかなど。死んでからというもの、いくら食べても太らないし、旅行も自由に何処へでも行ける。しかしそれが終わればまた仕事場でこの光景かと思うと、やはり憂鬱にならざるを得なかった。仕事をしなくても生きていけるのだから、いっそ辞めてしまおうかとさえ思うほどだった。

 そんな彼女らの耳目は本社の正面玄関に向けられた。清掃など不要な、かくあるべきと定められた透明のガラス扉が両開きにスライドすると、あの女が現れたのだ。人を見るだけで射殺せそうな切れ長な瞳、一昔前のヤンキーのように肩に羽織った赤い不死鳥の刺繍入りの白いスカジャン、腰に差した木刀はまず間違いない。日吉ヒヨコだ。

 彼女だけなら何の変哲もない、日常の一ページでしかない。問題は、彼女がハーメルンの笛吹き男のごとく、あの悪名高き人事部を引き連れて先頭を歩いていることだ。

 どういう状況だ。そう女性スタッフらが呆気に取られていると、エレベーターに向かって受付前を横切る寸前、愉快な音楽を奏でる笛吹き男ならぬ人の不幸や揚げ足取りが大好物の恐喝女が高らかに言った。


「おーい、お○ぎとピ○コぉー。最上階直通エレベーター借りんぞぉ~」


 突然の声に男達は何だと首をかしげた。話を戻そうと振り返ると、あのお人形然として可愛らしい双子が、バシャンバシャンと波打つほどに目を泳がせ、冬の雪山に放り出されたようにガタガタと身体を震わせるや、頭の先から滝を被ったかのごとく大量の汗を垂れ流していた。それでも彼女達のポリシーなのか、懸命に平静を装って口だけは笑顔を保とうと口角を上げているが、薄っすらと覗く白い歯はカチカチと忙しなく衝突を繰り返している。それがとても滑稽で、女性スタッフらはまさかと、特大スクープを手にした記者のように、今の今まで不機嫌だった眉を山なりにした。

 察しの良い男が双子の片割れの頭に手を置いた。他の連中に咎められながらも意識を凝らすと、彼女が必死に押さえ込んでいた過去がブツ切りになって魂に流れ込んでくるのが分かった。ややあって彼はそっと手を引いて、ゆっくりと踵を返した。

 取り巻き仲間がどうしたのかと問うと、男は憑き物が落ちたように爽やかな、それでいて夢を諦めたような物悲しい表情を天井に向けた。


「俺、女が好きなんだ」

「は?」

「別にそういう性癖とか? 病気とか? はさ、個人の自由だったり仕方ない面ってあると思うんだ。でも俺が好きなのは純粋な女なんだ。ただ、それだけなんだ……」


 そう言って扉を潜る男の背中がいやに寂しく見えた。男達は顔を見合すと意思の疎通ができたようで、それぞれ身近な受付嬢に触れた。中には最後の別れと称して胸にも触れた。そしてやはりそっと手を引き、踵を返して、無言のまま去っていった。

 女性スタッフらが挙ってハイタッチしたのは言うまでもない。


「「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、日吉ヒヨコ!!」」


 双子というのは疑わざる事実だったようで、見事に言葉を重ねている。彼女らはあの笑顔をどこに捨て去ったのか、凄まじい剣幕で受付から飛び出してヒヨコのもとまで駆けて行った。顔を真っ赤にし、眉間にシワを寄せ、目に涙を浮かべては肩で息するその様さえもシンクロしていた。

 早くエレベーターの使用許可くれよとヒヨコは平然と言った。最上階への直通エレベーターは、会長から副社長までいずれかの重役の許可と受付嬢による許可の、二重のセキュリティーで守られている。ヒヨコ達はエレベーターの扉前で待ち呆けていた。


「「何で、何であんなこと言うのよ!?」」

「嘘なんてみっともねぇって思わねぇか。あんな小汚ぇ仮面被って何が楽しいんだ」

「「アンタみたいな不良には分からないわよね、これがどれだけ嬉しいことか!!」」

「私は今のアンタらのほうが好きだけどな。もう一回死ねとは思うけど」

「「何ですって!?」」

「知ってるか。今顕界じゃあ、お前らみたいな連中を受け入れるムーブメントが起きて法制化が進んでるんだ。宗教上のハードルは残っているが結婚も認められるようになってきてる。お前らはさ、そういう連中だけをターゲットにするべきじゃないのか」


 騙して虜にするなんてフェアじゃないだろ、と彼女は言った。双子はポカンとしたまま動かなくなった。

 ヒヨコはエレベーターに目を向けると息をつき、宙の階段を上りだした。「何処へ行く気だ!?」と声を荒げたのは人事部長だ。


「よくよく考えればどうせエントランスは監視されてるからな、私はもちろん門前払いだが、人事部長の名前を使っても私のことはすぐにバレる。だったら直接カチコミに行くしかないだろ」

「ちょ、直接だと……!?」


 天に魔王が降臨したようだった。彼女は極悪な笑みを湛えると、一段一段階段を上った。

「ヒヨコ、頑張ってー!」と黄色い声援が届き、人事部一同は身体を竦ませた。彼女がマンションの三階分はありそうな高いエントランスの天井に近付くたびにそれは激しさを増した。


「先輩やっちゃえー!」

「カッコイー、ヒヨコ様ぁー!!」


 けたたましい歓声に、「下の名前で呼ぶんじゃねぇーよ」とヒヨコは立てた親指を下に向けて応えた。拍手喝采、ビジュアル系ロックバンドよろしくの圧倒的なカリスマ性が齎した熱気に、人事部や受付嬢の双子は噎せ返りそうになった。

 ヒヨコは木刀を抜くと、幽体製の天井に向かって槍投げのように力一杯放り投げた。切っ先が天井に刺さると、運動エネルギーを殺さずにビルの最上階を目指して次々と障害物を砕き、垂直に突き進んでいった。

 瓦礫は地面に落ちずに中空に留まった。それどころかヒヨコを恐れ戦くように退いて、彼女のために大穴を造り出した。彼女はスカートのポケットに手を突っ込むと、脚立を上がるように四四階にある会長室を目指した。




「しょ、東海林様! 日吉っ、日吉ヒヨコが!!」

「んうっ!?」


 エントランスを監視していた者からの一報に、これまで冷然としていた副社長秘書は慌てふためいた。御重永アサコから神野ハナについて情報を引き出そうと尋問を続けていた東海林は見る間に血相を変えた。

 日吉ヒヨコが、あの不良女がまた何かしでかしたのか!? 人事部は一体何を!

 焦燥と不安に駆られる彼と、椅子から離れられないアサコの間に、一振りの木刀が現れた。あまりの速さに、それが天井に深く突き刺さるまで何処から飛び出してきたのか分からなかったほどだ。

 唖然とする一同が見守る中、丸い大穴の中から問題児が現れた。彼女が床に足をつくや、大穴は何事もなかったかのように塞がった。彼女は木刀を引っこ抜いてからアサコと目を合わせた。


「もしかして、ゲロっちゃいました?」


 アサコは、「何も話していないわ」と椅子にかけたまま首を横に振った。

「ですよね。となれば、あのデブか」とヒヨコは左の手の平で右手の拳を受け止める仕草をした。彼女が言う“デブ”とは、本日昼前に天界へ送迎した死人、コウジのことだ。天顕疆界にて死後六〇時間以上経過してから霊落しかけた彼は、アサコや神野ハナの活躍によって未練を断ち切られ、またヒヨコの説教やアサコの懺悔などの甲斐あって天界へ昇る運びとなった。

 そんな彼を疑うのは、彼の性格が非常に卑屈であるからだ。臆病で内向的な彼は務めていた会社で美少女フィギュア趣味をネタに馬鹿にされ、自主退職するまで精神的に追い詰められた。それをきっかけに全てを他人のせいにし、さらには社会人として復帰することもできず、家に引きこもっているうちに絵に描いたようなメタボリック体型になり、高脂血症による心不全で突然死してしまった。そうして死物と化した彼は様々な恨みと愛する美少女フィギュアへの未練から霊落しようとしていたのである。

 そんなひ弱な彼のことだ、リィーノとかいうお気に入りのフィギュアの件もあるから自分から情報を売ることはないだろうが、人事部の連中に尋問をかけられて強引に記憶を覗かれたか、あるいは尋問に耐え切れずに漏らしたという可能性は大いにあり得る。

 ヒヨコは舌打ちした。


「何があったの、日吉ちゃん」

「ハナ達がアブねーかもしんないんですよ」

「アナタねぇ、そんなことは初めから解っていたことでしょう」

「そうなんですけどね。あのときとは事情が違うっつうか。とりあえず、今アイツの“病気”が治ると不味いんですよ」


 病気。そう、アレは病気だ。

 壮絶な最期と、友人が霊落する瞬間を目の当たりにするという二重苦が、神野ハナを過酷な病に侵したのだ。人として死にきれず、人としての未練を理解できない、悲しい病に。

 ヒヨコはそんな彼女の病を治すため、ドッペルゲンガーへの復讐に躍起になるあの少年と心を通わせることを願った。少年は少年、まだ子供で、とても危なっかしい。しかしその危うさがとても人間臭く、今のハナにはとても必要な薬に思えた。荒療治には違いなかったが、少しでも未練というものへの理解が進めばいいと思い、彼女に彼との同行を強制した。

 しかしヒヨコは、そうやって彼女に命令した数時間前の自分を張り倒したくなっていた。いやむしろ、肝心なことを伏せていたあのエセ情報屋――昼前時アカネの余裕ぶった顔面に右ストレートをブチ込みたい気分だった。

 厚貌深情(こうぼうしんじょう)という名のペルソナを被った彼女はヒヨコに問いかけた。それはとても婉曲(えんきょく)に答えのヒントを与えているようだった。禅問答(ぜんもんどう)というよりも当て推量がいいところだが、ヒヨコは一つの予想を立てた。その勘が正しく、真実に近いほど、ハナや少年を危険に巻き込む可能性が高くなると考えられた。

 かてて加えて、別れ際のアカネの微笑だ。何か試されているようで気に食わなかった。


「日吉ちゃん、身勝手も程々にしておきなさいね」


 アサコの声で我に返ったヒヨコは、「はい、地区長」と上司の言葉を素直に聞き入れた。その場にいる副社長やその秘書がどう思ったかは分からないが、アサコにとっては珍しい光景ではなかった。言うなれば日吉ヒヨコはヤマアラシの皮を被ったハリネズミだ。見た目は刺々しく、うっかり触れれば針で刺してしまうが、その懐はとても温かい。アサコの前では従順で素直な子なのだ。自分で送迎したこともあるから、最も信頼できる部下だ。

 そんな彼女が副社長室から出て行った。外野扱いされた東海林は憤慨して後を追った。彼の秘書も続いて、揃ってヒヨコの進路を遮った。


「ま、待ちなさい! 待ちたまえよ、日吉ヒヨコ! 貴様っ、どこへ行くつもりだ!?」

「部屋間違っちまったんだ。邪魔したな、課長」

「副社長だ!」

「昇進したんスか、おめッス」


 上司に対してとは思えないぞんざいで横柄な口振りだったが、不服にも二〇年来の付き合いともなるとさすがの東海林も慣れきっていた。一々動じず、「ここから先は一歩たりとも通さんぞ!」と社長室の扉前で自らバリケードとなった。

 退()けよ、ハゲ。ならん。二人が押し問答を繰り返す中、秘書は助けを求めて廊下の端から端へ視線を回らせた。すると西の突き当たりからチャイムが響いた。軍靴(ぐんか)のような跫音(あしおと)が列を成して雪崩(なだ)れ込んできた。人事部だ。

 それを一目見るや、「貴様ら何をしていた!」と東海林が冷や汗を垂れ流しながら怒鳴った。人事部長は顎を引いて、「も、申し訳ありません……」その目は悔しさで満ちていた。それもそのはずだ。人事部長は見てくれに反して東海林よりも死後歴が長い。生年さえも随分上で、死界の上下関係上は東海林が礼を尽くす立場だ。

 しかしこの会社はちぐはぐで、幹部になればなるほど死後歴よりも役職(ポスト)が物を言うのだ。顕界と同じく、学歴でもなければ経歴でもない、結局はその時の権力が上下関係の判断材料となるのである。

 才能を買われてあっという間に副社長待遇となった東海林と異なり、長らく人事部長止まりの彼は苦虫を噛み潰したような渋面を湛えることしかできなかった。


「言い訳は聞かん! とにかく今はこの女をここから抓み出せ!」


 粛々と命令に従う人事部長はヒヨコの肩に手を置いた。彼女はそれを払い除けると、東海林の胸に顔を埋めた。何が起きたのか分からない東海林は、ただただ唖然として社長室の扉に背中を貼りつけるばかりだった。

 ヒヨコはその喧嘩慣れしているとは思えない細く長い人差し指を彼のネクタイに這わせた。中指、親指と順に手の平までつけ、彼のハリのない横顔に唇を近づけた。生々しい息遣いのあと、彼女はあのキツイ双眸を潤ませるや、上目遣いで中年男を誘った。悩ましげな眉に、上気した頬、艶っぽい唇。どれもこれも東海林好みの大人の女性が用いるもので、秘書にプライベートでこうして迫ってきてもらいたいという願望そのものだった。

 何だこれは。自分が知る日吉ヒヨコじゃない。彼女はもっと乱暴者で、見た目こそ背が高く大人っぽくはあるが、その精神年齢は子供、緊箍児(きんこじ)の外れた孫悟空だ。誰も止めることができない暴れ猿だ。

 あり得ない。こんなことは断じてあり得ない。罠に決まっている、決まっているが、どうしてだ。どうしてこの女は私のツボを心得ている。どうしてそんなに物憂げな瞳で私を見上げる。公衆の面前だぞ、部下も何をどうすべきか分からず固まってしまっているじゃないか。これ以上痴態を晒すのは止めてくれ、これ以上、私からオトコを引き出すのは……あぁ、そんなところを執拗に触られたら、そんな、そんなあぁあぁぁあああああ――。

 魂が天界よりさらに高い場所、もしかすると神の世界へ誘われる寸前、東海林はアサコが眉間を押さえているのを目撃した。次いで、秘書が瞠目して口を押さえ、人事部長をはじめとした男性社員が白目を剥き、女性社員が青褪めた顔を突き合わせて耳打ち合っているのが見えた。

 自然、東海林の視線は下降し、にったりと清々しいほどの笑顔を湛える悪魔が胸に貼りついたままでいることを確認した。悪魔の手には見慣れた薄いピンク色の刺繍が施された可愛らしい女性用下着、いわゆるブラジャーがこれ見よがしに握られていた。推定Aカップの慎ましい膨らみのそれは、東海林のボタンが外されたシャツの下から左胸だけ露になっていた。


「なぁ、お前ら。顕界じゃあ同性愛者の権利云々と話題になっちゃあいるが、女性物の下着を愛用している性的嗜好の歪んだ男をよく思う風潮が今後生まれると思うか。天界は自由だが、こんな趣味嗜好の自由を、従業員約四七〇万人が受け入れられると思うか。幸い、ここには十数人しかいない。私はもちろん、お前らがその気にならなきゃあ、この話が外に漏れることはない。副社長が女性物の下着を常時身に着けて、くっさい口で偉そうな言葉を浴びせていることなんてな」


 悪魔が宣告する。

 ぐうの音も出せない副社長は腰を抜かし、その場に蹲ってしまった。

「こ、これが貴様の言う、人の従え方というやつか?」と人事部長が悪魔の背中に問う。すると彼女は踵を返し、彼の肩に腕を回して数枚の写真を見せた。何をやっているんだろうと部下らが覗き見ようとしたが、人事部長は正気を失くして奇声を上げ、写真を全て奪い取って一同から距離を取った。


「いいか人事部長。あまり偉そうな口ばっか聞いてやがっと、お前のクマさんパン――」

「分かった、分かったからそれ以上先は口にするな!」

「するな?」

「しないでくださいお願いします!!」


 泣き崩れる人事部長に部下らが当惑のまなざしを向ける一方、すっかり廃人と化した東海林の足下に女性秘書が白い封筒をそっと置いた。退職願としたためられており、「お世話になりました」と一礼するや、そそくさとエレベーターのほうへ向かっていった。

 日本で初めてオヤジ狩りに遭ったのではないかとされる東海林の最大の不幸は、ただ殺されたことではなく、女性用下着を身につけたまま死に、それが死後に身内にバレてしまったことだ。それでも性癖が改善されないのは、魂が記憶と精神を司っている――つまり死ぬまでの生前の記憶としてそれさえもが色濃くインプットされてしまっているからだ。もはや中毒なのである。

 他人のプライバシーをも強引に抉じ開け晒してしまう人でなし女は、廃人を跨いだその足で社長室の扉を蹴り破った。広い部屋だ。もしかすると副社長室の倍以上あるかもしれない。自宅の何倍あるだろうかとヒヨコは舌打ちした。

 窓を背にして執務机がある。大きな背凭れの椅子はこちらに向いているので留守のようで――いや、いる。ヒヨコはどこかに隠れているはずだと部屋の中をぐるりと見て回った。その衣擦れの音でも聞き取ったのだろう、部屋の端にある出入り口とは別のドアから水の流れる音に声が続いた。


「東海林くーん! やっぱりコレいいよぉ、このオムツ! 吸収性も速乾性もハンパない上に横漏れも安心だから急いでトイレ駆け込む必要なか……」


 ドアノブが回って出てきたのは、推定二歳児と思しき年端もいかない幼児だった。タッチを覚えたばかりのよちよち歩き、顔はベイビー然としていて声もそれらしく無邪気に高かったが、口調は酸いも甘いも噛み分けたオッサンのそれだった。


「よぉ、相変わらず漏らしてんのか。景気いいな、社長」


 そうなのだ、この幼児こそが天界送迎センターの社長なのである。

 彼はヒヨコを見上げると一つ咳払いして、まるで緩めていたネクタイを締め直すかのようにオムツのテープを張り直して、「何か用かな、日吉君?」


「頼みがある」

「何だ」

「神野ハナを助けてやってほしい」


 社長は瞑目した。

 いつも毅然(きぜん)としている彼女が膝をつき、床に額を擦りつけている姿など見たくなかった。

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