〔溢-itsu〕① 正体見たり
幽体は時折発光する。例えば霊魂の代名詞とも言える“火の玉”がそれに該当する。現代においては心霊写真や恐怖映像などというかたちで、大小様々な光る球体――“オーブ”が捉えられることもままある。ことオーブについては、大気中の水分や埃など、微小な浮遊物が光を反射させることで映りこんだというのが科学の分野における専らの解釈だ。
生きているうちはその考えでいいだろうと、多くの死物は考えている。皆、死という運命には抗えぬのだからと。
オーブ、もとい幽体が発光するのは、強いエネルギーを放出しているときだ。幽体は魂や魄を構成する微粒子であるが、魂が波動を放出する際、幽体が剥がれる場合がある。そうして本体から離脱した幽体そのものが、魂と比べれば微力ながら確かなエネルギーを放出し続け、写真や映像に記録されるというのが真実というものだ。
こうした話を死後歴の長い死物が新人に対して教える際に挙げる例で最も多いのが、死んだ直後の魂の行方だ。魄の崩壊に伴って飛び出した魂は、顕界に対して上向きに存在する死界の重力に引っ張られて、ヘリウムガスで膨らんだ風船のようにふわりと浮き上がる。その間、魂に内包された自我、意識というものは失神しており、しかしながら無意識に死界へ向かうために次元の超越――ワープを開始する。そこで魂は大量のエネルギーを放出し、その者が生前善い行ないをしていれば何事もなく天顕疆界へ、悪事に手を染めていれば獄界の使者の手により罪咎疆界へ送られる。どちらかの疆界へ出現する際、魂は一度無数の幽体に分離し、再構成される。その折、人の目で感知できないレベルで発光するのだ。
今し方、ドッペルゲンガーに殺された黒ネコがまさにそれだった。肉体から離脱した魂は宙に浮き、やがて次元を超えて天顕疆界へ出現した。光の粒に見える幽体が再び寄り集まって、魂を再度構築した。
魂は記憶と精神を司る。生前で最も記憶に残る姿かたち――このネコの場合は死ぬ直前の姿になり、意識を回復するとその大きな目を瞬かせた。見たこともない世界、見上げるばかりだった空が近く、あれだけ頼りにしていた地べたが遥か下にあるとんでもない状況に戸惑い、何度か飛び跳ねては助けを求めるように泣き喚いた。やがて自分と同じ容姿の化物に殺されたのだと思い出すと、首を懸命に振って周囲を警戒した。
死を実感するほどの思考を持ち合わせていない黒ネコは、本能に任せて危険を察知した。自分が苦し紛れに逃げ込んだあの路地裏に充満する深い闇を注視した。
闇は語らなかった。ただ赤黒い光を散らせ、かと思えば一箇所に収束し、何やら像を結ぼうとしていた。ネコはその像を知っている。自分達のように鋭い牙も爪もなく、大して耳も鼻も夜目さえ利かないが、自分達よりも大きく、どういう理屈か二本の足で立ち、独自の言葉、独自の能力で様々な物、文明、文化、社会と呼ばれる世界を創りあげてきた、この世で最も進化した動物の姿だ。
だが違うとネコは思った。理屈など飛び越えているから察したと言ったほうが正しいか。あの赤黒い発光体は、ニンゲンという動物ではないと感じた。ニンゲンよりも恐ろしく、ニンゲンでさえも太刀打ちできない、そんな途方もない強さを全身で嗅ぎ取った。
人型はその頭部に二つのまん丸とした真っ赤な目玉を浮き上がらせた。やがて目玉の上下に膜ができ、それが色々と形を変えた。膜から覗く目玉の形が細くなったり、山なりになったり、据わったり、あるいは出っ張ったり、引っ込んだりと忙しなかった。次第に充血していた目玉は白く平静を取り戻し、膜は目蓋としてその形を固定した。続けて睫毛、眉毛、鼻、唇、頬、顎と、顔に凹凸ができはじめた。
その作業の最中、ネコが威嚇した。気付いて見上げる人型は厚く薄くを繰り返す唇を裂き、大きな口でにたりと嗤った。肩を震わせ、高く低くと上下する声音で息を切らせた。
可笑しくてたまらなかった。今まで何百という生物を喰い殺してきたが、その度に皆同じ顔で自分を見下ろしているのだ。悔しかろうと同情するのも束の間で、何もできずに呆然と立ち尽くし、やがて突然の死を受け入れられずに霊に落ちるのだ。その無力で無様な姿が可笑しくて可笑しくて、それはもう感謝してしまうほどなのだ。
だから手を合わせる。だから頭を垂れ、「ごちそうさ――」
背筋に悪寒が走った。誰かに触れられたという感覚があった。人型は咄嗟に振り返り、同時に右腕で違和感を払い除けた。後ろには誰もいなかった。代わりに、腕の振りと同時に放った波動で、ビルの壁から地べたにかけて深い亀裂が入った。突然の地割れに道行く人が驚くが、人型の存在に気付いているようには見えなかった。
人型はしばらくその野次馬に目を凝らした。すると、耳のすぐ傍で声がした。
「ドッペルゲンガー、正体見たり――」
「何者だ!!」
人型の覇気は突風となって人々を蹴散らした。頭を振っても声の主の姿はない。なればと意識を凝らし、次いで拡散した。波動を全方位に輻射し、レーダーによる索敵と同じ原理で相手の位置を特定しようとした。しかし、何一つこちらに反射してはこなかった。
そう、何一つ。はたと気付いて空を振り仰ぐと、黒ネコの姿がなくなっていた。
索敵に用いた波動は半径五〇〇メートル圏内の死物の存在を感知したが、あの黒ネコが恐れをなして逃げ出したのだとしても、たった数秒目を離した程度でこの索敵範囲の外に出られるわけがない。
では、どこへ行った……?
まさか索敵範囲の外から、声だけをこちらに届けているとでも言うのだろうか。魂は記憶と精神の集合体で、波動という方法で互いの存在や声、過去などを認識し合っている。原理としては、理解できる。波動を繊細に扱える者がいるのなら、さながら長距離狙撃手のようにピンポイントで遥か遠くの対象に声を届けることも可能だろう。
「あな恐ろしや恐ろしや」
古めかしい口振りだが、若い女のものだと思える。きっと死後歴が長いのだろう。やはり、長らく死の世界にあって、魂の波動の扱いを熟知している輩の仕業に思える。
「貴様、姿を見せろ」
こうまで誰かに接触を許したことがなかった人型は平静を装いながらも、目をギョロギョロと忙しなく動かした。相手が少しでも顔を見せれば、すぐさま問答無用に喰い殺す算段なのだ。
見えない相手は何も答えなかった。しかし飛んで火に入る夏の虫とはこのことか、今し方殺し、唐突に姿を消した黒ネコが死んだ直後に出現した空間座標に、黒装束を纏った死物が逆さまになって佇んでいた。頭巾の下から覗く肌すらも墨で黒く塗りたくられ、雨上がりの月明かりを受けたが如く白目だけがいやに浮き立って見えた。その者は両腕であの黒ネコを抱いている。
コケにしおって。奪い殺すばかりの日々、嘲笑い愉悦に浸ることを楽しんできた人型――もといドッペルゲンガーという怪物にとって、この“怒り”という感情は久しく感じた覚えがなかった。だから我慢を忘れた。すぐに大きく、ワニさえもあんぐりとしてしまうほど大きく口を開け、一秒も与えぬほどのハイスピードで黒装束に肉薄した。
墨で覆われた瞳は、怪物の口の中に名状しがたい闇を、地獄を見た。指先で黒ネコの視界を塞ぎ、自身もそっと目を閉じた。
ドッペルゲンガーは黒装束の膝から上を、吊り下げられた餌に喰らいつくサメのように飛び掛って喰い千切り、飲み込んだ。
しかし、顔の周囲に光が散った。魂が幽体となって霧散したのだと察するや、五〇メートルほど後方に黒装束の姿を見た。その目は、笑っていた。
ドッペルゲンガーの激昂を見届けることなく、黒装束と一匹の黒ネコは一つ瞬きの内にその姿を完全に闇に溶かした。取り残された怪物は怒りと憎しみで空間を支配した。その凄まじい波動は、ゲリラ豪雨から落ち着きを取り戻し始めていた顕界に、再び激しい雷鳴と暴風雨を起こし、人々に負のエネルギーを押しつけることとなった。




