〔除幕‐jomaku〕②
その場で何もできず座り込んでしまう来宮ユウミと、倒れる人型の抜け殻に駆け寄る親友葦原タクの姿を、古城ミチヒデは一〇メートルほど上空から見下ろしていた。
事態がまるで呑み込めない。震える瞳は二人と同じ廊下の上、抜け殻のすぐ傍で突っ立っている男子生徒に向けられた。それに気付いた生徒が空を仰ぎ、宙に浮かぶミチヒデに笑みを浮かべた。単なる微笑ではなく、とても惨たらしい、残忍な笑顔だった。
そして何より、その笑顔の主は、古城ミチヒデその人だった。そっくりなんてものじゃない。瓜二つ。一卵性双生児どころか生き写し、クローン、コピーそのもの。このような存在のことを、ミチヒデは以前テレビでやっていたホラー番組を観て知っていた。しかしパニックが思考を遮って、ただただこの常軌を逸した有様を網膜に焼きつけることしかできなかった。
この場には三人の古城ミチヒデがいた。渡り廊下で倒れて動かないミチヒデ、その上空に何故か浮かんでいるミチヒデ、そうして動転する彼を嘲笑うミチヒデの、三人だ。
だが中空のミチヒデには解っていた。笑顔の自分だけは、本物ではないことを。自分が今、こうして見えている世界に存在しない、“何か”になってしまったことを。
「お前が、殺ったんだな」
それは怒りか、はたまた怯えか。わなわなと震えるミチヒデの問いに、彼の偽者は答えなかった。嗤っては、唇を舐めるばかりだ。
その挑発的な態度が許せなくて、ミチヒデは偽者に飛びかかろうとした。しかし宙に浮かぶ――いや、宙にあるらしい見えない足場に立っているミチヒデには、そこから飛び降りる術が分からず、その透明な足もとに拳を突きたてるのが精一杯だった。
彼の悔しげな表情をじっと見つめていた偽者がようやく口を開いた。
「あぁ~、美味だった」
感嘆。極上の料理に舌鼓を打ち、デザートの最後の一口まで堪能したようなご満悦で、偽者は溜め息まじりに言った。
「時間をかけて育てた甲斐があった。もうこの味に出逢えないかと思うと、少々残念ではあるが、まぁ仕方がないか。十人十色、一期一会というやつだ」
偽者がすぐ傍でそんな言葉をのたまっているというのに、来宮達には聞こえていないようだった。葦原の呼びかけに応じ、生徒から教員までもが渡り廊下に押し寄せてきた。生徒の一人が偽者にぶつかった。かと思えば、その生徒は偽者をすり抜け、ミチヒデの抜け殻のそばに立ち尽くした。偽者の存在を視認するどころか肌で感じることさえないようだった。
人垣を割って、安井教諭が現れた。彼は急いでミチヒデの手首や首筋に指を当てた。そして胸に耳を押しやりもした。わずかに心音を聞き取ったらしく、彼はすぐさまミチヒデのシャツを破いてはだけさせると、肘を伸ばし、重ねた手の平を彼の胸に何度も押しやった。胸骨圧迫、つまり心臓マッサージだ。
「AED!!」
彼の叫びに応じ、機転の利いた男子生徒が廊下に設置されているAED――自動体外式除細動器を取り出して戻ってきた。安井は再び心音を確認した。弱いながら速いリズムで心音が続いている。周囲の生徒をミチヒデの傍から離れさせると、AEDと接続された電極パッドをミチヒデの身体の各部に貼りつけた。もしもミチヒデの心臓が心室細動を起こしていれば、心電図が電気ショックを必要と解析してくれる。そうすれば使用者はすぐに電気ショックを起動できる。
しかし心電図は山も谷も作らず、平坦なまま。ミチヒデの心拍はすでに停止していたのだ。「まだだ!」と安井は叫び、胸骨圧迫を再開した。心停止から四分、それが一般的には人体の生死を分かつタイムリミットである。それまでに少しでも心臓が脈打てば――しかし、「先生、もう……」養護教諭が再度脈を取り、首を振った。
来宮の悲鳴がミチヒデの胸に突き刺さった。締めつけられるような痛みに耐えかねて右手を胸に押しやるが、鼓動は感じられなかった。それどころか真夏の日差しも、木の葉を揺らす風も、内外から受けるあらゆる感覚が全く感じられなくなっていた。
「何時の世も女子供はよく泣くものだ。まぁ、そのけたたましさこそが甘美だとも言えるが」
偽者は来宮に品定めするような厭らしい視線を向けていた。一息に身体が熱くなり、ミチヒデは身を乗り出した。そんな彼を牽制するように偽者が指を揃えた左手を向ける。ミチヒデはびくりと身体を震わせ、偽者の次の動きを警戒するしかなかった。
しかし偽者は、来宮に累を及ぼすような真似はしなかった。左手を身体の前に持っていき、右手と手の平を合わせ、目を閉じて深々と頭を下げた。
「古城ミチヒデ。ごちそうさまでした」
慇懃無礼に心にもない謝意を吐き捨てた偽者は人垣の中を歩きだした。生徒達の身体を次々とすり抜けていき、ついには煙のように溶けてしまった。
「待てよ」
ミチヒデはそれを追うように一歩踏み出した。しかし足が震えて躓き、宙に浮いたまま頽れてしまった。
「返せよ、オレの命……」
眼下では葦原がミチヒデの遺体を揺さぶっている。何でやと叫んでは大粒の涙を流している。座り込んでいる来宮は、顔を覆って自らの膝の上に蹲っている。
こんなことが現実に起こって良いのだろうか。良いわけがない。良いわけがないのに、どうしようもできなかった。とてつもなく高い壁に四方を埋め尽くされたような息苦しさだけが、彼を責め立てていた。
動揺を隠せないミチヒデは自分の亡骸を呆然と眺めた。この暑い日差しに炙られた渡り廊下のど真ん中で寝転がっている、自分の空っぽの肉体を。
華の高校二年生。青春真っ盛りで、勉強よりも部活や恋愛に精が出るお年頃。
そんな少年に突然訪れた儚い一七年間の、これが、幕切れだった。
七月一七日、午前一一時三七分。古城ミチヒデ、死去。
――――死因は、クーラー病。




