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ドッペル!  作者: 吹岡龍
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〔與-yo〕② 副社長は苦悩する

 至天門(してんもん)は言うなればワームホールの入り口である。ワームホールとは遠く離れた空間を繋げる直通トンネルのようなもので、そのトンネルを(くぐ)れば一瞬に――すなわち光かそれ以上の速さで出口となる空間へ移動できる時空構造である。

 それは天界にぽっかりと空いた大きな穴で、無色透明。しかしながら天界という次元と一際異なっていると判るのは、その半径約五キロメートルにも渡る円形の空間が、風浪を走らせる水面のように常に波打って歪んでいるからだ。

 顕界が、また天顕疆界が広大な空間を持っているのと同様に、ここ天界も果てしない世界の一部分に過ぎない。その茫洋(ぼうよう)とした白色の世界にあって、至天門という天顕疆界との通用口は天界の始点となっている。至天門を囲うように同じ高さのビル群が立ち並び、また壁のように横へ広がって、死物の活動領域を区切っているのだ。

 傍から見れば天界はまさしくユートピアである。ここへ辿り着いた死物の誰もが一度は思ったに違いないだろう。これまで傷つきながら生きていたことが馬鹿らしいと。死んでも尚、生にしがみついて霊落する者達の何と早まっていることかと。

 何故なら天界には醜いものが一切存在していないからだ。死物の心は穏やかで、皆が皆清らかな生活を送っている。ゴミもなければ、汚物もない。何も腐敗していない、豊かな緑の中に安らかな住まいが確保され、愛に満ちた日々を送れることが約束されている。まさに桃源郷、カナンである。

 しかしこんな世界にも現実というものが存在するならば、何と虚構に満ちた世界だろうかと、一年も天界で過ごした者達は悟るのである。実感の湧かないこの身体、この空間で目の当たりにする現象の(ことごと)くに、次第に魂が疲弊していくのだ。

 そうしていずれ、達観してしまうのである。〈死せずして、生を知るに及ばず〉とは、このことかと。

 至天門を起点として緩いカーブを描きながら横へ横へと延々と続く長いビルディング。これを天界における一つの会社が管理している。〈日本天界送迎センター(死)〉である。株式でも有限でもないこの(死)という文言が意味するのは、死物によって運営されているという、わざわざ明記するまでもないことをあえて明言するという、創設者である現会長によるくだらないお遊びである。一説には、例の格言をリスペクトしているのだとも云われているが、真実は会長のみぞ知るところである。

 天界が定めた地面という水平の足場に対して垂直な格好で至天門はある。天界送迎センターのビル群はそれを覆い隠すように(そび)えている。至天門から天界へと踏み入った死物はまず、突如眼前に現れた空港のようなエントランスに驚くことになる。エントランスの先には透明なガラスがあり、天界の様子を一望してさらに圧倒される。唖然とする彼らに声をかけ、死界や天界における様々な説明をし、彼らの不安に寄り添ってサポートするのが天界送迎センター・ガイドの役目である。

 彼らが意図せず訪れたのは、至天門の正面にある入界管理棟だ。ここでは戸籍が発行され、最初の住まいが提供される。しかし人生ゲームと違って資金はゼロからのスタートだ。仏教で有名な三途の川の渡し賃、ギリシャ神話のカローンをはじめとした冥銭は皮肉にも死後では全くもって役に立たないし必要がない。

 死物は飲まず食わずでも存在していられる。それだけで満足できず、生きていた頃に夢見た裕福で悠々自適な暮らしを求めるなら、何かしらの職につけば金を稼ぐことはできる。

 しかし金銭への依存度や存在感は顕界よりも希薄だ。それでもこうした通貨という概念が死界にも残っているのは、それが人類史上最大の発明であり、生きた証拠であるからだとされている。

 入界管理棟を抜けると、鳥居のような格好のビルをくぐることになる。そのビルこそが日本天界送迎センター(死)の本社である。

 地上四四階。本社ビル最上階の一角に副社長室がある。部屋の主である東海林(しょうじ)ツネオはスクエア・タイプのメガネのブリッジを押し上げた。髪はいわゆるバーコード、垂れ下がった目尻のシワは深く、ほうれい線に刻まれるそれからも察するに、享年は六〇代後半といったところだろう。一九七〇年代のスタンダードモデルである大きく開いた襟の二つボタンのスーツを何十年も愛用している。

 生前はある企業の専務を務めていた。社長になりたいという野望はあったものの、ついにその夢も叶わなかった。バブル崩壊の煽りを受けてその企業が倒産したのである。贅沢を極め、ろくに貯金などしていなかった彼の一家は離散した。

 夜中路頭に迷っていると、当時まだ全く流行っていなかったオヤジ狩りの最初の犠牲者となって刺殺されてしまった。犯人グループは若い男女、大不況は大人だけでなく子供達にも金銭と快楽への飢えを与え、凶行に走らせたのである。

 そんな経緯があって、東海林は一〇代後半から二〇代前半のいわゆる若者という連中が心底嫌いであった。だから秘書には享年三〇代の女性、しかも冷静で賢い者をつけた。東海林はいつも満足していた。天界へやって来る者全てが彼女のように落ち着き払って、賢ければと切に願っていた。

 今も彼女が淹れてくれたアールグレイに舌鼓を打っている。その味はきっと本場イギリスの五つ星ホテル、リッツ・ロンドンで口にした味を想起しているに違いない。願いが叶うなら、一度は美しく聡明な彼女が淹れてくれた本物の味を堪能してみたいものだった。

 天界新聞を目にしながらそんな欲求を膨らませていると、彼女の携帯電話が鳴った。最近の天界も随分便利になったものだと東海林は横目で眺めた。何度か返事をし、電話を切った彼女は言った。


「入管でトラブルのようです」

「向こうで処理できないのか」

「何やら訴えるなどと仰っているようで」

「最近は何かと多いな、モンスタークレーマーというやつが。この前は何だった、何を勘違いしたのか、ガイドが身体を触らせてくれないだ何だのと言いがかりをつけられたか。ああいう手合いも獄界が引き取ってくれればいいのだがな」

「不適切な発言かと」

「おっと、失敬」


 東海林はもう一度メガネのブリッジを押し上げた。


「それで、内容は」

「はい。相手は三郷(みさと)アンナさん、享年五歳。つい先程、飼い犬一匹を連れてお越しになられたようです。彼女の右腕にはガイド・マーカーでIDが記されており、インクに宿った〈魂の残滓(ざんし)〉からも彼女がガイドの指示によって至天門へ向かったことが確認されました。しかしそのIDが消しゴムで消せないとのことで、彼女は弊社を訴えると仰られているようです」

「つまり、マーカーが不良品だった――ということか?」

「はい、そのようです。生産工程ではしばしばこうした不良品が見つかるようで、そうした検品の不手際で流出し、事故が発生した先例も一件だけですが、あります」

「インクを落とす方法は」

「あります。少々手間がかかりますが、魂にこびりついたものを完全に除去できます」

「その少女には最大限のお詫びをして差し上げることとしよう。会長、社長には、私から話をつけておく」

「かしこまりました」


 秘書は一礼すると、踵を返した。東海林はドアノブに手をかけようとした彼女を呼び止めた。


「待て。三郷アンナさん、だったか。彼女に天界へ目指すよう促したガイドは誰だ。お客を、それも幼い子供を一人でこちらに寄越すとはあまりに無礼な対応だ」

「……神野ハナです」


 メガネがずり落ちた。また、あの小娘か。


「もう一つ訊くぞ。神野ハナは何故、三郷アンナさんをお連れして帰還しなかった」

「分かりません」

「これは個人的な見解による質問だ、直感で答えてほしい」


 秘書がうなずいたので、「先の御重永アサコの違反行為と関係があるだろうか」彼女は一つ瞬きすると、「あると思われます」東海林はメガネをかけ直して命じた。


「御重永アサコを呼び出せ」


 彼の顔は青褪めていた。




 しばらくして御重永アサコが召喚に応じた。

 椅子に座らされた彼女の表情は固く、しかしながら覚悟を決めているようでもあった。


「呼び出したのは他でもない――」


 アサコは彼の言葉を待ちきれず、唐突に立ち上がった。彼のデスクに近付き、辞職願と記された封書を差し出した。彼女は深く頭を垂れた。


「この度は大変申し訳ございませんでした。私の浅はかな判断で法を犯してしまいました。私が自らに課すことができる罰と言えばこのくらいのもの。他に罰が御座いましたら何なりとお申しつけください」

「待て待て。確かにお前の行為はとても認められるものではないし、我が社の規範だけでなく天界の法に(もと)る重大な違反であった。これに関しての処罰は後日追って通達すると先程伝えたとおりだ」

「は、はぁ。では、何故またお呼び出しを?」

「神野ハナについてだ」


 アサコは嘘が苦手な女のようで、正直に目尻を引きつらせてしまった。


「何か知っているなら正直に話せ」


 地区長は答えなかった。副社長は腹の中を何かが蠢いているような不快感に口を押さえた。言葉を継ごうとするが、幾度か躊躇った。彼にとっては口にするのも恐ろしい女の存在が脳裏にチラついていたからだ。しかし致し方がないと(ほぞ)を固めた。事が大きくなる前に処理しなければ、今後どのような禍根を残すか分からないのだから。


「も、もしやとは思うが。ひ、ひひ、日吉ヒヨコが、かか関わってはいるまいな?」


 年甲斐もなく上ずった彼の言葉に、アサコは瞳を左上へ大きく遠ざけた。


「日吉ヒヨコは何処だ! まさかヤツも神野ハナと行動を共にしておるのか!?」

「いいえ、日吉ヒヨコは〈贔屓(ひき)の海〉へ向かったようです」


 秘書の補足に、東海林は両手で頭を抱えて突っ伏した。

 〈贔屓の海〉と言えば、あの“叡智の楼”がある。つまり弊社始まって以来の問題児が、あの天界一、もとい死界一自由人の昼前時アカネに会って、何らかの悪知恵を働かせているということに相違ないはずだ。

 これはマズい。ますますマズい。

 思えばこの二人は東海林が最も苦手とする享年二〇代前半の女共だ。これ以上あの連中を天界にのさばらせるわけにはいかない。日吉ヒヨコについてはクビを切れば済む話だろう。それでも一悶着はありそうだが、乗り切ることはできる。問題は昼前時アカネだ。アレは一筋縄ではいかない。あの女は今や、天界における全ての権限を握っていると言っても過言ではない。天界で巨大な利権を持つ我が社の会長でさえも、あの女には頭が上がらないのだから。


「御重永君、正直に話しなさい。キミにはその義務があるはずだ」


 押し黙るアサコに代わって、秘書が二の句を継いだ。


「先の三郷アンナさんのお話によれば、神野ハナは男性と連れ立っていたとのことです。しかしながら御重永地区長の部下に男性ガイドは存在しません」

「つまり、どういうことだ」

「神野ハナは死物になったばかりの男性と恋に落ちて天顕疆界をランデブー。それを御重永地区長と日吉ヒヨコは黙っていらっしゃる」

「「…………」」


 秘書の顔はいたって真面目で、それが彼女の豊か過ぎる想像力から置き去りにされた二人にはとても恐ろしく思えた。

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