〔魅-mi〕⑤ 手がかり
直上から西へと傾きはじめた陽光は、時折厚い雲に覆われている。エルニーニョ現象――南米ペルー沖の太平洋赤道域東部の海面水温が平年の平均温度を上回る現象――で今年の日本も冷夏に見舞われ、農作物がその影響を強く受けている。と言っても、この国の夏は今年も例に漏れず蒸し暑く、一部地域では昨年の最高気温を越えるなど、冷夏とは名ばかりでさながらカオス理論的な型にはまらない実情がこの列島を襲っている。
連なる雲の固まりは地上に大きな影を落としてはいたが、その暗雲も素早く駆け抜けていくので、外出している人々はその度に空を仰ぎ、うんざりした顔を日輪に向けている。古城ミチヒデはそんな彼らが見ることのできない高さから、地平線の彼方より迫り来る巨大な積乱雲の姿を確かめた。小学生の頃にはすでに習っていた。近いうちに、雨が降ると。
彼が死亡して、すでに二四時間が経過した。両親との別れを惜しんでいられる猶予は今の彼にはなかった。彼がここ、天顕疆界に滞在していられる時間は残り三五時間もない。
並みの死物は六〇時間を超過して滞在すると霊になってしまう。そうなれば取り返しがつかない。問答無用に獄界へ落とされるばかりか、つまりはミチヒデにとっては目的の達成が叶わないことにもつながる。ドッペルゲンガーに復讐するという宿願が果たせないということだ。
自然、ミチヒデの足どりは焦りを覚えて速くなっていた。しかし爪先はその度に迷っていた。目的地が分からなかったからだ。当然だ、通り魔的に殺されたミチヒデに、ドッペルゲンガーの現在地など分かるはずもないのだ。しかも、ここは天顕疆界。生物の世界である顕界とは隔絶された別次元にある。生きた通行人に声をかけたところで、誰も彼の存在に気付くことはない。
かてて加えて、彼には悪条件が重なっていた。この地域の天顕疆界には死人が全く見当たらないのだ。何かしらの事件や事故がない限り死人が出ないのは当たり前だし、世間は平穏無事であって然るべき。死人が一人も出ない日があっても何ら不思議はない。しかし彼らがいるこの空間はあまりに澄み切っていた。
「私、働き者やから。てへっ♪」
彼に同道する天界送迎センターのガイド――神野ハナは恥ずかしそうに頬を掻いた。ここぞとばかりに自画自賛する彼女にミチヒデの苛立ちは最高潮に達していた。
天顕疆界に長期滞在できるほど生への未練を残さないこの女は、ひと月もの間休まず帰らず四六時中担当地域を巡回し続け、死んだばかりの魂をひたすら天界へ送迎し尽くしていたのだ。そのお蔭か、そのせいか、天顕疆界には彼らが直接話を聞ける死物の存在が皆無で、情報収集は困難を極めていた。
「その割にあのコウジって人を見落としていたよな」
「あ、アレは、家の中におったからや! しかも担当地域は結構広うて――」
ミチヒデは肩をすくめて先を進んだ。最後まで話を聞けと追い縋る彼女だったが、ミチヒデが背を向けたきりでいると彼女も頬を膨らませてそっぽ向いた。それでも彼の後について回るのは、日吉ヒヨコの命令ということもあったが、彼女の仕事に対しての実直さや、彼女が自らの本質に背けないからでもあるだろう。
どうして先輩は……。
そんなフレーズがミチヒデの耳朶に触れた。脳裏によぎるのはヒヨコの目と言葉、そして肩に置かれた手だ。熱かった。布越しにも汗ばんでいることが分かったのは、やはり自分達が魂であり、幽体と言われるものであり、それが記憶と精神の集合体であるからだろうか。
「そもそも異物でさえも珍しいのに、あと一日かそこらで見つけるやなんて無理や」
「無理かどうかは後で決める」
「砂漠でたった一粒の砂金を見つけるようなもんや。しかもそれと全く同じ物をもう一つ見つけて、どっちかが偽者やってことを証明せなアカン」
足を止めない彼の前に回り込んだハナは訴えるように言った。
「そもそも異物は本来〈異界〉にいるとされとる。顕界、天界、獄界、その三つのどれでもない、どこにあるかも分からん場所や。異物はまさしくこの世の異端児や。全ての空間を自在に行き来できるいう話や。残り間もない時間でそんなヤツを探し出そうやなんて天文学的確率やと思わへんか!?」
「お前の言っていることに確証を感じない。説得したいなら数字なり何なり用意しろよ」
まぁ、そんなものでオレの気持ちは変わらないけどな。
ハナは顔を真っ赤にして口を真一文字に結んだ。生前も含めると二六年も意識を有している女とは思えないワガママな目で少年を睨みつけていた。
そんな彼女に、少年はふと浮かんだ疑問をぶつけた。
「なぁ。お前はどんな風に死んだんだ」
それは彼にとって素朴な問いだった。あの痛ましい記憶を持つヒヨコをして、自分の死の経緯など足下にも及ばないと言わしめるほどの過去とは何なのかと。こうまで彼女が自分の道を塞ぐ理由は何なのかと。
「お前はオレと同じなのか。異物ってやつに殺されたのか」
ハナは俯いていた。下唇を噛み締め、拳を固く握っていた。しばらくして彼女は問うた。
「覚悟、あるんか? いや、あってほしいな。もういっそ、見てもらいたいわ。そしたらアンタはきっとビビッて、その足を天界に向けてくれるはずやから」
ミチヒデは息を呑んだ。辛うじて足を引かなかったのは、彼にも復讐という大義名分があったからだ。しかしそんなものが本当に大切なのか、意味のあることなのか、少しでも疑ってしまう自分がいるのは何故だろう。
ハナがそうさせるのだろうか。
「あのときコウジさんに触れようとしたんは、私の過去を一〇〇パーセント確実に彼の魂に伝えるためや」
目尻に涙を浮かべる彼女の瞳は昏かった。それはドッペルゲンガーが見せた色によく似ていた。鼻息を荒くしながらも、感情を押し殺して彼女は告白した。
「そうや。私は異物に殺された。私の記憶でアンタの無謀を止められるんやったら、私は喜んであの日の――」
大きな音がミチヒデの中を突き抜けた。ハナの記憶に噛みつかれたのかと思いきや、当の彼女は足下をジッと見つめていた。
顕界のありふれた日常が壊れた音だったらしい。いや、常に起こり得ること、それこそありふれた日常であるにも拘らず、平時は人々の意識の外にあるか、あるいは何の根拠もなく起こり得ないと高を括っていた者には青天の霹靂ほどに驚嘆してしまったことだろう。
住宅地の一角。東西に走る二車線。北には公園、南にはウィンドウショッピングが楽しめるような小売店が軒を連ねている。
横断歩道を遮るように一台の白いプリウスが停車している。紺色のコンクリートに黒々としたブレーキ痕が焼きつけられている。車の両脇――向かって左には幼い女の子、右には柴犬と思しき成犬がそれぞれ倒れている。
交通事故だ。人身事故だ。車が少女と犬を撥ねたのだ。共に大量に出血して、目も当てられない様相だ。
ミチヒデは居ても立ってもいられず、階段を下りるように足を動かした。そんな彼の肩をハナが掴んで、「行かんでいい」どうしてと声を荒げる彼の問いに彼女は答えず、ジッとその事故現場に視線を注いだ。
車が前進しはじめた。現実から目を背け、白昼堂々逃げ出したのだ。
「な、お、おい!!」
ミチヒデの制止など聞こえるはずもなく、車は無茶な追い越しを繰り返して、大通りの車の群れにその姿を隠した。
何てことだ、轢き逃げだ。しかしまだ追える。こうやって空中を浮遊していられる自分ならば、ヘリコプターの代わりに追跡できる。
でもどうやってあの非道な運転手の居場所を彼らに伝える。死んだ人間が生きた人間に、どうやって。
「アサコさん!」
「は?」
「アサコさんがやってた水を使ってするアレなら、警察に居場所を教えられる!」
「〈水鏡の行〉のことを言うてるんやったらアレは使えへんで」
「どうして!」
「アレを使えるんは送迎センターのガイドでも二〇年以上在籍しとる人だけやって天界の法で決まっとる。しかも〈守護イベント〉でのみや。アサコさんはその決まりを破ったんや、きっと今頃副社長やら人事部あたりにこってり絞られとる」
「死んだオレ達なら解るだろ。命はたった一つなんだ、あの子達にとってもそうだろ!? そんなつまらない決まりを理由に命を見捨てられるか!?」
ミチヒデは頭にハリセンを打ち込まれた。振り払うと、ハナは言った。
「落ち着き。言うてることが滅茶苦茶や。あの子を助けたいんか、それとも犯人を懲らしめたいんかどっちや。そもそも、そういう顕界への不要な干渉が未練を生むってことを何も分かってへん。それにもう何やっても遅いし、アンタの声なんて誰も必要としてへん」
「どういう――?」
車道の脇に倒れる少女。おそらく四、五歳だろう。事件を見かけた、あるいは通りかかった人達が彼女らのそばに駆け寄っている。
赤い血に紛れて、光が漏れ出しているのが見えた。
「魄が破れた」
「はく? はくって何だ」
「肉体に魂を留めるための膜、檻。魄があるから生物でいられる」
少女らの肉体から無数の光が泡のようにしてミチヒデ達の足下へ立ち上ってきた。光の粒は二つに分かれ、やがて像を結んだ。空中に、いや天顕疆界に、少女とその飼い犬と思しき柴犬の魂が出現した。
倒れ伏せるその姿は事故現場のそれと全く同じだ。ミチヒデは全身に迸る悪寒に身悶えた。路上の彼女らの遺体を取り囲む通行人の姿が、俯瞰した光景が、昨日の自分の死亡現場と酷く重なって見えた。
男性がほとんど怒鳴るようにして携帯電話をかけている。轢き逃げだ、ナンバーは云々と通話相手に叫んでいる。おそらく相手は警察だろう。
救急車がやってきた。しかしハナの言うとおり、もう遅い。そのいたいけな少女と犬の魂は、死後の世界に渡ってしまった。
ハナは歩き出した。寝そべって動かない少女を抱え起こし、「お嬢ちゃん、起きて」
少女の薄い目蓋が素早く動き、その純朴な瞳が見慣れない女の姿を捉えた。彼女が目を覚ますと柴犬も頭を擡げた。少女を見つけるとその特有の丸まった尻尾を忙しなく振り、舌を出して息を切らせては彼女の頬を何度も舐めた。
過剰なスキンシップに笑顔を見せる彼女は、ようやく自分がいる場所を把握したらしい。
「おソラや……。すごい、おソラにたってる! すごいすごい!」
無邪気にはしゃぐ姿には目を覆わずにはいられない。ミチヒデは無慈悲な現実に吐き気さえ催してきた。対照的にハナはこれ見よがしに髪をかき上げると、腰を下ろして少女に声をかけた。
「はじめましちぇ、死人しゃん。魅惑のちぇん界へごちょうちゃい、天きゃい送迎センチャーでふ♪」
壮大に噛みやがった。大人のお姉さんオーラ全開で出張ってこれは恥ずかしすぎる。
ミチヒデは彼女が哀れすぎて言葉を失った。少女はきょとんとして小首をかしげているし、何より柴犬が空気を読んで彼女の肩に右前足を置いている始末だ。彼女は白目を剥いて固まってしまった。
嘆息を漏らした少年が名乗り出た。
「オレは古城ミチヒデ。悪いんだけど、この可哀想な女の人にキミのお名前を教えてあげてくれないかな?」
「しらないひととはなしちゃアカンて、ママがいってた」
「そっか、そうだな。キミはえらいね」
「そうやで! アンナね、しょーらいパパみたいなイケメンこーむいんとケッコンするからエライんやで!」
どんな教育を受けているんだとミチヒデは愕然とした。そもそもこんな子供に犬の散歩をさせている時点でお察しなのだが。
「へぇ、アンナちゃんはエライねぇ」
「ど、どうしてアンナのおなまえしってるん……? ワルイひと!?」
アンナ嬢はプルプルと震え、飼い犬に抱きついた。眉を八の字に寄せ、大きい目の周りとほうれい線のシワを濃く刻むその顔は楳○先生の漫画からそっくりそのまま抜け出したようだった。
犬共々そこまで悲壮な顔を湛えずとも。ミチヒデは怯える彼女からどうやって警戒心を取り払おうかと思考をめぐらせた。
「ワンちゃん、お名前は?」
ハナが復活していた。よしよしと犬の左頬を撫でている。その手をアンナが振り払い、「おしえないもん」と舌を出した。
「なるほど、ハテナちゃんか。左耳の後ろに、白いクエスチョンマークの模様があるんやね。カワイイカワイイ」
「え、ど、どうして、なんで!?」
まるでエスパーだ。ミチヒデも何をしたのか気になったが、彼女と出逢って数時間で得た知識から、その答えは容易に導き出せた。
魂の波動だ。魂はエネルギーを全方位に放出している。そのエネルギーには記憶や精神が多分に含まれているのだ。ハナはハテナと呼ばれるこの犬の魂に触れることで、過去の記憶を読み取ったのだろう。
彼女はメモ帳にペンを走らせた。きっと少女らの名前を記入しているのだ。まるで事情聴取を行なう婦人警官だなとミチヒデが思っていると、ハナはたおやかな笑みで言った。
「私は神野ハナ。ハテナちゃんと一字違いやね」
「……ママは? ママはどこ?」
「どこやろうねぇ。そうや、お姉ちゃんが一緒に探してあげるで」
「ほんま?」
深く彼女はうなずいた。差し出した手をアンナが握ると、犬のハテナも二人についていった。
ミチヒデは眼下の事故現場を見下ろした。遺体を乗せた救急車はすでに走り去ったあとで、アスファルトに溜まった大量の血が側溝へと流れ出していた。
ハナは少女の気を逸らし、問いをはぐらかすことに終始した。徐々に高度を上げて歩いていく。その爪先は御重永アサコと日吉ヒヨコが、コウジという死物を連れて消えていったほうを向いている。
ミチヒデの全身が総毛立った。走り出し、ハナの腕を掴んだ。
「待てよ! そんな騙まし討ちみたいな真似して!」
キッと睨まれたので、彼は咄嗟に手を離した。
「安心しぃ、今は何もせぇへんよ。こんな可愛らしい子を連れとる間は、何も」
二人の不穏な気配を敏感に感じ取ったのか、アンナはハナから手を放すとどうしたのと眉を顰めた。次第におどおどして、終いには、「おソラあきた! ママにあいたい! おウチかえりたい!」と愚図りだした。
大粒の涙を流す彼女を気にかけて、ハテナがその涙を舌で舐めあげた。彼女はまた愛犬の横っ腹に顔を埋めた。
「ハテナは大人しくて優しい犬やね。アンナちゃんの躾がイイのかな?」
あからさまに取り繕ったその言葉に反応し、アンナは顔を起こして大きくうなずいた。さらには胸を張って、「そうやで、アンナえらいんやで!」と鼻高々に肯定した。しかし先程は突然吠え出して驚いたとハテナの頭を撫でた。
ハナはどういうことかと問うた。アンナは語り出した。たどたどしい語り口だったが、彼女の魂の波動がミチヒデ達に事故直前の様子を幻影として周囲にありありと映し出すのでよく解った。これは彼女が見た現実、脚色されていない真実だ。
昼過ぎ、家の周囲をハテナと散歩するのがアンナの日課のようなものだったらしい。彼女の母親はおよそ聡明とは思えない女性で、ざっくばらんとした人物だったようだ。テレビニュースは他人事、自分の周囲では起こり得ない、だから家の周りならば娘を遊ばせていても問題ないだろうと、その日も彼女のことを自由にさせていた。過保護が正しいとは言えないが、まだ小さい子供に犬の散歩を任せることもまた適切とは言えないだろう。それでもアンナにとっては唯一の母であるから、ママというフレーズを口にするたびに彼女は鼻を啜っていた。
五歳と言えば好奇心旺盛なお年頃だ。アンナはこの日、言いつけに背いて近くの公園に足を伸ばしてしまった。車道を隔てた先にある公園に行くため、横断歩道を目指した。公園には多くの愛犬家が集っており、色んな犬を見ることができるので、アンナはとても好きだった。
信号まで五〇メートルほどの距離。目の前を一匹のネコが横切った。右前足だけ白い靴下を履いたような模様の黒ネコだ。それは車道へ飛び出し、公園へ入っていった。この道路は車の通りが比較的少なく、動物だけでなく人間でさえも信号無視をして渡るのは日常茶飯事だった。
アンナはネコちゃんだと叫んだ。ぼんやりとその黒い尻尾が遠退くのを見つめていると、また進路上を黒いものが横切った。見ると、さっきと全く同じ模様のネコが、前者と同様にガードレールの下の隙間を潜り、車道へ飛び出した。
途端、ハテナが吠え出した。アンナも見たことがないような剣幕、聞いたこともないような声で何度も吠え、ネコを追いかけようと自分も車道へ躍り出ようとしたのだ。それは危険を感じて片時も目を離さぬよう警戒しているようでもあるし、反面まるで魅了されたように盲目になってしまっているようでもあった。
『ダメでしょ、めぇっ!』とアンナは懸命にあらん限りの力でリードを引っ張った。対するハテナも野性に目覚めたような凄まじい力で抵抗した。ガードレールに前足をかけ、対岸の歩道へ行き着いた黒ネコに吠えた。
ハテナが走り出した。横断歩道へ向かい、車道へ踏み入った。引っ張られるような格好になったアンナの幼い瞳は歩道の赤信号を捉え――突如、視界がブラックアウトした。
少女の記憶に没頭していたミチヒデは周囲に目をやった。地上の光景から一転、事故現場上空に戻っていた。少女はというと、唇に人差し指を押し当てられていた。誰にとはなど言わずもがな、死界でのあらゆることを熟知している天界送迎センターのガイドにだ。
彼女が少女の記憶に蓋をした理由は、足下を見れば得心がいく。あの惨状だ、もしもあのまま続けていれば、ミチヒデ達は車に撥ねられる感覚を味わわされることになっていたはずだ。
アンナはぼうっとした目でハナを見つめていた。瞬き一つしない彼女に、ハナは向日葵のように明るい笑顔を湛えた。アンナはそれを誰と重ねたのだろう。夏の陽気に染められた頬を隠すようにハテナの身体に抱きついた。
ハナはハテナの頭を撫でた。むしろハテナのほうが彼女の手に吸いついた。鼻の頭をこすりつけ、ザラザラした舌で忙しなく舐めるのだ。ふふと微笑を浮かべる彼女は、人差し指でミチヒデを呼びつけた。その偉そうな態度にむかっ腹を立てながらも、彼は不承不承と言った具合に彼女へ歩み寄った。
すると、胸倉を掴まれた。姿勢を崩したミチヒデの額はハテナのそれとぶつかった。
突如として現れた青白い世界は、彼の脳裏を瞬く間に支配した。犬、おそらくハテナの鳴き声が何度も鼓膜を苛み、そのたびに特有の色彩で満たされた視界は揺れた。おそらく歩道から車道に向けられた視線。車は通っておらず、信号待ちで止まっている車さえ見当たらなかった。車道を横切った黒ネコが、向かいの歩道のガードレールの隙間を潜る前に振り向いた。
途端、その小さな体躯が歪んだ。まるで魚眼レンズで覗いたように、その姿を大きくしたり細くしたりと、あり得ない姿に変えていた。その様はまさしく化物。
ミチヒデには覚えがあった。ネコの姿ではない。この視界の主であるらしいハテナを通じてこちらへ送られてくる寒々しく不愉快な感覚を、彼はかつて感じたことがあるのだ。肌ではない。むしろ身体の内側から。
――ドッペルゲンガー。
ミチヒデは自力でハテナの回想から正気に戻った。尻から落ち、全身から一息に汗が噴き出た。あのネコはまさか。そんな同意を求める目をハナに向けると、彼女は多少不服そうにうなずいた。
「そいつに遭ったアンタが本物や言うんやったら、そうなんやろうな」
「オレだって確証はない。でも、オレはこのネコを追う」
「腰抜かしとるみたいやけど、追いかけた後、何かできるん?」
「あ、アイツがネコにまで化けられることに驚いただけだ!」
「確かに私も驚いたわ。ドッペルゲンガー言うたら人の真似するってイメージやもんな」
ハナは外していた白手袋をはめながら一考した。何か引っかかることがある気がするのだ。行儀良く座しつつも落ち着きなく尻尾を振るハテナを見下ろした。あの黒ネコが振り返った瞬間の映像が頭にこびりついて仕方なかった。
もう一度覗いてみるか。そう思い面倒だが白手袋を再び外そうとした。それを遮るように左手の袖をぐいと下へ引っ張られた。あどけない丸い瞳が大粒の雫を垂れ流していた。
「ママに、あえないの? アンナ、ママ……」
アンナは顔をぐしゃぐしゃにして、その場に蹲った。
泣きじゃくる彼女からミチヒデはまた目を逸らした。昨日、自分はこの世で最も不幸な人間だと疑わなかった。みんなまだ生きているのに、将来があるのに、自分よりも年上の人にも人生が残されているのに、どうして自分だけがここでリタイアしなくてはいけないのだと他者を憎み、偽者を呪った。
でも今なら解る。死は誰にでも訪れ、所詮は早いか遅いかでしかないのだと。
しかし、この少女アンナはどうだ。生を実感するにも、死を理解するにもあまりに幼すぎるのではないか。一七年も何事もなく漫然と生きてきた自分のほうがきっと幸せの意味を知っているだけマシなはずだ。
あ、と息を漏らしたきりアンナは泣くことをやめた。全身を包まれていた。知り合ったばかりの女性に強く、深く、心まで温められるように抱き締められていた。
「ママとおんなじやぁ……」
それは温もりを指しているのか、はたまた匂いについてか。彼女の穏やかな顔を見ればどちらでもいいとミチヒデには思えた。同時に、少女の情緒がこうにも大きく切り替わった要因がハナにあるはずだとも疑った。
当のハナはアンナから身体を離した。少女は名残惜しそうな顔をしたが、彼女は里心をつかせないかのようにそっと少女の手を押し返した。そして胸ポケットから赤いフェルトペンを取り出した。キャップを抜き、何もない空間にペンを走らせた。するとペン先の軌道を追って、宙に赤いハートマークが描かれた。まるで無色透明のガラス板に描かれているようだったが、視点を変えてもそのような仕掛けは見つけられなかった。
「マホーみたい……。おねーちゃん、もっかい! もっかいやって!」
赤いインクにラメのようなキラキラ光る塗料が混じっていることもあってか、嬉々として少女は飛び跳ねる。元気になった彼女を嬉しく思ったのだろう、ハテナも尻尾を振って息を切らせている。
「そんじゃあ今度はでっかいのいくでぇっ!」
ハナはペンを下から上へと振り上げた。始点こそは彼女らの足下で、ペン先から始まっていたが、次第に軌道ではなく、軌道の延長線上の離れた空間に一本の煌く赤い道が描かれた。それは雲の上、空の彼方まで続いている。
「コレは天界製のフェルトペンや。使う死物の意識に合わせて、好きな場所に好きなように何でも描ける便利グッズやで。同じ原理を使って、獄界の使者も顕界で生きとる罪人にマーキングしとるって話や」
「びっくりぽんや! おねーちゃん、ド○ミちゃん!? きいろいふくきてるし、ド○ミちゃんやんな!?」
「あ、あのね、アンナちゃん。今ちょっと著作権に敏感なの、不穏当な発言は控えてね」
ハナは何かに怯えているような素振りで少女の口を押さえた。少女はその何かを本当にいけないことなのだと察したようで素直にうなずいた。ダメなものはダメだと理解できる点では、彼女は大人よりも利口なのかもしれない。
アンナと同じ目線まで腰を下ろして、ガイドは言った。
「アンナちゃん。この道を辿るとすごく綺麗な場所に着くんよ。きっとね、アンナちゃんが喜ぶような景色が待ってるで。でもそこへ行くためには絶対に振り返らんといてね。振り返ったらその景色は見られへんから」
「うん、うん」
「歩いていったらな、私と同じ服着たお姉さんがおると思うから、その人にこの絵を見せてあげて。そしたら色々案内してくれるで」
強く言い聞かせる彼女の言葉にアンナは深くうなずいた。きっと言いつけを守ろうとしているのだ。母の言いつけを破ってしまったから、今度こそは。
従順な少女の手を取ったハナは、フェルトペンをその細く柔らかな手首に押し当てた。小さなハートマークを描き、〈アンナちゃん〉と記すと、その下に十桁ほどの数列を並べた。
「何だその番号は」
「私のIDや。インクに私の波動が染みついとるから分かると思うけど、一応な」
「ふぅん。あのさ、ついでだから聞くんだが、そのインクはちゃんと消せるのか」
「消せるで、この消しゴム使うたら」
そう言ってハナはまたもや胸ポケットから消しゴムを取り出した。まさに四次元ポ〇ットだとミチヒデは思ったが、口にはしなかった。言わぬが花というやつだ、ハナだけに。
彼がつまらないことをモノローグで呟いていると、「アレ? アレアレ?」と少女の手首に消しゴムを押し当てている彼女が冷や汗を垂らしていた。
「おい、お前まさか――」
「いやいやいやいやありえへんから! いやマジで! ホンマ、ホンマにコレ、え、でもっ、あるぇっ!? いやだって、こうしたら普通は、うえぇっ!?」
どうやら消せないらしい。ミチヒデはとりあえずアンナをこの無様なガイドから引き剥がすと、優しい笑みで言い聞かせた。
「いいかい、アンナちゃん。あの馬鹿と同じ格好の人と会ったら、“知らない女の人に落書きされました。今後の生活に支障を来たす虞があるので御社を告訴します”って言ってね。そうしたらきっと、お姫様みたいな贅沢な暮らしが保証されるよ」
「ホンマ!? わたしオヒメサマ、ホンマ!? アンナ雪姫になれるん!?」
ミチヒデは彼女が忘れないようにもう一度セリフを繰り返した。アンナ嬢はとても真剣にセリフを覚えていた。その目にはもはや綺麗なドレスに身を包み、嫌というほど宝石を鏤めたティアラを被った彼女が、世にも不思議な氷の城で催される舞踏会でイケメン王子と踊っている姿しか映っていなかった。
またしても頽れるハナの肩にハテナは前足を置いた。ハナは涙を拭うと、その大人しい犬の顔を両手で包んだ。
「ハテナ。いい、ハテナ? 今度は絶対にアンナちゃんを守るんやで。余所見なんかしちゃアカンからね、ぜーったい!」
クゥーンとハテナはか細い声で鳴いた。多少なりとも自責の念に駆られているらしい。
続いてハナは少女の手を取った。
「アンタは一人ちゃう。ハテナだけともちゃう。みんな、アンタ達の味方や。私も、そしてこのお兄ちゃんも、あとで必ず向かうからね」
待っていて。
彼女の言葉に少女は快く応じてくれた。愛犬のリードをその小さな手で握った少女は、頼りない足取りで赤く輝く道しるべに沿って空高く上っていった。雲を割って進んだ彼女は、きっと短過ぎた一生では捉えたことのないスペクタクルを目撃していることだろう。
言いつけを守り、決して未練を残さなかった彼女達には、虚ろながらに幸せが待っているに違いない。ハナも、そしてミチヒデも、その一人と一匹の小さな後ろ姿が見えなくなるまでずっと見守り続けていた。
「なぁ。どうしてあの子は泣き止んだんだ」
「……私には幸いなことに、誰かに愛された記憶がある。そのとき感じた喜びとか愛おしさ、温もり、ニオイ、そういったプラスの感情・感覚を届けただけや。アンタの言葉を借りれば、騙まし討ちやけどな」
「そんなものは騙しているとは言わない。優しいって言うんだよ」